番外編・没落は避けたい(エレオノーラ)
最初、私は何を言われたのか、正しく理解することができませんでした。
「……お母様、今なんと仰ったのですか?」
私の手を両手で包み込み、涙目であったお母様に向かって私は問いかけました。
聞き間違いでなければ、今この人はとんでもないことを口にしましたよ?
「だからね。貴女がフィニアス殿下と結婚できるように協力して頂戴、とドロテアに頼んであげましたから、安心なさいね。聖女などともてはやされている平民の娘など、簡単に消してあげますから。貴女が王弟妃になるのです。邪魔者には消えてもらいましょう。ね?」
「……それは、口頭でお願いされました? それとも、お手紙を送ったのですか?」
「両方よ。大丈夫。ドロテアは私のお願いなら何でも叶えてくれるから」
可能かどうかを伺っているわけではありません!
ああもう! 本当に、この愚か者をどうしてくれましょう!
お父様はどうして、こんな頭の足りない女と結婚したのですか!
ええ、ええ。存じ上げておりますとも。この女の実家の方が格上だから、でしたね。
ですが、それもこの間まで。先代皇帝側に属していたお母様の実家は没落しています。
ようやく、シュタール侯爵家を蝕む毒を排除できるかと思っておりましたのに、とんでもないことを考えてくれやがりましたね、お母様。
「それで、ドロテア様はお返事を?」
「ええ」
そう口にして、お母様は手紙を私に差し出してきました。
ドロテア様は、お母様の昔からの取り巻き。ツィンク伯爵家に嫁ぎましたが、家柄の差もあり、お母様に逆らうことなどない方。ですから、恐らく了承したのでしょうね、と私は考えて、手紙を受け取ります。
私は手紙の中身を確認し、確かにドロテア様が了承したこと、聖女様に嫌がらせをするよう彼女の娘に命じたこと、夫であるツィンク伯爵にどうにかして欲しいと願い出たところ、聖女様をクレアーレ神殿に向かわせ、殺害するよう仕向けてくれることが書かれておりました。
私は手紙をビリビリに破いてしまいたい衝動をなんとか抑え、お母様に手渡します。
「では、安心ですね」
反対していることを悟られないように、私はいつも通り笑みを浮かべます。
心の中では怒りが渦巻いていたのですけれどね。
そして、すぐにお母様の部屋を出て、自分の部屋に向かいました。
部屋に入って、私は我が家の密偵を呼び出しました。
「ツィンク伯爵は何か動きを見せたのかしら?」
「はい。伯は聖女様はフィニアス殿下に相応しくないと陛下に直談判なさったようです。それと聖女様にクレアーレ神殿に向かわせるよう願い出て、陛下も了承されました」
手遅れでしたか。これでは阻止することはもう叶いませんね。
「陛下は他に何か仰っておりましたか?」
「アルフォンス殿下の魔力が安定するまでは、フィニアス殿下の結婚はない、と」
「そう。そちらの猶予はありましたのね。……でしたら、母の部屋から先ほどの手紙を取ってきてもらえるかしら」
「御意」
すぐに密偵の気配が消え、私はふぅと息を吐いてソファに座ったのです。
本当になんてことをしでかしてくれたのか。
私は、数日前に行われた王城での夜会の出来事を思い出しました。
フィニアス殿下の寵愛を受けていると噂されていた聖女・ルネ。
どのような方なのか、少しばかり気になってはいたのです。
だって、あのときはまだ、私もフィニアス殿下に嫁ぐ気がございましたからね。
ですが、フィニアス殿下と共に会場へと入ってきた彼女を見て、私は諦めたのです。
フィニアス殿下の目の色と同じ淡い紫色のドレスを身に纏った彼女。
一目で殿下から大事にされていることが分かりました。
おまけに、彼女を愛おしそうに見つめる殿下。お二人の間に割って入ることなどできないとすぐに私は理解したのです。
何よりも、ルネさんからは、私の大好きな、大好きなお金の匂いがしたのですから。
皆が注目する彼女は、とっても魅力的な広告塔となります。我が領内の商会を贔屓にしてもらって、夜会や茶会でドレスや宝飾品を身につけてもらえば、良い宣伝になりますもの。
紹介料として、商会からいくらか手元にお金が入ってくるとおもいますし、余計なことをして嫌われて、お金に触れられる折角の機会を逃すなんて勿体ないことをできるはずがありません。
なのに、私にまとわりついている令嬢達がルネさんを取り囲んでいるのを見たときは焦りました。
おまけにクリスティーネ様と言い合いをしていたのですからね。
