#39「Circulation」
「茶岳…漆…何で、ここに」
夏希は、目の前の男に、雪音を刺した男に問う。
「…昨日の沈没事件で殺した白髪男が漂流してないか見に来たら、偶然」
漆は平坦な顔で告げる。
すると、血まみれの雪音が首を後ろに回して言った。
「お前が…」
「ん?」
「お前が…白神を…!!!」
雪音はそう叫んだ瞬間、閉じていた《凍結眼》をかっと見開いた。
(!!!)
彼女に視られた人間は凍死する。あの日から3年も付き合っている夏希なら、周知のことだった。
---だが。
「…!!!」
「…消えた!!?」
その時、漆の姿はいつの間にか雪音の視界から外れていた。そして、
「…っ!!!?」
「…流石にヒヤヒヤしたね、今のは」
気付いたら、漆は雪音の真後ろに移動していた。漆は雪音の後頭部を強く押さえ付けると、コンクリートの地面に強く彼女の額を打ち付けた。
「雪音!!!」
雪音は、瀕死状態に追いやられていた。脳震盪で意識は失っている上、姿勢が俯せになったせいで、腹部からの出血が更に加速している。
夏希には今、何が起きたのか理解していた。彼が自らの《眼》を利用して、雪音の視界から一瞬で消え失せたのだ。《インビジブル》のメンバー内でも極めて突出した、強力な能力で。
「やめて…」
「ん?」
「やめて…雪音が死んじゃう!!!」
夏希は足元にあった予備ライターを拾うと、漆にその手を向けた。流れる涙を無視して。
折角、仲直りできると思ったのに。
こいつが、全てを台無しにした。
「…」
「…すぐに発火しなかった辺り、まだ《インビジブル》としての道を歩むつもりはありそうだ」
漆は雪音の頭から手を話すと、立ち上がって冷徹な視線を向けた。夏希は大きな畏怖と僅かな怒りに、ライターを握る手を震わせる。
「…それで? さっきの状況は?」
「別に、仕事の話で…」
「へえ、私には本気の殺し合いしてたように見えたがね? あそこまで露見を嫌ってた《促熱眼》まで使って」
「…っ…」
夏希は言葉に詰まる。言い逃れはできないと思っていたが。
「私は彼女の《血》を回収しろと指示した。呼んだのは向こうのようだが、何故それしきの任務も果たせない?」
「果たす必要が無いと思ったから」
「そうか」
すると、漆はコンクリートに倒れた雪音の背中からナイフを抜いた。出血が進み、《鮮血》が地面に赤の斑模様を作る。
「…っ…だからやめろって言ってんだろ!!!!」
「やめろ、だと? 誰に口利いているんだ」
漆は鋭利な眼光とともに、《血》のついたナイフを夏希に向けた。
「…っ!!!」
「《それ》をバラせばどうなるか、分かってるか?」
---そう、これが夏希がインビジブルに加担せざるを得ない理由。
夏希が雪音の《眼》の秘密を握っているように。
漆は夏希の《眼》の秘密を知っている。
---漆は邂逅で、こう告げたんだ。
私に従わなければ、君の《眼》を世間に公開する、と。
「…それだけは…」
夏希は支配する側でも、支配される側でもある。
雪音の、夏希にひれ伏す感覚とはまた別のものだ。夏希の支配のされ方は、恐怖そのもの。
「…ならば、その意志を見せよ」
「…え?」
「今ここで、彼女を焼き殺せ」
「!!!」
夏希の体が大きく震える。
雪音の殺害。ついさっきまで自分が3年間願い続けた悲願。ついさっきまでは。
実行は容易だ。彼女は今、目の前で倒れている。放置しても死ぬだろうし、ライターの炎で即時焼死させることも可能だ。
「どうした、早く殺れ」
「…!!」
夏希は、ゆっくりとライターを握る右手を正面に差し出した。
(…元々殺す予定だったんだ…何も迷うことなんて…)
親指をライターのスイッチの上に乗せる。
そこまで来て、夏希はこう呟いた。
「…まえだ」
「む?」
「死ぬのは、お前だぁぁっ!!!」
私には、雪音を殺せない。その思いが圧倒的に勝る。
ライターに赤い火が付けられると、炎が一気に拡大。漆の顔へと直進する。
「!!!」
不意を打たれた漆は少し驚いた顔をした。だが。
---世界が一時停止した直後。
「…」
「結果は自明だった癖に、本当に愚かだ」
炎は不発。それどころか、彼の毛髪さえ掠めなかった。
漆の姿は、夏希の背後にあった。さっき、雪音が刺された時と同じように。
---そして、自分も同じように刺された。背中から、雪音を刺したのと同じナイフで。
(…こいつの《眼》…チート…すぎる…!!)
