#38「I can't」
「これは…流石に予想外だ」
静寂の埠頭で派手な爆撃を掠められた雪音は、何とか平静を装いつつ話していた。
「いや、これは雪音の予想通りの結果だよ」
火炎放射を放った夏希は、紫色のライターを右手の人指し指と親指の間に挟んだ。普段、武器に使っているようで、使い古している具合に青く錆びている。
---これで漸く雪音は、はっきりと理解した。
彼女もまた、殺人の《眼》を持っていたんだ。凍死という《凍結眼》での殺し方と対極にある、焼殺で。
「…能力のコントロールができないのは《右》だけかと思ってるかも知れないけどね、実際は違うよ…《左》の制御だって、最初の内は苦労するんだ」
「…それで感情の浮揚に比例して炎が拡散した…と?」
「そう。彼女が死んだと悟った私は自棄になった。でもそれが、全焼という最悪の結果を生み出してしまった」
「…全焼…」
「木々ばかりで延焼の規模が都会と違うから…村内での累計死者数は彼女を含めて13人…。この数字は一生忘れないよ。だって、私が殺したも同然の人間の人数だから…」
夏希はそう言うと、ライターの蓋を再び開いた。
「…さて、何でこんな話、雪音にしてるんだか…まあどうせ死んで貰うけど」
「…《血》の要素は殺めちゃまずいんじゃないのか?」
右手を向けられた雪音は身構えて言う。
「本当は漆様から命令受けてるよ」
「漆様って…ボスか」
雪音は黒乃が昨日話していたのを思い出す。《様》まで付けて、随分と陶酔的な崇拝をしているようだ。
「でも、個人的には殺したくて堪らない…のっ!!」
その瞬間、夏希の《眼》がオレンジに染まった。ライターが再び火を吹く。
「くっ…」
雪音は火炎放射を右に避ける。水色の髪がまた僅かに焦げるのを感じた。威力が桁違いで迂闊に近付けない。
《凍結眼》は例外だか、通常《眼》は攻撃手段の補助をするのが一般的で、黒乃の《終末眼》は、その典型だ。だが、攻撃に使えない《眼》も多数存在する中で、夏希は自分の能力の特性を最大限に活かしている。
自分も力を使わなければと思ったが、この《眼》は使い勝手が極めて悪い。何たって人を視界に捉えたら死んでしまうのだから。
夏希を説得させたい。でも、殺したくない。
その一心で彼女を埠頭に呼び寄せた雪音は、ただ攻撃をかわすことしかできなかった。だが、そんなことをしている間にも、雪音の身体や衣服が徐々に蝕まれていく。
(ライターを奪わなきゃ、まともに話もできないか…!!!)
彼女の攻撃手段はこれだけだ。火種を封じれば、あの《眼》は威力を失う。
「雪音はいつだって私の上を行っていた…それが気に食わないのよ!!」
炎が連発される中、夏希は愚痴を吐いた。雪音はその言い分に反駁する。
「それで僕を殺すと? 余りにも理不尽な話だな!!!」
「理不尽なのは私よ!!!」
そう言うと、夏希は雪音の眼帯に向けて炎のラインを紡いだ。
「!!!」
雪音は仰け反ってそれをギリギリで避けた。
(ピンポイント投射…!!?)
炎の燃焼領域も操れるようだ。酸素分子の導火線を作っているのか、熱運動を連鎖的に起こしているのかは分からない。
「私だって頑張ってるのに…どうして世間はそれを分かってくれないの!!?」
「君だって力はあるだろ!! 」
「仕方無いのよ、これがあるから!!!」
そう言うと、夏希は着ていた衣服を腰から捲った。
「…!! それは…」
夏希の腰に描かれていたのは、火傷だった。スカートの下から左腰の辺りに、酷い傷痕が残っている。
「左肩まで続いてるわ」
「…まさか…君が水着撮影を頑なに拒んでいた理由…」
黒乃と雑誌を読んでいた時にも思ったが、雪音には水着の撮影が何度も回って来たはずなのに、夏希の水着姿は雑誌やテレビで一度も見たことがない。
「そう…6年前に負ったこの火傷を晒したくなかったから…水着も臍出しの衣装も全部断ってた」
夏希は自らの悲痛な事情を雪音にぶつけた。
「過去がバレたくないのは私も雪音も同じだったはずなのに…何でこんなに差があるの!!? 教えてよ!!!」
---隠していた過去。その透明性は今もそれぞれ眼帯、彼女の場合は衣服によって維持されている。
だが彼女の焼けただれたその傷は、雪音と同じ道を歩むには面積的にも、精神的にも大きすぎた。確かに自分たちは平等だったのに、どうしてこんなにも残酷な格差が生じたのか---その答えは、雪音には分からなかった。表現のしようがなかった。一体、誰ならこの疑問を解いてくれるのか…?
