19・フィニアス殿下と私
その日の晩。
夜も深まり、静まりかえっている中、私は自分の部屋でベッドに座って足をブラブラさせていた。
「落ち着かない」
頑張ってベッドに横になって目を瞑ってみたけれど、いくら時間が経ってもまったく眠くならず、私は寝ることを諦めたのである。
頼みの綱の携帯電話は予想通り電源がつかず、私の支えにはなってくれなかったことから、未だに暗い部屋で眠ることができない。
でも、明け方くらいになれば、限界がきて眠れるでしょと軽く考えながら、ベッドの上をゴロゴロ転がったりしていると、扉をノックする音が鳴る。
こんな夜中に誰だろう? と思いつつ、私は小さめの声で「誰ですか?」と扉の向こうの人に問いかけた。
「ルネ。私です」
あ、フィニアス殿下だ。
私は慌てて部屋の扉を開けると、こちらを心配そうな表情で見つめているフィニアス殿下が立っていた。
「どうかしたんですか?」
「テオバルトやモーンシュタイン伯爵から、貴女がよく眠れていないようだという報告を受けていまして。それで、部屋の明かりがまだついていたものですから、気になって」
まさかバレていたとは思わず、私は言葉に詰まると、フィニアス殿下は小さなため息を吐いた。
「その様子ですと、今日も眠れないみたいですね。なら、気分転換でもしますか? とっておきの場所があるので案内しますよ?」
私が何も言わないことで何かあると察したのか、彼は気を使ってそんなことを言ってくれる。
理由を聞かれないことに私は安心したが、フィニアス殿下が口にした、とっておきの場所という言葉に首を傾げる。
疑問が顔に出ていたようで、フィニアス殿下はフッと笑った。
「この屋敷で私が一番気に入っている場所です。いい気分転換になると思うのですが、どうでしょう?」
「…………お願いします」
このまま一人でいても寝られそうにないし、部屋に籠もってたらネガティブなことばかり考えてしまうから、気分を変えるのは大事かもしれない。
それにフィニアス殿下が気に入っている場所というのも気になる。
「こちらです」
私は歩き出したフィニアス殿下の後をついていく。
少し歩いて、私達はある部屋に入った。
「ここは」
「私の執務室ですよ」
「執務室が一番のお気に入りの場所なんですか?」
「いいえ」
フィニアス殿下が本棚を横に移動させると、裏に上へと続くはしごがかかっていた。
「この上が私のお気に入りの場所になります。お先にどうぞ」
フィニアス殿下のお言葉に甘えて私が慎重にはしごを登り切ると、三畳ほどの広さの屋上みたいな場所に出た。
両隣は斜めになっていたので、多分屋根の部分に作られているんだと思う。後ろは壁で前だけが開いている状態である。
暗いこともあってよく見えなかったけれど、ところどころに外灯、もしくは家の明かりのようなものが見えた。
高い場所から見下ろしていることもあり、遠くまで見渡せる。
離れた場所まで明かりが灯っているのを見て、私は無意識の内に口を動かしていた。
「……綺麗」
「でしょう」
いつの間にかフィニアス殿下が上がってきていたようで、かけられた声に私が驚いている中、彼は視線を景色の方へ向けたまま静かに話し始めた。
「幼い頃、大叔父が泣いていた私を慰めようと連れてきてくれたのがきっかけで、ここがお気に入りの場所になったんです」
「大叔父様、ですか?」
「ええ。大叔父は先々代の国王陛下の弟にあたる方で、先代のアイゼン公爵家当主でもありすね。同じ王弟という立場でしたので、幼い頃から気にかけてもらっていました。ですから、ここは大叔父との思い出の場所でもありますね」
大叔父様との思い出を懐かしんでいるのか、フィニアス殿下は目を細めている。
「迷ったとき、不安なとき、落ち込んだときは、ここに来て元気をもらうんです。街の明かりを見て、私が守らねばならない民があそこにいるのだと思うと、泣き言など言っていられない、国を守るためにもっと働かなければならないと思えるのです」
フィニアス殿下は迷いなく言葉にした。
王族という立場がどれほど大変かなんて私は想像することしかできないけど、常に人から見られて、失敗すれば色々と言われる立場だというのは分かる。
とてもじゃないが、私には耐えられないと思うし、そこまで前向きに考えることもできないだろう。
「……フィニアス殿下は、すごい方ですね」
「そんなことはありませんよ。私は王になりたくないと思っている情けない人間に過ぎません」
「ですが」
「私は、自分の判断で国を動かすことが恐ろしくて仕方がないんですよ。自分の考えに自信が持てないんです。本当に正しいのか、間違っていないか。私の判断で民の生活が苦しくなりはしないか。死ぬようなことになりはしないか、とね。だからこそ、私は卑怯者だと言われているのでしょう」
悲しげに口にしたフィニアス殿下を見て、私は思いっきり首を横に振った。
「ちがっ、違います! 殿下は卑怯者じゃありません!」
フィニアス殿下はゆっくりと顔を動かして私と目を合わせたが、どことなく悲しげな眼差しをしている。
どうかしたのですか? と話しかけようとしたが、先にフィニアス殿下が口を開いた。
「……前も、貴女は騎士に向かって私が卑怯者じゃないと言ってくれましたね。なぜですか?」
あの日の出来事をフィニアス殿下が知っていることに私は驚いたけれど、テオバルトさんが知っていたのだから、彼が知っていたとしても不思議じゃない。
偉そうに言えた立場じゃないのは分かっているが、それでも私はフィニアス殿下に自分の考えを伝えたいと思った。
