6・警戒中
翌日、夜も明けきらないうちに起きた私は身支度を整えてアルフォンス殿下の部屋へと入った。
前日にできなかった部屋の水拭きを音を立てないように静かにしていく。
途中で上に穴が開いている四角い箱が壁際にあるのに気付き、これは何だろうかと上から覗いてみたが良く分からなかった。今度フィニアス殿下に聞いてみようと思いながら、掃除を再開する。
そして、ここでも昨日と同じく床についた手や膝から静電気のような刺激を感じた。
もしかしたら異世界の塵は魔力を帯びているから、反発して静電気みたいに感じているのかもしれない。これも、フィニアス殿下に聞いてみよう。
というようなことを考えながら掃除を終えて、とんでもなく真っ黒になった雑巾を洗いながら、私は綺麗になった部屋に満足していた。
掃除の後片付けをしている間に日は昇り、朝食が運ばれてくる。
朝食とシーツの替えを受け取り、昨日と同じく毒の分解をする。
さて、そろそろアルフォンス殿下を起こさないと。
寝室へと向かった私がドアを開けると、すでにアルフォンス殿下は起きていて、着替えも済ませていた。
これ、多分、絶対に侍女失格だよね。起こして着替えを手伝うのが仕事なのに、全部終わってるなんて……。
与えられた仕事をちゃんとこなせなかったことが情けなかったが、そんなことはアルフォンス殿下に見せないようにして私は彼に声をかけた。
「おはようございます。朝食の準備ができておりますが、こちらにお持ち致しましょうか?」
「ううん。向こうで食べる」
立ち上がったアルフォンス殿下は私を見ることなく寝室を出て行こうとしたが、ドアを開けた途端に歩みを止めた。
でもそれは一瞬のことで、すぐに朝食が置かれている場所まで行き、椅子に腰を下ろした。
カップに紅茶を注いでいる私に向かってアルフォンス殿下が口を開く。
「……これもそなたが?」
「部屋の掃除のことでしょうか? でしたら、私が致しました」
「そうなんだ」
と言って、アルフォンス殿下は朝食を食べ始めた。
声に不快感がなかったので、勝手に部屋の物に触ったことは怒ってないみたいである。
清潔な部屋で過ごすことは心身の健康に繋がるし、気休めかもしれないけど、少しぐらいはアルフォンス殿下の気分が軽くなればいいな、と私は考えていた。
部屋の掃除や、食事の解毒、他の使用人達や騎士との出会いなどがありつつ、あっという間に一週間が過ぎた。
アルフォンス殿下との付き合いも一週間を迎えたが、私は未だに警戒されたままである。
話しかけられることはほとんどなく、一日中彼は読書をして過ごしている。
目を向けられることもなく、私は毎日シーツを替えたり、部屋の掃除をしたりして時間を過ごしていたのだが、一週間経ったということは、フィニアス殿下に報告しなければいけない日がやってきたわけだ。
昼食を運んできた使用人から、食器の回収に来た後でフィニアス殿下の執務室まで案内すると言われていた。
午後になり、私はアルフォンス殿下に断りを入れて部屋から退出する。
案内してくれる使用人の後を付いていきながら、道順を必死に覚える。
来週からは一人でフィニアス殿下の執務室まで行かなければならないので、迷子にだけはならないようにしないと。
「こちらです」
案内してくれた使用人はある部屋の前で立ち止まった。
「こちらがフィニアス殿下の執務室ですか?」
「そうです。報告が終わりましたら、アルフォンス殿下のお部屋までお帰り下さい」
どうやら帰りは案内してくれないみたいだ。
複雑ではなかったので、なんとかアルフォンス殿下の部屋まで戻れそうである。
分からなかったら、使用人服を着ている人に聞けばいいだけだ。
「案内ありがとうございます」
「では、私はこれで失礼致します」
案内してくれた使用人を見送り、私はフィニアス殿下の執務室のドアをノックする。
少しして、ドアが開き年若い男性が顔を見せた。
「アルフォンス殿下の侍女、瑠音でございます」
「ああ、貴女が。どうぞ中へ」
部屋へと入った私は、真正面の机に座っているフィニアス殿下と顔を合わせる。
その傍らには、無表情だけど物凄い美少女が立っていた。
横目で彼女を気にしながら、私はフィニアス殿下に向かって頭を下げる。
「仕事中にご苦労様です。それで、仕事には慣れましたか?」
「はい」
「それは良かった。では、アルフォンス殿下の様子を聞かせて下さい」
初日の夜に聞かれたことだけど、周囲に人がいる状態で同じことを言って欲しいのだと私は判断した。
「この一週間ですが、一日中、読書をして過ごしていらっしゃいます」
「それだけですか?」
「はい。それだけです」
私の言葉にフィニアス殿下は目を瞑って息を吐く。
答えとしては間違ってないと思ったのだが、違う言葉が欲しかったのだろうか。
「では、もう結構です。仕事に戻って下さい」
余計なことは言わないようにと言われていたので、疑問を口にすることはできなかったけど、心の中だけでも言わせて欲しい。
これで終わりなの!?