漆に対する畏怖は喪失された。服従の必要性の喪失、腹部を刺されたことによる激痛、親友を殺さずに済んだことへの安心感。その全てが、夏希の感情を滅茶苦茶に歪めていた。
夏希は《血》を大量に吐くと、冷たいコンクリートへ倒れた。
「…君の《眼》は、全てが済んだら暴露しよう」
漆は、雪音の側にしゃがむとポケットから小瓶を取り出した。
「親友と共に逝けることを感謝したまえ」
「やめ…ろ…」
夏希は、掠れた声を発する。あまりに無力だ。
漆は雪音の《血》の回収を済ませると、立ち上がった。
「…黄村や榛葉紫はもう少しまともに仕事してから死んだぞ? 君がした仕事は、《血》の提供だけだ」
それが夏希が聞いた、漆の最後の言葉だった。
漆はコンテナの間を通って行くと、港の方へと姿を消した。それまで一度も彼は振り返らなかった。
(…勝てない…!! あんな《眼》…誰が戦っても…)
夏希は拳を握った。《インビジブル》で活動していた時、夏希はさっきみたいに何度か漆に刃向かった。でもその度に、彼は《眼》を利用して夏希を力で捩じ伏せた。
彼の能力は《末刻眼》---時を停止させる《眼》。
今までの攻撃、全てそうだ。雪音が彼を凍死させようとした時も、夏希が火炎放射を放とうとした時も、全て危険を察知して、彼の視界に捉えられている万物に流れる時を止めた。そして、秒針が進まない彼だけの世界で彼は後ろに廻り、刺した。
仕組みは知っていた。知っていたけど、夏希は賭けに出た。そして、失敗した。
(…このまま死んで…たまるか…!!!)
夏希は右手で真紅のライターを握り直す。最後のあの言葉、夏希はとても悔しかった。私は《血》の提供だけで生涯を終える阿呆ではない。寧ろ、仕返ししてやる。そう心に強く思ったのだ。
「雪音…!!!」
そう言うと、夏希は雪音の露出した腹にライターの炎を当てた。
雪音は刺されてからだいぶ時間が経過している。一刻も早く傷口を塞がないと、失血死する。躊躇いは無かった。
「頼…む…!!」
勿論、さっきのような業火では焼いていない。だが、弱火過ぎるとリミットに間に合わない。最低限の負担に抑え、且つ迅速に傷口を固める。
ふと思い出したように、腹の火傷のせいでアイドル人生が台無しになった自身を想った。この火傷のせいで、雪音も活動の幅が狭くなるようになったらどうしよう、という考えが頭を過ったのだ。
でも、それ以前に命が優先だ。仕事の楽しみを失う以前に死んでしまったら、彼女には何も残らないのだから。
暫く、雪音からの反応は無かった。だが数十秒後、
「…っ…」
「!!!」
雪音が左目を開いた。意識を取り戻したのだ。
「雪音…!!!」
「…っは…これは…っ…どういう状況…だ…?」
「…漆が…あなたと私を刺して…去った…」
「そうじゃなくて…っ!!!」
すると、雪音が苦痛に歪んだら顔を浮かべた。夏希はすぐに《促熱眼》を解除する。
「ご…ごめん!! …緊急だったから」
「…焼いて塞いだのか…とんだ荒治療だっ…」
すると突然、雪音は閉じていた《右眼》を開いた。
「え…?」
それは即ち、夏希の凍死。寿命の終了。
と思ったが、
「---頼む…っ!!」
雪音の視線の先、ナイフが刺さった夏希の腹部。
そこだけが、ピンポイントで凍結したのだ。
「え…」
「…っ」
雪音はホッとした表情を浮かべた。
「雪音…いつの間にか…制御できるようになったの?」
「いや、賭けた…」
「ちょ…凍死したらどうするつもりだったのよ!!?」
夏希は呆れ返った。だが、完璧な部分凍結だ。貫かれた部分だけを的確に凍らせている。冷たくて傷が痛むが、一応これで夏希の応急措置は完了した。
「…凍死させない…自信は…あった」
すると、雪音の呼吸が再び細くなった。
「お、おい…!!」
「畢竟、最後は技量…なんだろう。後は、任せた」
雪音はそう言うと、再び両目を閉じてしまった。
(…また意味不明なこと言って…)
夏希は、コンクリートに落ちていた眼帯を彼女の《凍結眼》に被せてやった。やっぱり彼女には、この眼帯は似合わない。