隣にいらしたフィニアス殿下は笑みを浮かべてはおりましたが、抑えきれない怒りが漏れておりましたから、なおさら冷やっとしたのです。
すぐに私が間に入って仲裁したことで事なきを得ましたが、あれはお母様の差し金でしたのね。
まったく余計なことをしてくれたものです。
再び、私が息を吐いたと同時に、密偵が部屋へと戻ってきました。
もちろん、手には先ほどの手紙を持っていました。すぐに別の者に手紙を複製させ、偽物の方をお母様の部屋へと戻してもらったのです。
そうして夜になり、密偵から受け取った手紙を持って私はお父様の執務室へと向かいました。
「失礼致します」
「エレンか。君が部屋に来るなんて珍しいな」
「お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ございません。ですが、お父様の耳に入れておきたいお話がございまして」
私の言葉にお父様は眉をピクリと動かしました。
滅多にお父様の部屋へ入ることがない私が、こうしてやってきたということで余程のことだと思ったのでしょう。
お父様は仕事の手を止めて、私をジッと見てきます。
「あれが何かしでかしたのか」
さすがは仮面とはいえ、長年夫婦でいらしただけありますね。すぐにお母様関連のことだと気付いてくれました。
「こちらをご覧下さい」
私はドロテア様からの手紙をお父様に差し出しました。
手紙を読み始めたお父様の表情が徐々に険しくなっていきます。手紙を持つ手に力が入っていらっしゃるせいで紙がクシャッとなっておりましてよ、お父様。
少しして、手紙を読み終えたると、それは大きなため息を吐きました。
そのお気持ちは痛いほど分かります。
「……あれは、馬鹿なのか」
「ええ、馬鹿です。つくづく、あの母に育てられなくて良かったと再確認致しました。教育して下さったお祖母様に感謝ですね」
「あれが家に二人もいることになったかもしれないと考えると、胃が痛くなってくるな。母に教育を任せて正解だった」
「まったくです。それで、いかがなさいます?」
私の問いに、お父様は難しい表情を浮かべています。
シュタール侯爵家から王家に嫁いだ方がいらっしゃいませんからね。年の近い私が生まれ、シュタール侯爵家の名前も確かなものとなり、ようやく王家に嫁がせることができる! と意気込んでいらしたのは私も存じております。
ですから、今回の件はそれらの努力を無に帰す行為となります。
フィニアス殿下が寵愛されている国を救った大恩人である聖女様を殺すよう命じていたのが、シュタール侯爵夫人だと判明すれば、家は没落間違いなし。
だからこそ、お父様も頭を悩ませておいでなのでしょう。
「陛下に手紙をお渡し致しますか?」
「それはできん。あれが関わっている証拠は出せない。無関係でいなければならないのだ。そうでなければ、お前をフィニアス殿下に嫁がせることができん」
苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべているお父様。
ですが、私はどうひっくり返ろうとも、フィニアス殿下に嫁ぐ気はないのです。
だって、他の女性を想い、こちらを見ようともしない方の妻になるなんて虚しいではありませんか。
仲睦まじいお二人を見るしかないなんて、惨めになるだけ。
貴族として生まれたからには政略結婚をしなければならないことは重々承知しておりますが、だったらせめて、私を一番にして下さる方に嫁ぎたいのです。
……どうにかして、私をフィニアス殿下に嫁がせることを諦めさせなければなりませんね。
どうすれば……と考えていた私の目に、お父様の机に置かれた似顔絵が飛び込んでまいりました。
確か、お兄様の娘のレティーツィアが描いたと仰ってましたね。珍しくお父様が目尻を下げておいでだったので、よく覚えております。
レティーツィアは三歳、でしたね。これはいけるかもしれません。
私は、目の前の霧が晴れていくように感じました。
独身の王族はフィニアス殿下だけではないことを思い出したからです。
もうお一人いらっしゃる王族のアルフォンス殿下は七歳。年齢差も姪とちょうど良い。
王太子、ひいては未来の王となるかもしれない方に嫁いだ方がお父様としても嬉しいに違いありませんし、きっとどちらに嫁がせようか考えたはず。
シュタール家から王家に嫁いだという実績を得たいだけであれば、私でなくても構わないはずです
これなら誰も不幸にはならずに済むと思い、私はお父様に提案してみました。
