5・初対面
「失礼致します。本日よりアルフォンス殿下の侍女として仕えることになりました、瑠音と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
下げていた頭を上げた私の目に飛び込んできたのは、ソファに座って本を読んでいる男の子。
六歳という年齢よりも幼く見え、茶色に近い金髪は手入れがされていないのか中途半端に伸びていて、青い目は本来の輝きを失っている。
一瞬で私は、彼が希望を失っているということを理解した。
袖口からブレスレットらしき物がいくつか見えているけど、多分あれが魔力制御の装飾品なんだろうな。
両腕にジャラジャラと付けているから、ちょっと異様に思えちゃう。
立っていたままの私に彼は視線を向けるが、その視線は私の足下に向けられており、目が合うことはなかった。
そのままアルフォンス殿下は読書を再開する。
これまで沢山の侍女が来て去っていったことから、彼は新しく来た侍女なんかに興味はないのかもしれない。
私と話をする気が全くないのは今の行動で分かった。
だけど、と私は部屋を見渡す。
窓は閉め切られ、カーテンが引かれてランプが灯されているものの薄暗い部屋。
正直に言って息苦しいことこの上ないし、空気がかなり淀んでいる。
暗い気持ちの状態でこんな部屋にいたら余計に気分が落ち込むのではないだろうか。
でも、勝手に窓を開けるのも……って思ったけど、ちゃんとアルフォンス殿下に許可を取ればいいだけの話だ。
「アルフォンス殿下。空気の入れ換えを行いたいので、窓を開けてもよろしいですか?」
「え?」
話し掛けられたアルフォンス殿下は読書を止めて私を見る。
ようやく視線が合ったんだけど、アルフォンス殿下は目を丸くして驚いていた。
もしかして私から話しかけてはダメだったのか、と途端に私は不安になるけど、口に出したものは仕方がない。
しばらくの間、私はアルフォンス殿下と見つめ合っていたけど、全く喋らないことに痺れを切らしてしまい、もう一度お伺いをたてた。
「私から話しかけるのがいけないことだったら申し訳ございません。ですが、勝手に窓を開けるわけにもいきませんので。それでですね。窓を開けてもよろしいでしょうか?」
驚いたように私を見ていたアルフォンス殿下は、ハッと我に返ったようで慌てて私から目を逸らす。
彼は本に視線を戻してしまうが、私を一瞥した後で「いちいち僕に聞かなくてもいいよ」と口にした。
これは許可を取れたと判断し、私はカーテンと窓を開けると心地の良い風が部屋へと入ってくる。
「よしっ」
ひとまず目的を達成した私は、振り返って明るくなった部屋の惨状に呆然とした。
汚い。
そう汚いのだ。
本は床に乱雑に置かれ、いつ掃除したの? と言いたくなるくらいに部屋の隅や家具に埃が溜まっている。
よ、よくこんな部屋で生活できてたね、殿下。
とてもじゃないけど、私はこの部屋で生活することは無理だ。
私はチラッとアルフォンス殿下を見るが、彼は読書に没頭している。
大掃除をしたい気分でいっぱいの私だったけど、アルフォンス殿下がいるのに掃除をしたら埃が立って大変なことになる。
取りあえず本だけまとめておいて殿下が寝た後とか、起床前に掃除しよう。
私は床に乱雑に置かれた本を一冊ずつ回収していき、一カ所にまとめた。
本をまとめ終えた私はアルフォンス殿下から用事を言い付けられるまで、ずっとその場に立っていたが、これが中々疲れる。
レストランのフロアのバイトしてたから、立ちっぱなしは慣れてるつもりだったけど、動かずにジッとしてるって本当に大変。
足が痛くなってきて、私はその場で踵を上下させる。
あ~踵が地面についてないと楽だ。
何度かそんな動きをしていたら、アルフォンス殿下に見つかったようで彼から話しかけられた。
「……座ったら?」
「いえいえ。仕事中ですから」
「でも、今までの人は部屋にいなかったよ? 食事を運んできただけ」
あれ? 侍女の仕事ってそんなんだっけ? マンガとかで見たのは主人の近くで立ってる状態なんだけど。
ていうか、食事を運ぶだけとか、給料泥棒もいいところだと思う。
今までの侍女は何をしてたのよ、と考えたところで私は、過去の侍女がアルフォンス殿下を怖がっていたということを思い出した。
怖がっていたのなら接触は最小限にするだろうし、食事を運ぶだけなのも納得である。
納得はするけど、その心情は全く理解できない。
今のアルフォンス殿下の身なりがちょっとあれなのも、侍女が仕事をしていなかったからに他ならない。
侍女が仕事をしてなかったというなら、今までお風呂とかどうしていたの?