本当は理解している。雪音は自らの《眼》から逃げていたんだ。でも昨日の件で強い志を持った彼女は、揺らぐことが無くなった。さっきは《賭け》だなんて言っていたが、実際は隅々まで神経を研ぎ澄まして傷口を塞いだんだろう。慣れではなく、鍛練だ。
夏希は雪音の上着から彼女のスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを起動した。
(…!! この子、確か《碧》の…)
夏希は「碧柳黒乃」と記されたトーク画面を開き、通話ボタンを押した。何故かプロフィール画像は設定されていない。
発信から応答まで、さほど時間は掛からなかった。
『もしもし!! 雪音、今どこ!!?』
開幕、動転気味の少女の声が聞こえた。幼い雰囲気だが、凛々しさも同時に感じる特徴的な声色だ。
「…助けて」
『え?』
夏希は質問には答えず、率直に今の願望を伝えた。
『あの、もしかして…橙本夏希…さん…ですか?』
テレビかラジオで聞いた声色で判断したのだろう。一瞬回答に迷ったが、
「…そー…だよ」
夏希は認めた。彼女の声の奥でどよめきじみた音が聞こえる。MEIの本部、とやらにでもいるのだろうか。
『な…何で夏希さんが…ゆ、雪音は?』
「…昨日の港」
『え?』
「昨日…あなたたちが…船に乗った港の…埠頭に…いるから、救命道具持って…急いで…」
ここの詳しい住所を夏希が知るはずもなかった。激痛が迸る腹部を抑えながら、夏希は手短に言葉を済ませようとした。何故救命道具が必要か説明しようかとも思ったが、一刻を争う事態だ。割愛せざるを得ない。
『そこに2人がいるんですか…?』
「…そうだよ…。だから急いでっ…!!!」
『は、はい!!!』
通話は向こうから切られた。
夏希は苦しげな雪音の顔を見つめた。薄氷のように冷たくなった柔肌、静寂の内に閉じられた目と《眼》---死んでいるのではと錯覚するような表情だ。
(あと少し…だから…!!!)
夏希は雪音の冷えた両手を強く握ると、黒乃たちの到着を必死に願った。
***
国道13番線。
「先輩!! なるべく急いで」
「分かってる」
私は翠先輩の運転する軽自動車に乗せられ、昨日の埠頭へ向かっていた。
「課長の車借りてんだ、事故ったら…」
「そ…そうですね」
「全く…リーダーはこんな忙しい時にどこ歩いてんだ」
翠先輩がハンドルを右に回すと、車は長い海沿いの道へと入った。
「しかし…橙本夏希」
さっき、私が夏希と通話をしていた時の、どよめき。あれは、相手がアイドル歌手であることに対する驚きではない。
---橙本夏希が7色目、即ち《オレンジ》の所有者である可能性の浮上に対する懐疑だ。
「まさか…本当に?」
「そういえば雪音、昨日の話をした時…何かに気付いたような反応してました」
あの時雪音は、薄々気付いてたのだろうか。仕事仲間である夏希が《異能力者》であることに。
「…とにかく、この呼び出しは彼女による罠の可能性もある。気を引き締めろ」
「…はい」
私は先輩の警告に小さく頷いた。
やがて、小さなコンテナ群が車窓から垣間見えた。先輩はその側に車を停止させると、すぐに扉を開けて降車。私も後に続く。
コンテナの迷路に入ると、そこは不気味なほど静かだった。聞こえるのは、さざ波の音だけ。赤、青、緑など様々な色のコンテナが私たちの左右の視界を遮っていた。
(…不意打ちされたらどうしよう)
私がそう思いながら、細い迷路を抜けた時だった。
「!!!」
視界の開けた場所。二人の少女が血塗れになって、冷たいコンクリートの上に俯せになっていた。どちらも特徴的な髪色だ。
「雪音…夏希さんっ…!!」
私は急いで二人の元に駆け寄る。後ろから翠先輩も付いてきた。
「うわ…こりゃ酷いな…」
先輩は雪音の腹部を診た。小さな臍の左側に大きく焼けただれた火傷跡がある。そして、夏希の右手には赤いライター。
「ま、まさか…焼いて塞いだ…!!?」
「粗雑極まりねーな…けど応急措置としては十分だ。橙本の方は氷漬けにされてやがる」
翠先輩は手提げの救急セットを出すと、雪音の治療を開始した。最も、このセットでは殆ど役立たなさそうだが。
「雪音…ねえ、雪音、起きて!!!」
私はひたすら雪音に呼び掛けた。だが返事はない。
「大丈夫だ…かなり危ない状態だが、生きてる」
