第十三話 暴走
いつの間にかものすごい時間が……。
上半身から火が上がっているのかと錯覚しそうなほど体が熱い。込み上がる血液が気道を覆い、むせる度に激痛が全身を駆け巡る。
ほぼ無意識に傷を塞ごうと魔法を体にかけるが、効いているのかどうかが全くわからない。意識を手放さないことで精一杯だ。
「ヤバイヤバイヤバイ……」
焦れば焦るだけ死が近づくのだが、そんなことはもうシンヤの頭の中にはない。ただ激痛と恐怖が思考を埋めつくし、段々と理性を頭から追いやっていく。
耐えきれなかった吐瀉物と血液の混ざった液体が口元を大きく濡らす。完全に気道が塞がり呼吸が寸断され、心拍が上昇し、流れ出る血液の量が増える。
耳鳴りを伴った頭痛がガンガンと鳴り、生命の危機を猛烈に訴えかける。
「……ァ」
紅く染まった視界に鋭利な茶色の凶器が姿を見せる。緩くカーブした嘴はさながら死神が持つ鎌のようだ。
最早為す術など何もない。ただあの化物の胃に収まるだけ……。
そうはなりたくない……。
動け、急げ、頼む、走れ、逃げろ、避けろ、死ぬ、死にたくない、走れ、走れ、逃げろ、動け、動けよ、嫌だ、早く、消えろ、急げって、死ぬ、嫌だ、まだ、死ぬ、嫌だ、死にたくない、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……。
死への恐怖が、生への渇望が、理不尽への悲憤がシンヤの心を塗りつぶし、激情を駆り立てた。
「……ァ」
突如、紅かった視界がモノクロへと変貌する。
暴れまわっていた激痛は鎮まり、全能感が身体を包む。まるで最上位の身体強化をかけられているようだ。
傷口が塞がっていくのが不思議な感覚と共に伝わる。流れ出た血液は流石に戻ってこないが、少なくとも体が思うように動くようになっていた。
グリフォンが獲物を補食しようと前足をあげる。
何が起こったのかまるでわからなかったが、最初で最後のチャンスであることだけはわかった。
これに押さえられれば傷が治っていても無意味だ。
まだ終わらないぞ、という強い意思を抱き、戦意をもう一度宿す。
足で体を押さえられるよりも前に、シンヤは身を翻し立ち上がった。立ち上がれた。
その様子にグリフォンが数歩後ずさる。先程までの勝者の余裕は冷め、明らかな嫌悪感と困惑の色が表に出ている。
何せ仕留めたと確信していた獲物が逃げだしたのだ。少なくともグリフォンが持つ常識では、考えられないことだった。
何よりも焦点も合わず恐怖に怯えていた目は、一転して戦意に満ち溢れ、立場は入れ替わったとでも言いたげだ。
思い通りにならない状況がグリフォンを苛立たせる。何よりも鬱陶しく、気に食わない。捕食者はこの私で、そこが覆るはずはない。
響き渡る咆哮。
耳に届いだけで悲鳴を上げそうになる重圧。それに付随した強烈な殺気。恐らく、並の冒険者や魔物程度ならたったこれだけで泡を吹き、地に伏すだろう。
ふざけるな、という思いが凝縮されていた。
己に一瞬でも巣くった恐怖心を消し飛ばす。
ガァ、っと低い唸り声を漏らし、己を奮い立たせるかのようにドスドスと地を叩く。
グリフォンが距離を瞬く間に詰め、前足の鉤爪を振りかぶる。
だが、シンヤは驚異的な反応を見せ、大きく後ろへ下がりこれを躱す。
間髪入れずにもう一度大鷲の前足を叩き込む。
これもまた見事な身体捌きでひらりと躱し、間合いを上手くとる。
あの激痛の中でも剣は落としていなかったらしい。シンヤの右手には馴染む剣がしっかりと握られていた。
「……ッ」
グリフォンの攻撃は続く。
殺人的な前足が、容易く体を穿つ嘴が、様々な角度から獲物を仕留めまいと放たれる。
だが、シンヤがダメージを負うことはなかった。
常人では考えられない反応を見せ、文句のつけようがない身のこなしで、さながら鶴が舞うように一つ一つ丁寧に避け、躱し、逃げる。
途端、鳴りを潜めていた銀線が空を走る。先にあるのは黄色の嘴。
身を引くグリフォンの行動は若干遅かった。
結果約4分の1程が切り取られ、痛みに王者が吼える。
だがそれにグリフィンは怯むことはなかった。追撃しようと迫る敵を牽制し、前へと進む。
そんな強気の行動に反応が遅れる。横凪に払われた鉤爪は剣先を引っ掛かけ、大きく持ち手の大勢を崩す。
死にものぐるいでその場を離れる。背後数センチを爪が通り過ぎ、死の濃厚な気配に身の毛がよだつ。
受け身を取りながら前転。上手く体をひねり、相対する敵の方を向きながら勢いそのままに立ち上がる。