「お父様、私ではなく、レティーツィアをアルフォンス殿下に嫁がせるのはいかがでしょうか? 現状、フィニアス殿下は聖女様に夢中で他の女性に目を向けることはありません。それに、アルフォンス殿下の魔力が安定するまでフィニアス殿下の結婚はない、と陛下が仰ったそうではありませんか。私は何年も待つのはごめんなのです。ただでさえ適齢期だというのに、これ以上は待てません。アルフォンス殿下となら年齢も近いですし、将来の王妃となるかもしれません」
この提案にお父様は、うめき声を上げ悩み始めてしまいました。
もう一押しでいける、と思った私はとどめとばかりに話しかけます。
「私からフィニアス殿下に良い嫁ぎ先を探してもらえるように持ちかけてみます。そうですね。父に私とフィニアス殿下の婚約を諦めさせるかわりに、私の嫁ぎ先を見繕って下さい、とでも申せば、きっと頷いていただけるはずです」
自分でもこれ以上ないくらいの笑みを浮かべながら口にすると、お父様は顔を強張らせていました。
「エレン。君は王弟妃の座はいらないと言うのだね?」
「ええ。私が愛しているのはお金ですから。お金を自由に使わせてもらえる相手で、私を大事にして下さればそれで構いません」
「そこだけは、教育を間違えてしまったな……」
お父様は魂の抜けたような目で遠くを見ていらっしゃいます。
幼い頃から貨幣をおもちゃにして遊んでいた姿を拝見していらしたはずなのに、今更何を仰っているのでしょうか。
「お父様がシュタール侯爵家の娘を王家に嫁がせたいと考えていらっしゃることは存じております。その覚悟を私もしておりました。けれど」
お父様は私の言葉を手で制しました。
そのお顔は、真剣そのもので大事なことをお話ししようとなさっていると気付き、私は口を閉ざします。
「確かに、シュタール侯爵家から妃を出したいのは確かだ。だけど私は、君に幸せになって欲しいんだよ。冷え切った夫婦関係をずっと見せてきてしまったからね。世の中の夫婦全てがそうだと思って欲しくはないんだ。だからこそ、この国の王弟妃となれば、君はこの国で王妃殿下に次いで幸せになれると私は思っていた」
「気にかけていただいてありがたいことです。ですが、フィニアス殿下のお気持ちが、お一人に向いている以上は私が嫁いだところで幸せになどなれません。惨めな結婚生活を送ることになるだけです。お父様、私の幸せを願って下さるというのならば、どうか私をフィニアス殿下に嫁がせようとなさらないで下さい」
静かな声でお父様は分かったと呟いのです。
これで、問題はひとつ解決しました。
あとは、あの愚かなお母様の所業をなんとかせねばなりませんね。
「さて、レティをアルフォンス殿下の婚約者にしなければなりませんね。その件も含めて、フィニアス殿下にお話ししてみます」
「頼む。ツィンク伯爵に関しては、こちらで調べよう。簡単に人を殺そうと行動するくらいだ。きっと他にも何かしでかしていることだろう。調べ上げた証拠を陛下とフィニアス殿下にお渡しすることで、あれが関わったことを見逃してもらう。あちらが、ツィンク伯爵に辿り着く前に、なんとしても証拠を集めねば……」
「事が公になれば、我が家の名誉は汚され、没落間違いなしですものね」
「良い縁談など入ってこなくなるだろうな」
それはとても困りますね。お父様には頑張って頂かないと。
もちろん私も。
「とにかく、シュタール侯爵家はフィニアス殿下の敵ではないと分かって頂かなければなりません。明日にでも王城に出向き、フィニアス殿下にお会い致します」
お父様にそう伝え、私は退室致しました。
翌日、私は庭園にいらしたフィニアス殿下に声をかけました。
殿下は困ったように笑っていらっしゃいます。
恐らく、というか絶対に迷惑だと思っていらっしゃるのでしょう。
私と二人で話をしていたなど聖女様の耳に入れたくはないのでしょうね。
ですが、こちらも必死なのです。
没落を阻止せねばならないのです。
私は、そっとフィニアス殿下に顔を近づけました。
「婚約話を阻止するために、私と取引をしませんか?」
驚き、目を見開いたフィニアス殿下は、少し考え込んだ後に、こちらですと私を彼の執務室へと案内しました。
人払いをしているので、部屋には私とフィニアス殿下、念のために補佐官が一人残っていますが、仕方ありません。
「それで、取引とは?」