「でも…!!」
私は怖いんだ。自分のせいで、これ以上仲間を失うのが。昨日の客船での悪夢がフラッシュバックする。
その時。
「…あなたが…黒乃ちゃん…」
「!!!」
雪音と向かい合って倒れていた夏希が、細い目を開いた。テレビで何度も聞いた可愛らしい声も、今は激しい呼吸音にかき消されてしまっている。
「夏希さん!!!」
「さん付けはいいよ…むず痒いし…それより雪音は?」
「…意識は…戻ってないです」
「…そうか」
夏希は私から視線を逸らした。その時。
「---あんた、《インビジブル》の一員か?」
雪音の治療をしていた翠先輩が直球で問い掛けた。夏希の顔がひきつる。
「ちょ…先輩、いきなりそれは…!!」
「…そーだよ」
「え?」
「…どうせ…雪音が…救われれば…分かることだし…」
夏希はあっさりと肯定した。僅かながらそうではない可能性を信じていた私は、思わず閉口した。
「…刺したのも?」
「それは違う」
「じゃ誰が」
慌てる夏希に、翠先輩は問い掛けた。
「---茶岳漆」
「…!! 漆って…黒乃が言ってた」
そう。タワーでの事件の時、乙葉が思わず漏らした組織のリーダーだ。
私は立ち上がった。
「夏希さん」
「さん付けは要らないって」
「---夏希、その人のいる場所を教えて」
「!!」
夏希と翠先輩は同時に目を見開いた。
「お前、何言って…」
「…渋谷駅徒歩8分、渋谷防災機能開発ビル。今は廃ビルだよ」
「能力は?」
「《末刻眼》…視界内の物体及び生物に流れる時を停止させる」
「お…おい」
先輩は口を挟もうとするが、私は気にせず続ける。
「武器は?」
「剣も拳銃も使う。あなた一人じゃ倒せない」
「…ありがとう。それだけ情報があれば充分」
私は自身を急かすように、その場を立ち去ろうとした。
「待てよ…」
後ろで翠先輩が低く唸ったのが聞こえた。
「先輩は2人を本部に連れて治療をお願いします。私は最後の戦いに行きます」
「待てよ!!!」
今度は叫び声だった。私はゆっくり振り向く。
「無理だ!!! お前一人じゃ負けるのは必至だ!!!」
「勝てる、勝てないの問題じゃないんです」
私の頬に、一筋の汗が垂れて行く。
「負けたら《血》を採られるんだぞ!! 6つ目の門…雪音の《血》はもう破られている!! お前は世界に破滅をもたらす最後の鍵なんだ!!」
「そんなことは分かってます!!!!」
私は叫び返した。心が、はち切れそうだ。
「雪音を…こんな目に遭わせた人が…赦せないんです!!!」
「…」
夏希は、穏やかな顔で私の感情吐露に静かに耳を傾けていた。対して、翠先輩は治療の手を止め、獲物を食した後の白虎に似た目力でこちらを強く睨む。
「和樹も…理くんも酷い怪我負って、白神先輩も殺されて…もう我慢の限界なんです」
「だからって…!!」
「これ以上誰も傷つけない…だから私が、終焉らせる」
私は病的なまでに漆の殺害に固執していた。勝てないのは自明だ。でも、怒りの矛先を彼に向けることに、私は意義があると思った。この思考は狂ってる。
「…これが最期になったら、ごめんなさい」
私は吐き捨てるように呟くと、コンテナの迷路の中へと姿を消した。溢れそうな涙を拭いて。
***
埠頭には、3人残った。翠と、夏希と、雪音。
「…なぁ、あんた」
「…私?」
「何であんなこと言ったんだ」
翠は、夏希に訊いた。瞳を静かに怒らせながら。
夏希は言った。「あなた一人じゃ倒せない」と。それならば何故、漆の場所や《眼》を教える必要があったのか。あなたじゃ勝てないから教えない、教えたら行ってしまうのだろう、で済む話だ。にも拘わらず、黒乃を殺し合いへと誘導した夏希に、翠は怒っていた。理解を示せなかった。
だが夏希は、予想外の返事をした。
「…言ったじゃん、『あなた一人じゃ倒せない』…って」
「は?」
「お姉さんも…言ってたじゃん、『お前一人じゃ負ける』って」
「…!!」
「彼女は本気で漆を殺す気だよ…でも、絶対勝てない。一人ならね」
「お前は…」
この少女は、何者なんだ。我々よりずっと黒乃のことを分かっているんじゃないか---翠は、そんな錯覚さえ覚えた。
「…一緒に、闘おう」




