番外編・キールの決意(キール視点)
エルノワ帝国で暗殺者をやっていた頃は、まさかこんな平穏な暮らしをすることになるとは思ってもいなかった。
そもそも俺はエルノワ帝国のスラム街出身の、どうしようもねぇクソ野郎だった。
顔を合わせれば暴力ばかり振るっていた母親はガキの頃に死に、父親の方は顔も名前も知らねぇ。
魔力はさほど多くはなかったが、昔から悪運だけは強かった。
あのスラム街で生き残ってこられたんだから、相当なもんだ。
騙し騙され、裏切り裏切られ、邪魔者を殺して、そうして俺は生きてきた。
気付いたときには界隈で有名になっていて、貴族や商人から暗殺の依頼がくるようになって、俺の知らないところで有名になってたってわけ。
その結果、俺の噂を聞きつけたギー、ことイヴォンが俺に近寄ってきたんだよな。
当時は下級魔術師のローブを着ていたから、主人のおつかいで来ているんだろうと思っていたんだが。
まあ、見た目で決めつけていた俺の落ち度だ。
むかつくけど油断していた。だから、普段負けるような相手じゃない奴らに捕まる破目になった。
後は、自分の実力を過信していたのが敗因だよな。
「キール。フィニアス殿下が呼んでるけど」
俺を呼ぶ聖女様の声を聞いて、物思いに耽っていた俺は現実に引き戻される。
木の上で座っていた俺を見上げている馬鹿みたいにお人好しな聖女様。
「あ~。今行く」
俺はその場から飛び降りると、近くにいた聖女様が目を丸くしている。
あのぐらいの高さから飛び降りるのは普通にできるだろ?
「身軽ね」
「どうも。ところで聖女様。王子様は執務室にいるのか?」
「うん。そうだって言っていたわ。あと、私を聖女って呼ぶのは止めて。違うんだから。ただ」
「理由は何度も聞いたっての。俺があんたをどう呼ぼうが別にいいだろ。聖女様で通じるんだからよ」
「それはそうだけど」
そう言って、聖女様は口を尖らせている。
暗殺者として裏では割と有名な俺に向かって警戒心のかけらもなく油断しているのを見ると、こっちの調子が本当に狂う。
どうして、暗殺者に親しげに話しかけてくるのか。
アホじゃないのか? いや、アホだな。とんでもなくアホなんだ、この聖女様は。
そうでなければ、牢屋から逃げるのに俺を連れて行くわけがない。
拷問を受けていた俺に『大丈夫ですか?』と声をかけてきたときは、正直、見りゃわかんだろ! と言いたくて仕方なかった。
よりにもよって女に助けられ、無様にも生き延びて、敵の施しを受けたことは俺の自尊心をそりゃもうものすごく傷つけた。
だから、八つ当たりをしたときに、お綺麗な言葉を口にした聖女様に対して言いようのない怒りがこみ上げてきたんだ。
苦労をしていない、泥水を飲んだことなどない、綺麗な心を持った人間の言葉。
俺は、そんな人間が絶望の淵にたたき落とされても、お綺麗な心を保っていられるのか、という興味だけで聖女様に雇われる形を取った。
イヴォンが夜会に出席するのを、直前で聖女様に知らせたのもわざと。
目の前でむざむざと王妃が殺されてエルノワ帝国と戦争になったら、どんな綺麗事を言っていた奴でも命惜しさにこの国から逃げ出すだろうと思っていた。
なのに、飛び出していくんだもんな。あれはビックリした。
だけど、考えてみれば、あれはやる女だ。
助けを静かに待つタイプじゃないのは、牢屋の件でよく分かっていたはずなのに。
極限の状態に追い込まれた場合、人は自分の安全を優先させる。だから、聖女様もそうだと思ったんだ。
いや、違う。
そう思いたかったんだ。
今まで、そんな人間に会ったことがなかったから信じられなかった。本当は……心の奥底では、変わらない人間がいるのを見てみたかったのかもしれない。
自分の命を投げ出してまで他人を助けようとする人間がこの世に存在するのだと、見せて欲しかったのだと今なら思える。
結局のところ、俺は聖女様が何があっても変わらないまっさらな存在だってのを確認したかったんだろうな。
あのときの俺の行動は愚かで浅はかで何も分かってはいなかった。だから、認めるよ、聖女様。俺の負けだ。完敗だ。
俺の話を聞いたら、聖女様は笑うかもしれないが、あんたになら俺の命を差し出しても構わないと思えた。
だけど、今はまだそれを告げることはしない。俺は、これまでの自分を恥じているし、まだ聖女様に胸を張れるようなことはしてねぇからな。
だから、聖女様に胸を張れるような自分になれたら、そんときはあんたに忠誠を誓わせてくれ。
後は、まあ、あれだな。次は何をしでかすのか、正直楽しみでもある。
「何? 人の顔をジッと見て」
「いや、薄い顔だなと思ってな」
「……周囲の人の顔が濃いの! 私だって元の、……故郷じゃ顔は濃い方だったんだから」
「ああ、ナバート出身とか言ってたな。あっちはこっちほど顔は濃くないって聞くし」
途端に、聖女様は、え? そうなの? という表情を浮かべる。
いや、あんたの出身地だろうが。故郷の人間の顔が濃いか薄いかくらい覚えておけよ。
「とにかく! フィニアス殿下を待たせちゃダメ! ほら、早く行って」
聖女様のあからさまな対応に何か気まずいことがあるのかと思ったが、あの忙しい王子様を待たせるのも可哀想か。
俺は適当に聖女様に挨拶をして、王子様の執務室へと向かった。
「で、話はなんだよ」
