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サクラソウ

 ……つもりだった。


 顔が何か温かいものに当たり、視界は白く染まる。


 中腰くらいの体制で止まった紫苑の身体は、紫苑が理解するよりはやく後ろに重心を持って行きベンチに座り込んだ。


 目の前にはあの少女、菊がいた。顔は驚いた表情をしており、その手には五輪の小さな花束があった。


 おそらく、顔に当たったのは菊のお腹あたりなのかもしれない。気付かずに立ち上がっため、当たったのだろう。


「……なに」


 紫苑が声をかければ、菊は突然もぞもぞとしだし、少し顔を赤らめてその小さな花束を差し出してくる。


「こ、これ!」


 小さな花束と菊の顔を交互に見て、紫苑は首をかしげる。


「なに? これ」


 残念なことに紫苑は花に明るいとは言えない。


 ゆえに、菊が差し出した花の名前も、菊の意図もわからなかった。


「あげる! だから、その、元気出して……?」


 すでに差し出す、ではなく押し付けるかたちになっている花束は、菊の手によって強く握られ少しだけ弱弱しくなっていた。


(この子には、あたしは元気に見えなかったのだろうか。いや、疲れているから元気とも言えないのは確かなのだけど……)


 紫苑はしぶしぶといった体でその花束をもらう。でないと、冬服に花粉がついて取れなくなりそうだったからだ。そう、内心で言い訳をする。


 もらった花束を見てみる。


 どうやら五輪だと思っていた花は、一つの茎から分かれたモノだったらしい。花弁は二、三センチの小さなもので、五枚の花弁からなっている。そしてその一枚一枚がまた半分ほど裂けており、桜を連想させる。色は桜ほど薄すぎず、紅梅ほど濃すぎずの赤色だ。


 紫苑はもう一度、菊の顔を見る。


 菊はとても嬉しそうに紫苑の手の中にある花束を見ていた。


(きっと、この子は、あたしが花をぐしゃぐしゃにするとか、そういうことは考えていないんだろうな……)


 別に、紫苑は自然は嫌いではないし、もらった花を無碍に散らせたりはしないが、この純粋無垢そうな菊を見ていると、そんな黒い思考にとらわれかける。


 きっと、今まで優しい人たちが周りにいて、優しい世界で生きてきたのだろう。


 あたしとは違って。


 紫苑の幼いころからの世界といえば、自分以外誰もいない家に、なんも音のしない部屋に一人ぼっち。それが当たり前だった。親は、一応、いる。ただ、最後にあったのは母親は一か月前、父親は、半年くらい前だろうか。いないことが普通で、いるときのほうが異常。それが、紫苑の世界。


 親は生きているし、片親などでも、親から何かしらの暴力を振るわれたこともない。そういう意味では紫苑も恵まれているのだろうが、やはり、寂しい部分はあった。


 もう、慣れてしまって、何も感じないけれど。


 だから、愛を注がれて生きてきたであろうこの目の前の少女が、菊が、少しうらやましかった。


「……これは貰ってあげる。でも、これ、なに?」


 いつまでも花を見続ける菊に飽きてきて、隣に座るように促す。そうして先の問いを投げかければ、菊はまた少しの間考え込み、そしてへらりと笑った。


「えへへ……。そっかぁ、ほかの人は、花の名前とか、花言葉とか覚えないもんねぇ」


「はなことば……?」


 首をかしげる紫苑に、菊は大きく頷いて話す。


「えっと、赤いバラは『愛してる』。黄色いバラは『嫉妬』。青いバラは『奇跡』とかっていうのが有名だよね。基本的にどの花にも花言葉はあるんだよ」


 確かに、赤いバラは有名所だと思いながら、黄色のバラは怖いと思った。


 そして、手元の花束に視線を移す。


「……じゃあ、これにも?」


「うん!」


 菊は目を瞑り、歌うように語りだす。


「この花はサクラソウ。花言葉は『希望』『可愛い』『初恋』『少年時代の希望』そして『幼い時の悲しみ』。ここらへんが主流かな。あとは色によっては、ピンクが『長続きする愛情』『誠実』『真心』。白は『初恋』『神秘な心』。赤が『美の秘密』。……えと、私がお姉さんに伝えたかったのは、『希望』だよ」


 ふんわりと優しく微笑む菊に、紫苑は泣きそうになった。


「『幼い時の悲しみ』を乗り越えれば、『希望』が見える。私はそんな風に受け取ることができるこの花は、時折、悲しみや死のシンボルとして海外では見られることがあるけど、でも、やっぱり未来への『希望』を見いだせるから、好きだよ」


 きっと、意図して選んだわけではないのかもしれない。季節もあって、これしかなかったのかもしれない。


 それでも、紫苑の家庭事情も知らない、赤の他人である菊の言葉は、紫苑の胸に温かく沁みた。


 そして、紫苑に一つの賭けをする気にさせた。


(この子と関わって、あたしが変われたらこの子の勝ち。変われず、人と関わらない生き方を続けるようなら、あたしの勝ち。変な賭けだけど、でも、あたしが変わるには、きっと……)


 目を瞑り、一つ息を深く吸って、吐き出す。ゆっくりと目を開けて、菊の顔を見て口角を上げる。


「あたしは、紫苑。黒月紫苑。えっと……、菊、だっけ? その、時間あったら、さ、また花言葉、教えてほしいなーって思うんだけど……」


 菊は不思議なものを見るように紫苑を見つめる。それから、紫苑の言った言葉を理解したのか、満面の笑みを浮かべた。


「うん! 紫苑ちゃん! 私でよければ花のこと、いっぱい教えてあげるね!」


 紫苑の花束を持つ手に菊は両手を添えて、笑う。


 それから二人は、サクラソウに関しての話をした。


 ギリシア神話から悲しみと死のシンボルとして見られていること。ドイツではまた違う物語があって、また違う捉えられ方をしていること。


 紫苑はその一つ一つを聞きながら、楽しそうに話している菊を見て、いつしかまだぎこちないが笑顔を浮かべるようになっていた。


 ふと、菊が話をやめて顔を上げた。


「……どうしたの」


 紫苑が尋ねれば、菊は薄っすらと笑みを浮かべて、人差し指を唇につけた。


 静かに、という合図である。


 右手で口を押え、菊の聞いている音を聞くために耳を澄ませる。


 遠くから聞こえてくるのは、どこか軽やかでいて悲しげな音楽。


 午後五時を知らせる音楽だ、と気付いたのは菊が立ち上がってからであった。


「もう時間だ。帰らなきゃ」


 菊は振り向きざまに紫苑に手を伸ばす。


「紫苑ちゃんも、帰らなきゃね。また今度、紫苑ちゃんと私の偶然に期待して」


 手を握り、紫苑も荷物を片手に立ち上がる。


「そうだね。菊のほうもいろいろ始まるだろうし、時間が合えばまた、ね」


 菊は何も言わず微笑んで、紫苑の手を放した。紫苑もそれを確認して、菊に背を向ける。


「じゃーね」


「うん」


 公園の出入り口まで歩いて、振り返る。


「次の花……いや、なんでもないや。いつか、菊とか紫苑とかの花も教えてよね」


 それだけ言い残すと、荷物をしっかりと持ち走り出した。


 なんとなく気恥ずかしくなったのだ。


 同時に、次が楽しみになった。


「うん、菊も、紫苑も、いつかちゃんと、教えるね」


 後ろから、そんな声が聞こえたような気がした。

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