「分からないなら、消えろおおおおおっ!!!」
夏希は怒りに身を任せたように、右腕を大きく振った。ライターの小さな火種から、大きな炎の波が一気に押し寄せる。
「ぐっ…!!!」
炎は雪音の左肩に直撃した。今までより温度が明らかに上昇している。
(感情の昂りで威力が増しているのか…!?)
身の危険を察知した雪音は引き下がった。
その時。
ぴしゃっ、と水をはねかける音がした。
同時に、脚に冷気を感じる。
(…っ…水溜まり?)
雪音が視線を下に移すと、そこには自らの姿を映す水溜まりがあった。円状に直径1m程の規模で広がった巨大なものだ。地面のコンクリートが僅かに傾斜しているのか。
「さあ、これで終わりよ!!!」
更に数歩退いた雪音を、夏希は靴音を鳴らして追い掛けて来た。まだ水溜まりの手前だ。
(…頼む…上手く行ってくれ!!)
雪音は僅かにしゃがむと、眼帯に手を掛けた。禁断の《眼》を遮る、一枚の布切れに。
---その水色の《眼光》が、解き放たれた刹那。
「…っ!!!?」
夏希が踏み出す直前だった水溜まりが、一瞬にして凍結した。
そして夏希の履いていた茶色のブーツが薄氷を捉えた瞬間。
「きゃっ!!!?」
夏希は見事に足を滑らせると、身体ごとコンクリートに強く打ち付けた。衝撃で、右手に握っていた紫のライターが地面へと転がる。
(…来た!!!)
雪音は《片眼》を瞑ると、すかさず夏希の元へダッシュした。途中にあったライターを海へ蹴飛ばし、夏希の背中を腕で押さえ付ける。
雪音は夏希の頭上から彼女に声を掛けた。
「…これで君は武器を失った」
完璧な形勢逆転だった。夏希は俯せになって氷の地面と接触させられている。間接的だが、これで彼女の体力消費を期待した。
---だが、夏希はにやりと笑う。
「…私がライター、一つしか持ってないと思った?」
「なっ…!!?」
夏希がそう言った途端。
「!!!」
ボンッという音と同時に地面の氷が、一気に蒸気化した。視界を白い煙が覆ったのだ。
「熱っ…!!?」
雪音は反射的に夏希を押さえていた腕を放してしまった。だがそれが夏希に逆転の火種を生み出した。
この蒸気は、間違いなく《促熱眼》の影響だ。雪音の身体の下にあった薄氷の温度を氷点下から沸点へ、夏希が能力で瞬時に上昇させた---つまり、通常の水なら有り得ない《昇華》を無理矢理起こしたのだ。
「惜しかったね」
彼女は立ち上がると上着のポケットから新しい赤のライターを出した。夏希が寝そべっていた場所---つまり《促熱眼》の捕捉外にあったコンクリートの氷は、気化どころか融解もしていなかった。つまり夏希は、蒸気のダメージを殆ど受けていない。
夏希は左手で手前にたなびいた雪音の髪を乱暴に掴むと、手前へ引き寄せた。その目前には、赤いライターが握られた彼女の拳が。
(…っ…避けられない…!!!)