報告っていうくらいだから、もっと何かこう、ちゃんとした報告をしなきゃいけないのかと思ってたよ!
違うの!?
こんなあっさりしたものなら、わざわざ執務室に来なくてもいいじゃない!
なんてことは絶対にフィニアス殿下には言えない。言ったら私の首が飛ぶ。
「…………失礼致します」
たっぷり間を置いて告げ、私は執務室を後にした。
行きと同じ道を通りアルフォンス殿下の部屋へと歩いていたのだが、まだ交流をしていないと思われる使用人達の視線が痛い。
「あの子がアルフォンス殿下の?」
「今度はいつまで保つかしらね」
「一週間も保つなんて、意外と根性あるんだな。三日にかけて大損したぜ」
「フィニアス殿下に雇われたって聞いたけど、王位継承争いから遠ざかった影の薄い殿下にねぇ。見る目がない子だよ」
などという声が耳に入るが、余計なことを言うなと言われている手前、反論することはできない。
歩き続けて、ようやく人が少なくなり、なんとか迷うこともなく無事にアルフォンス殿下の部屋へと戻ってきた私は、部屋の前にいた侍女に声をかけて業務を交代する。
部屋の前でただ待機していた侍女に思うことはあったが、彼女を責め立ててもどうにもならない。
ため息を吐いた私が部屋の中へと入ると、やや顔が赤くなっているアルフォンス殿下が座っていた。
子供だから熱も出やすいのかも、と思った私はアルフォンス殿下に近寄る。
「アルフォンス殿下。熱っぽいとか気持ち悪いとかありますか? 少し熱を測らせて下さいね」
そう言って、私がアルフォンス殿下の額に手を当てようとすると、彼は驚いた様子で後ずさった。
「殿下?」
「僕にさわらないで……!!!」
大声を出されたと同時に、ビリッという音が聞こえて来た。
何? と思い、私は音のした方を見ると、袖の部分がカマイタチにでもあったかのように切れていた。
ああ、袖が切れたのか、と妙に冷静に考えていると、アルフォンス殿下が罪悪感いっぱいの表情を浮かべながら怯えていた。
目をぎゅっと瞑り、小刻みに震えている。
その様子に、今のことはアルフォンス殿下がやったことなのだと理解した。
まだ六歳のアルフォンス殿下に魔力の制御は難しい。制御できるのは十歳前後ってテオバルトさんも言っていた。
感情で左右されるのなら、今のは警戒されているのに不用意に手を出した私が悪い。
幸い、怪我は大したことはない。ちょっと袖が切れたくらいで、皮膚が切れたわけではない。
まずは、アルフォンス殿下に落ち着いてもらうのが先だと思い、私は彼に向かって笑みを向けた。
「アルフォンス殿下。不用意に手を出してしまい申し訳ありませんでした。ですが、具合が悪いように思えますので、寝室まで参りましょう」
「そ、そなたなにを言っている……。僕は……そなたを」
「いえ、触れられるのがお嫌だと察することができなかった私が悪いのです。どうか気になさらないで下さい。それに袖が少し切れた程度ですし、怪我をしたわけでもございませんので」
気にしていませんから、と私はアルフォンス殿下に言っているが、聞き入れてはもらえない。
「どうして怖がらない。どうして逃げない? 今までの者はみな、僕を怖がって避けていたのに。今みたいになときもあったのに……。なぜそなたは」
「それは、殿下が後悔していらっしゃるからです」
予想外の答えだったのか、アルフォンス殿下はえ? と口にした後で黙りこんでしまった。
「殿下は今、申し訳ないと思っていらっしゃいます。後悔していらっしゃるように見えました。袖を切ってしまったのは、わざとではないと分かっております。私にも非がありましたので、逃げるようなことは致しません」
