第一話 ある屋敷にて
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────……。
真っ白な世界に彼はいた。周りを見渡しても何もなく、臭いはおろか音すら鳴っていない。
────……?
そんな世界の何箇所かに突如歪みが生じる。それは不規則なものから変化していき、形を帯び始める。
数十秒経つと、手の形だと視認できるようになり、彼に向かって動き始める。
────……っ!?
動き始めた数個の手は彼の体にまとわりつきゆっくりと締め付け始める。それと同時にまた歪みが生じ始め、手の生成を行っては巻き付くという一連の動作を繰り返していく。
彼は必死に抵抗しはじめるが、なんの変化も得られないどころか、逆に現状を悪化させてしまう。
────……っ?
無音だった世界に声が聞こえ始める。
どこか聞いたことのあるような声。彼は腕をほどく作業をやめ、耳をすませて内容聞き取ろうとする。
しかし、そこから聞き取れた単語は「死ね」「人殺し」などマイナスな言葉ばかりだった。
内容がわかり、暗い気分になっていくのを感じた彼は、聞こえないように意識を外に向けようとする。しかし、いくら意識しないようにしてもその声は聞こえ続ける。
うんざりしながらふと視線落とすと、締め付けている手に今まではなかった赤黒い液体が付着しているのを見つける。鉄錆の臭いが漂い始め、まとわりつく手のうちの数本が彼の心臓のある位置へ移動したかと思うと、そこから締め付けるような痛みが生まれる。それと同時に思い出したくない記憶が浮かびあがる。
────……ッ!!
彼はその締め付けるような痛みと、フラッシュバックしていく悪夢のような記憶に耐えかね、目を閉じて暴れ始める。口の中が渇き、呼吸をすればするほど血の味がしてくる。痛い、苦しいといった感情が心を支配する。
────……ッア!?
何かを持っていた記憶はないにも関わらず、自分の手が何かを握っている感触を覚える。さらに、横に動かした何かを持った自分の手に、柔らかい物に当たった感触が立て続けに伝わってくる。痛みで歪む視界の中から自分の手を見つめる。
持っていたのは鋭利な刃物。そしてその刃先には誰かの胸。誰を刺しているかを知るために、なんとか視線を前に向けようとする。
後もう少しで何かわかると言うところで、
────……ぁいだからっ! 目を覚ましてシンヤっ!?
という誰かの声が聞こえるとともに、今まで見て感じていたものが全て無くなっていく。心拍数が下がりはじめ、呼吸が楽になる。思考がだんだんと落ち着いていくとともに、今までの事象は夢であったと認識させられ、今起きていたことがだんだんとわからなくなる。
そんな中、
「ごめん、ね……。ごめ、ん……ね……」
というかすれかすれ響く女性の声だけが、目覚め始める意識のなか胸に重く、重くのしかかった……。
♢ ♢ ♢
「シンヤ大丈夫!? 起きてっ!! 起きてってば!」
とある屋敷の寝室から、焦りを含んだ女性の声が朝早くから聞こえてくる。
声の主の名は、アリシア・ヘンドリー。人族ではなく竜人族で、もうすぐで25歳になる。
スレンダーな引き締まった体つきに、一般的な女性よりは整った顔立ち、そして竜人族らしく大きめの尻尾がある。身長は168cmぐらいだろうか。名前に反して黒髪で、流れるように美しく長い髪を後ろでまとめている。
彼女は最強の剣士を示す称号である「剣聖」を所持しており、その身体能力も高い。
そしてここは、『命球』にあるイーサン君主国という国にある屋敷である。今この屋敷はアリシアの所有物であり、シンヤと呼ばれている少年はこの屋敷の住人である。
それはさておき、今アリシアは、いつもはきっちり起きてくる少年が朝食の時間になっても来ないことを不審に思い、様子を見に来たところ、ひどくうなされているのを見つけ、声をかけ始めているところだ。
いや、声をかけ始めているというのは間違いだ。彼女がここに来てから既にもう数分が経っている。
しかも彼の体には大量の汗が浮き上がっており、呼吸も浅くなっている。相当長い間うなされているのだろう。
とは言っても、彼には今までも長時間うなされることがあり、今と同じような状況になることは珍しいことではない。
しかし、アリシアは剣聖の称号を若くして持てるようになるほどの勝ち気な部分はあるものの、情が深く優しい性格だ。そのため、このような少年の様子を見せつけられるのは苦しく、
「ああどうしよう、こんなの見てられないよ……」
というつぶやきが漏れる。
また、簡単な治療魔法しか使うことができず、そのうえ医療知識もないため、異常なまでに苦しんでいる彼に対して何もしてあげれない自分に、腹が立つとともに悔しさがこみ上げる。
「ねえ……。お願いっ、お願いだからっ! 目を覚ましてシンヤっ!」
少し潤んだ声が寝室に響き渡る。
するとアリシアの声がやっと届いたのか、彼の様子が落ち着きはじめるとともに、瞼が開いていく。
「んぐうあ……?」
その少年は、なんとも間の抜けた声を発しながら目覚めはじめる。
彼の名はシンヤ・イワキリ。こちらは人族の15歳で、顔立ちは整っていると言えるだろう。身長は178cmぐらい。黒い瞳に黒い髪、日本人っぽい感じで爽やかな印象を受ける。