「フィニアス殿下は私と、というよりも、他の貴族令嬢と婚約するつもりはないのでしょう? ですが、国王派の重鎮である父が望み、陛下が了承してしまえば、断ることはできないという状態だと把握しているのですが、どうでしょうか?」
「その通りです」
「そのように警戒なさらないで下さいませ」
何を言われるのかと警戒しているのがありありと見てとれてしまい、私はつい笑みを浮かべてしまいました。
「失礼致しました。実のところ私もフィニアス殿下と結婚するつもりはないのです。大変失礼なお話だとは存じ上げているのですが、フィニアス殿下のお気持ちを知り、諦めたのです」
「簡単に仰いますが、シュタール侯爵家は」
「ええ。我が家から妃を出すことに固執しておりますね。ですが、その妃は私でなくとも良いのです」
私が何を言おうとしているのか察したようで、フィニアス殿下はハッとしてこちらを見てきます。
やはり、聡い方。普段は何もできない、知らない王子を演じられていただけなのですね。
あら、いけない。このようなことを考えている場合ではありませんでした。
コホンと咳払いをして、私は言葉を続けます。
「私には兄がおりまして、その兄には今年三歳になる娘がおりますの。アルフォンス殿下は七歳、私の姪は三歳ですので、年齢的に釣り合いがとれておりますし、父も王弟妃の父よりは未来の王妃の祖父の方が喜ばしいと思いますのよ。フィニアス殿下には大変失礼なお話なのですが」
「いえ、事実そうだと思います」
「ですから、私が父を説得して、姪をアルフォンス殿下と婚約させる方向へ持っていこうと思っております」
「それで、貴女は何が望みなのです? 取引というからには、私から何かを引き出したいのでしょう?」
本当に聡い方。話が早くてこちらとしては大助かりです。
ニンマリと微笑んだ私は、ゆっくりと口を開きます。
「私の結婚相手を見繕って頂きたいのです」
「…………はい?」
「国の混乱が治まったことで、これまで国がどうなるか分からない状況なので婚約を止めていた貴族達は、こぞって子供達の結婚相手を探しております。名門といわれる家はすでに婚約者が決まってしまいました。父は私を王弟妃にしたいために、そういった家の縁談を断ってしまったのです。ここで、フィニアス殿下との婚約を諦めた場合、私は売れ残ったあまり評判の良くない家に嫁ぐことになります。ですので、フィニアス殿下に結婚相手を見繕って頂きたいのです」
私の話を伺ったフィニアス殿下は、なんとも形容しがたい表情を浮かべて項垂れてしまわれました。
そのような難しいことを申し上げているわけではありませんのに。
「つまり、外国の貴族を紹介しろと」
「有り体に申し上げれば、そうですね」
ベルクヴェイク王国と繋がりがあり、フィニアス殿下が紹介できる家となるとエルノワ帝国しかありません。
あちらの上級貴族との繋がりがお有りなら、良いのですが。
「ちなみに、どのような殿方を所望されていますか?」
「私が尊敬できる相手であり、且つ私だけを愛してくれてお金を自由に扱って構わないと仰る方ですね」
「……中々に難しい条件ですね」
「あら、そう難しい条件ではございませんでしょう? 殿方を惚れさせることなど、私の容姿や仕草で簡単にできますし。そうなれば、ケチでない限り、お金を自由にしても良いと申し出てくれるはずです。つまり人として真っ当な方を私に紹介して頂ければ、後は勝手にこちらでやります、ということですから、簡単なお話ですよね」
ニッコリと微笑みを向けると、フィニアス殿下は口元をヒクヒクとさせています。
あら、もしかしたら、夜会でお見せしている姿が本来の私の姿であると思っていらしたのかしら。
だとしたら、悪いことをしてしまいましたね。
まあ、罪悪感など微塵もないのですが。
「フィニアス殿下。私との取引に応じて頂けますか?」
こちらとしては頷いて頂かないと困るのですが、とは口にできません。
しばらく考え込んでいたフィニアス殿下は、覚悟が決まったのか真っ直ぐな目をこちらに向けてきました。
その目を見て、私は勝利を確信したのです。
「応じましょう」
「ありがとうございます。では、父の説得は私に任せて下さいませ」
「ええ。私も貴女の結婚相手をお連れしましょう」
「楽しみに待っておりますね」
ホホホと笑いながら、私はフィニアス殿下との取引を終えました。
父の説得などとうに終わっているので、何も問題はありません。
これで、フィニアス殿下にシュタール侯爵家は味方であると思ってもらえることができたはずです。
後は、お父様がツィンク伯爵の犯罪の証拠を掴むだけ。