この部屋に追いやられて一年くらいって言ってたけど、それにしては髪の毛がそんなに伸びてない。
不思議に思った私は、アルフォンス殿下へと尋ねる。
「あの、お風呂はどうしてますか? お一人で入ってるんですか?」
「……たまに叔父上がいらっしゃるので、そのときに手伝ってもらっている」
「え!? フィニアス殿下がですか!?」
あの人も王族なのに? と私は驚いた。
けど、フィニアス殿下が手伝っているのなら、髪を切っているのも彼なのだろう。
「その、髪の毛を切っていらっしゃるのもですか?」
「うん。叔父上はお忙しいから、たまにしか来てくれないんだけど」
叔父であるフィニアス殿下のことを話している彼は本当に嬉しそうで、言動が大人びていることや、非常に落ち着いて大人しいことからスッポリと頭から抜け落ちてたけど、アルフォンス殿下はまだ六歳なのだ。
なのに、侍女もほとんど来ない部屋で親から引き離されて一人でいるなんて、寂しいだろうし辛いに決まってる。
そこに叔父であるフィニアス殿下が来てくれるんだから、今の彼にとってはフィニアス殿下が唯一の希望なのかもしれないと私が考えていると部屋の扉がノックされた。
途端にアルフォンス殿下は表情を消して本を読み始める。
誰が来たのか分からず、私は身構えるが、同時にお腹がグーと鳴ったことでお昼ということに思い至った。
それでも警戒して、私はドアをそっと開けると、食事を乗せたワゴンとそれを持ってきた女性使用人の姿が目に入る。
私がトレイを受け取ると、彼女は何も言わずにワゴンを置いて去って行った。
すぐ側にいたオスカー様に会釈をして、ワゴンに置かれていたトレイを持った私は部屋へと入る。
本来の仕事である食事の時間がやってきたことで私は緊張していた。
練習では上手くやれてたんだから大丈夫と言い聞かせ、私はトレイを腰ぐらいの高さの家具の上に置いた。
そっと食器に手を触れて、私は頭の中で毒を消すイメージを思い浮かべる。
集中して食器に触れていると、アルフォンス殿下から「何してるの?」と呼びかけられたことで我に返る。
アルフォンス殿下もお腹を空かせているんだから、早く持っていかなくてはいけない。
全ての食器に触れた私はこぼさないようにゆっくりと慎重に食事を運び、彼の前に置いた。
「そこで何をしていたの?」
「食事に何か異物が入っていないか確認しておりました」
フィニアス殿下から聞かれたらそう言えと言われていたので、答えると、彼は「そう」とだけ呟いて、食事を始めた。
その様子を私は緊張しながらジッと見つめる。
練習はした。成功している。だから、大丈夫だと自分に言い聞かせているけど、毒を分解した食べ物を人が食べるのは初めてなのだ。
私がそんなことを考えているなんて知らないアルフォンス殿下は、切り分けた肉をパクッと口の中へと入れて咀嚼している。
飲み込み、次の肉を頬張る。何度かその繰り返しを見て、食事を終えてもアルフォンス殿下に変わった様子は見られなかった。私は安心してホッと息を吐く。
そもそも毒が入ってなかったかもしれないけど、それならそれで良かったとも言える。
食事を終えたアルフォンス殿下が本を読み始めたのを確認した私は、トレイを部屋の前のワゴンに乗せた。
以降、夕食の時間になるまでアルフォンス殿下は本に没頭していて、話しかけられることもなかったので、私は彼の許可を得て寝室の掃除を徹底的にやった。
シーツの替えはどこを探してもなかったので、夕食を持ってきた使用人に言うことにして、私は雑巾になりそうな布を探し、部屋中を拭いていく。
埃のせいか分からないけど、床についていた手や膝にピリッとした静電気のような刺激を感じたのがちょっと気になったけど、時間をかけたこともあり、かなり綺麗になった。
ついでに窓も拭いて、干していた枕をパンパンと手で叩く。
「あ~すっきりした」
軽くストレッチしながら、私は綺麗になった部屋を見て満足する。
気分の問題かもしれないが、それでも何となく部屋の雰囲気が明るくなったように感じられた。
「しかし、侍女が一人しかいなかったとはいえ、ここまでほったらかしにするってどうなの?」
仮にも一国の王子なのにと思ったけど、周囲が何も言わないという状況がこの国の崖っぷち感を物語っている。
本当にやれるんだろうか? という不安が私を襲うけど、もう後戻りはできない。
やるしかないんだ。
「自分にできることをやるしかないよね。まずは部屋の掃除が最優先。あと食事もね。できればアルフォンス殿下に心を開いてもらいたいけど、すぐには無理だよね。……頑張ろう」
決意を新たにした私が掃除の後片付けをしている間に夕食の時間となり、食事を持ってきた使用人にシーツを持ってきて欲しいとお願いすると、すぐに彼女はシーツ類を保管している部屋から持ってきてくれた。
部屋に戻った私は、昼と同じく夕食も解毒し、アルフォンス殿下が食事をしている間に、寝室のシーツを交換する。
初めてのシーツの交換だったから、かなり下手くそだ。