「こ、怖くないのか? 僕が怖くないのか?」
「怖くないと言ったら嘘になります。ですが、私が辞めたら、また元の生活に戻ってしまうと思うのです。一人になると、誰もいないと、悪い方へ悪い方へ考えてしまいますから。私はそんなアルフォンス殿下を見たくはないのです。だから辞めません」
不思議なんだけど、私はここから逃げたいとは思わない。
それは、フィニアス殿下との契約だからという理由なんかじゃなく。
「不敬を覚悟で言わせてもらいます。先に言っておきます、ごめんなさい。……私はたった六歳の子供が、一人で泣きもせずに過ごしているのを見て、ほうっておくことはできません。たった一人で、この部屋で過ごしている殿下を見ていたら、怖いなんて気持ちは吹き飛んじゃいました。力になれないかもしれないんですけど、私はほんの少しでも殿下を支えたいと思っています」
これまで怯えていたアルフォンス殿下の表情に変化があらわれる。
彼はクシャッと顔を歪ませると、泣き顔を見られたくないのか私から顔を逸らした。
「……僕の、そば、にいて……くれるの?」
「はい」
「い、なくなったり、しない?」
「殿下からクビだと言われない限りは、お側にいます」
近くに寄った私の袖を遠慮がちにつまむアルフォンス殿下の手に、そっと自分の手を重ねた。
それが合図であったかのように、アルフォンス殿下は私の腰に抱きついて大きな声で泣き始めてしまう。
私は屈んで、真正面から彼をそっと抱きしめた。
一年間ずっと一人でいたのだ。寂しかったに違いない。
「……は、っはうえにっ……あい、たい」
「いずれ問題が解決したら、きっと会えます」
「けどっ、僕は王族っだから、そんなわがま、まを……いっちゃ、いけない」
「子供が親に会いたいと思うのは王族だろうが平民だろうが我が儘でも何でもありません。それぐらい言っても、誰も文句は仰いません」
頭を撫でながら、私は自分の母に思いを馳せた。
私もお母さんに会いたい。
でも、今はその願いは叶わない。アルフォンス殿下と同じ、いずれ、問題が解決したら、だ。
しばらくアルフォンス殿下の言葉に返事をしつつ、背中をさすっていると、いつのまにやら彼は泣きつかれて眠ってしまった。
「殿下?」
一応声をかけてみるが、返事はない。
抱っこで寝室まで運べるかな? 六歳児とはいえ、アルフォンス殿下の体重は軽そうだし、いけるよね。多分。
「よっと」
アルフォンス殿下を抱き上げた私は、彼を寝室のベッドへと寝かした。
泣き腫らした目が痛々しく、私は表情を曇らせる。
そういえば熱はどうなったのかと気になった私は、アルフォンス殿下の額に手を当てた。
「……ちょっと熱い、かな」
物凄く熱がある、という感じではなさそうだけど、夕食を持ってきた使用人に私は報告をするとすぐにお医者さんがやってきて、アルフォンス殿下を診てくれた。
診察の結果、ただの熱だということで、私は胸を撫で下ろす。
だけど、お医者さんや他の使用人が立ち去る際、どこか残念そうな表情を浮かべていたのを私は見逃さなかった。
お医者さんも敵とか考えただけで、頭が痛い。
むしろ、王城内に味方が存在するのだろうか。
これから先のことに不安を感じつつ、私は一晩中、アルフォンス殿下の側で彼を看病したのだった。
でも、このときの私は、フィニアス殿下が説明していたアルフォンス殿下の魔力はほぼ空である、という話をすっかり忘れていたのである。