「卑怯っていうのは、自分のためだけにしか動かずに、どっちにもいい顔をして裏でこそこそ自分が有利になるように手を回した挙げ句、終わった後で、さも最初から味方でした、みたいな行動をする人のことを言うんだと思うんです。国のためを思って何とかしようと行動しているフィニアス殿下が卑怯なわけないじゃないですか!」
これだけは自信を持って言える。フィニアス殿下は卑怯者じゃない。
私の強い物言いにフィニアス殿下は目を丸くさせた後、いつものように穏やかな笑みを浮かべた。
「……貴女は、不思議な人ですね。いつも私の欲しい言葉をくれる。計算されたものではないから、強く心に響くのだと思います」
「はあ」
いまいち自分じゃピンとこないけど……何にせよ、フィニアス殿下の気分が軽くなったのなら良かった。
ニコニコと笑っていると、フィニアス殿下が、そういえばと声をかけてきた。
「クリスも貴女のことを不思議な人だと言っていましたね」
「クリスティーネ様もですか?」
親切にしてもらっているけれど、そういう風に言われていたとは意外。
フィニアス殿下が私に教えてくれたということは、悪い意味ではないと思うけど。
「貴女と話していると穏やかな気持ちになれるのだそうです。……あの子は昔から素直になれないというか、少し口が過ぎるところがあって、他の令嬢とぶつかることが多かったものですから、それを聞いて驚きました」
「ですが、クリスティーネ様は元々面倒見の良い方なのだと思いますよ。その証拠に、とても親切ですし、分からないことはちゃんと教えてくれますから。色々と世話を焼いて下さるので、すごく助けられています」
本当にクリスティーネ様を連れてきてくれたテュルキス侯爵に感謝しているくらいだよ。
あと、彼女が穏やかな気持ちになれるのは、私が平和ボケしているから力が抜けてしまうだけなんじゃないかな、と考えていると、フィニアス殿下はとても嬉しそうな表情を浮かべている。
「そういう貴女だからこそ、クリスも素直になれたのでしょうね。あの子は人から誤解されることが多いので、きっと嬉しかったと思いますよ」
「そうだといいですけど」
私としてはクリスティーネ様とお友達になりたいと思ってるんだけど、身分を考えると難しいよね。
ここは日本じゃないし、貴族と平民はきっちりと分けられている。
仲良くしたいのに、残念でならない。
私がそんなことを考えていると、フィニアス殿下に「ルネ」と呼ばれ、我に返る。
彼は何かを探るような目を私に向けていた。
さっきまでとは違い、あまりにも真面目な顔をしているので、私は戸惑ってしまう。
「あの……」
「大丈夫ですか?」
たった一言だったけれど、フィニアス殿下が私の不安とかそういうのを分かっているのだと理解した。
同時に、彼が私の本心を知ろうとしていることも。
でも心配をかけたくないと、私は即座に「はい」と嘘をついた。
「本当に? 嘘をついてはいませんか?」
「そんなことは」
ないと言いたかったけれど、フィニアス殿下の視線に気圧されて思わず口を噤む。
彼は私の様子を見て、やはり、と小さく口にした。
「私はルネのことをとても強い人だと思っています。ですが、争いごとに巻き込まれずに普通に生きてきた貴女が、あれだけ怖い目に遭ったにも拘わらず、今も気丈に振る舞っていることが心配でなりません。体の傷は目に見えても心の傷は見えません。私にまで遠慮しないで下さい。ちゃんと気持ちを吐き出して下さい。一人で悩ませたくなどないのです。ちゃんと、受け止めますから」
「……だいじょう、ぶ」
大丈夫です、と最後まで言えなかった。
眠れなかった最大の原因はあの日のことを思い出していたから。
誰かに不安を吐き出すことはできなかった。国が滅ぶかどうかの瀬戸際で大変なのに、私のことでこれ以上迷惑をかけたくなかったから。
この世界で一番信頼しているフィニアス殿下に優しく言われたことで、堪えていた感情が溢れて、視界が涙でぼやけてくる。もう限界だった。
「……ご…………ごわがっだでずぅ!!!」
溢れた感情と涙はもう止められず、私は涙をダバーっと流しながら口にしていた。
もしかしたら鼻水も出ていたかもしれないけど、そんなことは気にならない。
視界がぼやけていたので、フィニアス殿下がどういう表情をしているのか分からなかった。
でも、彼は泣いて不細工になった私を優しく抱きしめてくれた。
「よく頑張ってくれました」
落ち着いた声とゆっくりと背中を撫でる手に安心して、私は少しだけ落ち着きを取り戻す。
「ほ、ほんとうですよ。臭いし、暗いし、ジメッとしてるし、臭いし、空気は淀んでるし、食事は不味いし、臭いし」
「……臭いということはよく分かりました」
「助けが、こなかったらどうしようって不安で」
「すぐに助けられなくてすみませんでした」
「斜め前で拷問されてるキールはいるし、テュルキス侯爵は明朝首を刎ねろとか言うし……し、死ぬんじゃないかって、怖かった」
また涙が溢れそうになった私を、フィニアス殿下が強く抱きしめ頭を撫でてくれた。
「今、貴女は私の腕の中にいます。一番安全な場所にいます。私は契約を違えません。命にかえても貴女を守ります。だから、もう大丈夫です。安心して後のことは私に任せて下さい」
フィニアス殿下の言葉に私がゆっくりと頷くと、抱きしめられていた腕が緩くなり、少しスペースができたことで、私はそっと彼の顔を見上げる。
私を安心させるような笑みを浮かべている彼を見た瞬間、ずっと心の中で引っ掛かっていたものの正体が分かった。
私、フィニアス殿下のことが好きなんだ。
12月中に一章を終わらせようと思っているので、水曜、土曜更新をしていきます。