後ろへ大きく跳躍し、十分な距離をとる。
激しい戦闘が一段落を迎えた。
双方息が荒くなっており、浅く呼吸しながら互いを睨みつける。
グリフォンの嘴からはどくどくと血が流れ落ち、胸辺りの白い毛を赤く染めている。
対するシンヤも衣服は真っ赤である。初めの一撃から流れ出たものだけではない。限界を超えた動きに耐えきれずに様々な箇所から出血していた。
「……ァ、ウアア」
段々と所謂「理性」というものが無くなってきていた。だが、それを戻すことをシンヤはできなかった。心得ていなかった訳ではない。できなかった。
埋め尽くす感情は飢餓。全身が失った血液と、回復に用いたエネルギーを欲している。
嘴から流れ出る血液が色褪せた世界の中で唯一鮮明な色を放っており、さながら砂漠で見つけたオアシスのように輝きだった。
傷口という傷口が塞がっていく。魔法ではない何か別の力、本来生物が持つ回復能力を無理やり引き伸ばしたものによって。
再度の脚部からのかすかな痛みと出血。相手の不意を突き、尚かつ今までの中でも最高速での接近。さすがの天空の王者でも対処しきれない。
シンヤはグリフォンに跨った。四足歩行の生物にとって非常に危険な状況だ。右手には剣も持っている。これを突き立てれば間違いなく勝てる。
しかし、彼は首筋に歯をたてていた。
吸血鬼のように血を吸い出す。ついでに周囲の肉も噛みちぎり咀嚼する。
また一口、もう一口、さらに一口……。
喉の乾きを、そして猛烈な空腹を満たすために食らいつき、飲み込む。
勿論そんなことをされればたまったものではい。前述した通り、四足歩行の生物にとって跨がられた時点で非常に不味い状況である。
上に乗ったヒトを振り落とそうと暴れまわる。
シンヤは幾度か繰り返したところで、暴れまわるグリフォンの動きに耐えられず上から吹き飛ばされる。
しかしまだ足りない。
大量の肉と血を体が欲している。
まだ足りない。
失った分の埋め合わせを。
まだ足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない、足りない、足りない、足りない、足りない、足りない、足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない……。
もう一度駆け出す。向かう先は変わらない。あの首元へ。流れ出る血液を。
まだ体勢の整いきれていない目標に跳びつき、再び喰らいつく。
今度は簡単には振り解かれないように体にしっかりとしがみつき、首の中でも肩に近い部分を食す。
グリフォンの方も出血量が増えてきており、段々と動きが鈍くなっていた。必死に翼や体を動かそうとしているが覇気がない。
グリフォンが意を決し、背中を叩きつけるようにして転がる。
流石にこの巨体に下敷きにされてはひとたまりもない。潰されるよりも前にグリフォンの背中から離れる。
着地と同時に、もう一回とばかりにグリフォンへ向かって駆け出す。
だがそれは届かない。例え負傷していても天空の王者たるグリフォンに浅はかすぎた。
弾丸のように飛んでくるシンヤを落ち着いて払う。
奇跡的に群生する木々に当たらずに落下する。柔らかい土の上に落ち、即死は免れたようだ。しかし、無視できない程のダメージを受けたらしく体が思うように動かない。
体の中でグチュグチュという不快な音ともに傷が塞がろうとしている。
グリフォンの方も消耗しているらしく、すぐには襲ってこない。注意深くこちらの出方を観察しながら息を整えている。
ならば、と少し体を起こしつつ体の回復を待つ。
一切の疑問もなく自分の体が回復することを受け入れている自分が奇妙なような気もしたが、先程から感じている飢えの衝動を前に消え失せる。
フラフラと立ち上がり、再び戦闘態勢へと移る。
大きく負傷してなお威風堂々と構える対面の怪物は、王者と呼ばれるに相応しいものと言えた。
自然と口角が釣り上がる。全身が強者の血肉に歓喜していた。
ニマァと笑い、口から血を吐き、剣も持たず徒手空拳で挑もうとする姿のどちらが怪物か。最早問いかけるのも馬鹿らしい程にシンヤは常軌を逸していた。
だがそれをシンヤ自身が気づくことはない。
それに気づけたのは相対するグリフォンと、息を切らしながら戦闘の現場に辿り着いたフーゴと呼ばれた虎系獣人だった。
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