部屋のソファに勢いよく座り、目の前にいる王子様をニヤニヤしながら眺めるが、奴の表情はまったく変わらない。
面白くねぇな。
チッと舌打ちすると、奴は軽く笑みを浮かべて口を開いた。
「貴方にルネの護衛を頼みたいのです」
「……勘違いすんなよ、王子様。俺の雇い主は聖女様だ。あんたの命令を聞く義理はねぇよ」
「きちんと報酬は出す、と言ってもですか?」
「金の問題じゃねぇ。俺は貴族が大嫌いなんだよ。信用できねぇからな」
王子様は俺の顔を見ながら大きなため息を吐いた。
別に俺はコイツが嫌いだから、こんなことを言ったわけじゃねぇ。
単純に自尊心の問題だ。雇い主以外の人間からの命令をホイホイ引き受けるような真似はしたくない。それだけなんだよ。
まあ、だけど。
「とはいっても、聖女様は大事な雇い主。あんたに言われるまでもなく、雇い主を守るのは当たり前だ」
「ひねくれていますね」
「言うな。俺が一番よく分かってるよ」
気まずくなって俺が王子様から視線を逸らすと、クスクスという笑い声が聞こえてくる。
俺を見ながら、楽しそうに笑っている奴の顔が思い浮かぶな。
「守って下さるなら結構です。ですが、彼女に触れられない状態では守れませんよ」
唐突に言われた言葉に俺は勢いよく王子様を見た。
奴は笑みを消して、ジッと俺を見ている。
すぐに俺は奴がこちらの考えを見抜いていることに気付いた。
「裏の仕事を生業としてきた貴方ですから、自らを汚れた存在であると思うのも無理はありません。清らかで真っ白なルネに触れてしまえば、彼女が汚れてしまうと考えるのも理解できます。ですが」
そこで一度口を閉じた王子様は、鋭い目をこちらに向けてきた。
「自惚れるな」
視線と言葉に俺は気圧されて言葉が出ない。
「貴方ごときが触れて、彼女が汚れるなど思い上がりも甚だしい。どれだけ自分が凄い存在だと勘違いをしているのか。彼女の属性を忘れましたか? 貴方の汚れなど簡単に分解できます。彼女の魔力量は貴方とは比べものにならないのですから」
思わず息をすることさえ忘れていた俺は、慌てて息を吸い込んだ。
「……んなことは、分かってんだよ」
嘘だ。今、言われて理解した。悔しいから絶対に言わねぇけど。
「でしたら、次から彼女が危ない目に遭いそうになったら、身を挺して守って下さいね」
「分かってるよ」
目が全く笑っていない笑顔をぶつけられ、俺はそれ以上何も言えなかった。
悔しいが、こいつが言ったことは全て正論だ。反論する余地もねぇ。
息を吐いた俺は、真正面に座る王子様の顔をチラリと見る。
この王子様は見た目と中身が一致しない人だ。
見た目だけでいえば、貴族達が言っていたように取るに足らない凡庸な人間。毒にも薬にもならない、見た目だけが良い優男。
けれど、中身は中々に熱いし、頭の切れる人物だ。それに、筋肉の付き方や身のこなし方を見ても、剣の腕は中々のものじゃないかと俺は見ている。戦って勝てるかどうか微妙なところだと思う。
とはいっても、俺は王子様の敵になるつもりはないから、戦うことにはならない。
だってよ、その場合、聖女様が王子様と敵対するってことだぜ? あり得ねぇだろ。
聖女様と王子様が想い合っているのは、見ていれば分かるからな。
だけどよ、王子様。
「……あんたは聖女様をどうなさるおつもりで?」
涼しい顔をしている王子様を見て、なんだか悔しくなってしまい、俺はつい意地の悪い質問を投げかけた。
貴族に準じると言っても、王族と平民だ。そう簡単に結ばれることはないし、色々と障害もあるだろうと分かっていながらも俺は口にした。
なのに、王子様の表情は全く変わらねぇ。
「別に、どうもしません。しばらくは協力していただきますが、きちんと国に返す手伝いをしますし、帰れるのであれば、返します」
「それでいいのかよ」
「いいも何も、私と彼女がどうこうなるなんてありえません。彼女は私のことなど何とも思っていませんよ。世話を焼いてくれるから懐いてくれているだけです」
王子様は悲しげに微笑んでいるけど、ちょっと待て。
あんたら、あんだけ情熱的に見つめ合ったりしているのに、何で両思いだって気付かねぇんだよ!
この屋敷の使用人だって気付いてるぞ! 気付いた上で、平民なんて気にせずに聖女様を女主人として扱ってるぞ!
見当外れな王子様の台詞に俺は脱力した。
…………………………アホらしい。
ここで、聖女様も同じ気持ちだとばらしても良かったが、もう、なんというか、ただただアホらしい。
別に俺が動かなくても、上手くいくときは上手くいく。
男女の仲なんてそんなもんだ。俺は知らん。
勝手にしてくれ。
「あんたが、そう言ってるならそうなんだろうな。それで、話は護衛の件だけか?」
「ええ、そうです」
「なら、護衛らしくちゃんと聖女様を陰からお守りしますよ」
じゃあな、と言って俺は鈍感なフィニアス殿下の部屋から出て行った。
途中、通りがかった使用人から聖女様はまだ庭にいると聞いて、そっちへ向かうと、俺の姿を見つけた彼女がニコッと笑い大きく手を振ってくる。
まったく気の抜けることだ。
呆れてため息を吐いたが、こういう暮らしも悪くないと思う自分がいるのも事実。
だから、ちゃんとあんたを守ってやるよ。
それに、平民が王弟妃になるなんて面白いじゃねぇか。