また、彼は剣豪、世界でだいたい8~16番目ぐらいに強い剣士に与えられる称号と、賢者という三種類以上の魔法、および魔術を上級まで使えるようになった者に与えられる称号を持っており、アリシアの一番弟子でもある。
それはさておき、朦朧としていた視界がだんだんと澄み渡っていくとともに、ぼやけていたものの焦点が合っていく。そして、彼の目に焦った顔をした女性の顔が目に飛びこんでくる。
「うーん……。アリ……、シアか?」
確認をとるような声とともに、先程までうなされていた青年の意識は完全に覚醒する。
それに合わせて、自分が寝過ごしたことに気づき、わざわざ起こしに来てくれたことに礼を言おうとしてアリシアの顔を改めて見つめ直す。すると、大粒の涙を浮かべていることに気づく。
ただ寝過ごしてだけだと勘違いしているシンヤは、アリシアがなぜ泣いているのかわからず、えっ、っと気の抜けな声をあげる。
アリシアはそんなシンヤの様子に、少し膨れながら
「グスッ……。もう、心配したんだから!」
と言って、思わずシンヤを抱きしめる。いきなり抱きしめられ、一瞬身をこわばらせるもすぐに力を抜き、されるがままになる。それと同時に、なんとなく今の状況を理解し始め、迷惑かけたかな……と考える。
すると、シンヤの目から自然と涙がこぼれ落ちた。
「……? どうしたの、シンヤ泣いてるじゃない」
気づいたアリシアは心配そうに訊ねるも、その質問にシンヤは答えることができない。なぜなら、シンヤにも涙があふれてきた理由がわからなかったからだ。
ただなんとなく、なんとなくだが、どこか懐かしいような気分になっていた。
そのことをありのままアリシアに伝え、謝罪を入れる。同時的にシンヤは自分を思って泣いてくれたことを嬉しく思いながら、問題ないことを告げ、汗ばんで引っ付いてくる服に顔をしかめつつも、ググッと伸びをして、笑ってみせる。
アリシアは、懐かしいような気がしたという部分に少し寂しそうな表情を浮かべるが、その後の笑顔を見て表情を緩める。
それを見たシンヤはホッとして立ち上がり、ベットの横にある窓へ向かい、カーテンを開ける。
春の心地よい日差しが部屋全体に満ち、より一層意識を鮮明にしていく。
それからアリシアの方に向き直り、汗でぬれた衣服と体を魔法で乾かし、浄化魔法で綺麗にする。そして、一言二言交わしながら部屋を退出し長い廊下を食堂へ向かって歩き出すのであった。
♢ ♢ ♢
この屋敷は結構な大きさがある。なぜならば、この屋敷が建てられた当時の主人がイーサン君主国の中でも大貴族だったためである。そのため、シンヤの寝室と食堂までの距離はひらいている。
それはさておき、アリシアがふと思い出したことを口にする。
「そうだ! あんなにしんどそうだったシンヤに言うのもあれだけど、今日から冒険者学校のお手伝い、よろしくね」
「えっ?」
その予定が合ったことを忘れていたシンヤは、疑問符を浮かべる。
アリシアはそんなシンヤに少し呆れながら
「だから、私たちの手伝いだよ」
と付け足す。
「ああ、そういえば今日からだっけか」
補足説明が入ったことで、何があったかを思い出し頭をかく。
完全に忘れていた様子のシンヤを見て、
「もうっ、忘れてたの? シンヤから言い出したのに」
とため息をつく。
「いやうん、忘れてたのは認めるし謝るけど、言い出したのはアリシアだぞ?」
その言葉に一瞬呆けた後、その間違いに気づき
「えっそうだっけ? ……そういえばそうだったね! あはは」
と笑う。
その天然なところに苦笑しつつ、その手伝いについて考えをめぐらせていく。
冒険者学校。これはまさに名前の通りの施設で、冒険者として生きる時の基礎知識を教えてくれる場所である。また、眠っている優秀な人材を見つけ出すことも冒険者学校の役割である。
今回シンヤは、純粋に生徒という立場では行かない。そもそも、シンヤはすでに剣豪の称号を持っている上に剣聖に認められている剣士だ。剣術の単位など獲得しているも同然である。
他にも獲得済みと言っていいようなものがあり、会話にも出てきたように基本的には補佐がメインであるがゆえに、普通4年通わなければならないところを2年で卒業できるようになっているなど特殊なのだ。
(まぁなんとかなるだろ。アリシアやアルフの指示に従えばいいだけだろうし)
最終的に何とも他力本願な結論に至り、思考を止める。
そんな様子を見たアリシアはニヤリと笑いながら声をかける。
「おうおう? なんか自信ありそうだね?」
「そんなことないさ。そもそもどこを見てそう思うんだよ、っていうか手伝いに自信って何だよ」
少しからかうように言ったアリシアの言葉に、シンヤは笑い返す。
「それこそこっちのセリフだよ。私が聞きたいのは、うーん例えば……、対人関係とかそっち方面?」
その辺に関しては無意識のうちに考えないようにしてたのか、言われて初めてその問題に気づき、露骨にいやな顔をする。
そんなシンヤの姿に笑みをこらえきれず、顔がほころぶ。
春の陽ざしが暖かく屋敷を照らし、陽気な風が街を駆けめぐる。まだ平穏な日々は続きそうだ。
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