とにかく、シーツの端を下に押し込めて、見た目だけは整えると、夕食を食べたアルフォンス殿下が、寝室へとやってくる。
「もうお休みになりますか?」
アルフォンス殿下は私の声が聞こえていないようで、部屋を見て目を見開いている。
「どうかなさいましたか?」
「……部屋がきれいになってる」
信じられない、という感じでアルフォンス殿下は口にしている。
最初の部屋の汚さを考えたら、そう思うのも無理はない。
「昼の間に掃除致しました。……お気に召しませんでしたか?」
「そんなことはない。きれいになっていておどろいただけだよ」
「そのお言葉を頂き、光栄でございます」
ニッコリと私が微笑むと、アルフォンス殿下はすぐに目を逸らしてしまった。
胡散臭い笑顔に見えたのかな? だとしたらちょっとショックかもしれない。
いやいや、ショックを受けてる場合じゃない。
私はもう寝るというアルフォンス殿下の着替えを手伝い、本をまとめるしかできなかった部屋を軽く掃除して、オスカー様へ挨拶をした後で用意されている自分の部屋へと向かった。
部屋はベッドと本棚が置いてあるだけで質素なものであった。
トイレとお風呂もあるし、寝るためだけの部屋なので不便はなさそうである。
早速、私は一日の疲れを取るためにお風呂へと入った。
この世界のお風呂は、基本的に石鹸とかは使わない。
どういう仕組みなのかは分からないけど、光魔法のお蔭で水で体を洗うだけで汚れとかが落ちるのだそうだ。
そういう仕組み? 魔法? が施されているみたいで、貴族の屋敷とか王宮には標準装備されているのだ。
でも、やっぱり石鹸の泡で体を洗わないと綺麗になった気がしない。
というこで、ゆっくりとお風呂に入って寝間着に着替えた私がベッドに入ろうとしていると、どこからともなくコンコンという何かをノックする音が聞こえてきた。
誰か来たのかと思い、私は部屋の扉を開けるけど、そこには誰もいない。
いないのにノックする音は続いている。
心霊現象!? ポルターガイスト!? ひぃ! 怖い!
涙目になった私がドアにへばりついていると、本棚の付近から何やら声が聞こえてくる。
か細いので何と言っているのか分からない。
私は足音を立てないように本棚へと近づき、耳を寄せる。
その際に手を本棚についたら、一冊の本が奥に入ってしまいカチッという音がすると同時に本棚が壁ごと回転した。
「え? うわっ! ちょっと」
ぐるんと本棚が回転し、支えを失った私の体が空間に投げ出されそうになる。
「大丈夫ですか?」
真正面から肩を支えられたことで、私は転ばずに済んだ。
一体誰が、と顔を上げると、心配そうな表情を浮かべているフィニアス殿下と目が合う。
「フィ、フィニアス殿下! どうしてここに!?」
「ああ、済みません。驚かせてしまいましたね」
突然あらわれたフィニアス殿下を見て私は混乱していたけど、正直、心霊現象じゃなくて心の底からホッとしていた。
散々驚いて、ようやく落ち着いた私に、彼はどうしてここに来たのかを説明してくれる。
「王城には敵から逃げるときに使用する隠し通路が張り巡らされているんです。いくつかの場所に出るように作られていますが、その内のひとつがアイゼン公爵邸に繋がっているんですよ」
すごい。物語の中でしか見たことのない隠し通路が実在しているなんて。
気になって、ちょっと中を覗いてみようと体を横にずらすと、同じようにフィニアス殿下も体を横にずらした。
彼と目が合うとニッコリと微笑まれてしまった。
どうやら、隠し通路の存在しか教えてくれないみたい。もう少し詳しく聞きたかったな。
「隠し通路の説明を忘れていて、驚かせてしまいましたね」
「……いえ、フィニアス殿下だったので大丈夫です。それよりも週に一度、殿下の執務室に報告に行くことになってたんですけど、ここに来るならあまり意味がないんじゃ?」
報告するだけだったら、ここで事足りるはずだ、と思ったのに、殿下は首を横に振っている。
「これまでの侍女も私に報告に来ていたので、貴女だけが来ないのはおかしいと思われてしまいます。ですが、執務室には他に人もいますし、込み入った話ができないので、こうしてここに来たというわけです」
「そういうことなら、分かりました。いや、かしこまりました」
私が言い直すと、フィニアス殿下の表情が緩んだ。
「……それで、初日でしたがアルフォンス殿下の様子はどうでした?」
「ずっと本を読んでいました。私に話しかけることもほとんどありませんでしたし、とても大人しい方ですね」
フィニアス殿下は私の話を聞いて「いつも通りですね」と呟いた。
「それと、食事の後に具合が悪くなった様子は見られませんでした。ですので、きちんと解毒はできていると思われます。毒が入っていたらの場合ですけれど」
「それを聞いて安心しました。明日からもよろしくお願いしますね。困ったことがあったら、たまに私もこうして来ますので」
「はい。頑張ります」
こうして初日にあったことをフィニアス殿下にお話しして、私は一日を終えた。