「私の視界から…消え失せろっ!!!」
***
---今、雪音が閉じている《凍結眼》を開けば、全てが完結する。
銅像のように彼女は停止し、二度とその命が蘇ることは無い。絶対に。命の不可逆性だ。
…ああ、そうだ。
黒乃が拐われた時、あのデパートの屋上で褐間を殺したのは、和樹ではなく雪音だ。
褐間は雪音に捕捉された瞬間、全ての機能を停止した。脳も、心臓も、彼の《隷属眼》も。
《凍結眼》を開けば夏希が死ぬ。開かなければ雪音が死ぬ。
(…無理だ…無理だよ…)
---でも雪音は開眼しなかった。
彼女は、映し鏡なんだ。同じ仕事を共にし、同じ過酷な過去を共にし、でも自分と鏡の中の自分は左右反転しているように《眼》の性質はまるっきり逆で。
彼女はもう一人の《自分》。
だから殺さない。
殺せない。
(…すまない…黒乃…)
雪音はもうすぐ死ぬ。身勝手な判断だと思ったら一思いに自分を恨め、MEIよ。心でそう呟く。
雪音は全ての視界を閉ざし、煉獄の業火を待った---
***
覚悟を決めた、その後。
「…」
来ない。攻撃が、いつまで経っても来ない。一般人でも通りかかったのか。
雪音は恐る恐る、左瞼だけを開いてみた。
「…できない」
そこには、ライターを構えたまま硬直したの夏希の姿が。周りに一般人の姿は無かった。
「え?」
「できないよ…私には」
夏希は右手に握っていたライターを落とした。かたっとコンクリートに打ち付けられると、ライターは雪音の黒いブーツの爪先に当たって止まった。
「!!!」
雪音はすぐさま、自分の髪を握っていた彼女の手を振りほどいた。驚くほどあっさり取れてしまった。
「…何で、殺さなかった」
雪音は一歩退くと、真っ先にその疑問をぶつけた。極めて真剣な顔つきで。
「…だって私は、雪音とは違うから」
「…え?」
あまりの偶然に、雪音は言葉が出なかった。
夏希は、考えてることが真逆だった。互いに相手は鏡映しの自分だって、それを真っ向から批評家みたく否定して見せた。
「《眼》の特性は反対だし、容姿だって違うし、言語は相互理解出来ないし、何より違うのは---存在価値だよね?」
「---違う!!」
雪音は最後の言葉に反論した。
彼女は、根本的に間違えている。そう思った。
「違わないよ、資金援助を強要するし、自分だって殺人の《眼》を持ってるのに雪音を罵る時だけは口が達者で…自分の無価値さや他人との差と紛らわせる悪魔だよ、私は」
「…それは僕も同じだ」
「どこが同じなの? 雪音のどこが《無価値》なの?」
「全部」
雪音は言い切った。夏希もこれには言葉を詰まらせる。
「僕は被っているんだ…客観的に自己を視られた時に異質で、中二病じみてて、でも他よりずっとキラキラと輝いているマントを…でもその内側、主観的に見た本当の《水樹雪音》は空虚だ」
「…私はマントさえ持ってない…これじゃ」
「でも空虚じゃない」
雪音のその言葉に、夏希ははっとした。
「比較しちゃダメなんだ。夏希は僕よりもずっと強い心、才能がある…あるのに、自ら黒いマントを被ってその輝きを隠匿している…今、僕の目の前にいる《橙本夏希》は、暗くて何も見えない」
「…何故、そこまでして私の価値に拘るの?」
「---一番近くで、君を見てきたから」
「…!!!」
雪音は、夏希の肩を両手で押さえた。
自分が虐められてた時、夏希には友達が沢山いたかもしろないけど、雪音にとっての友達は夏希だけだった。雪音を守る存在で、一種の救済で、唯一無二の親友。
「だからこそ、理解る。今の夏希は本当の《橙本夏希》じゃない…実際は、聖火みたいに輝き煌めく本心が在る」
雪音は、絶え間なく言葉を投げ掛ける。
「…夏希はアイドルが嫌なのか?」
「そんなことない。間違いなく、自分の意志でやってる」
「なら」
「…うん」
夏希は強く頷いた。
顔付きが変わっていた---いや、元の顔に戻っただけだ。
3年前の放課後、二人の関係は大きく歪んでしまった。夏希だけでなく、自分も。
自分も変わり果てた夏希を避けてしまったが為に、その亀裂は余計に開いた。
その傷を、二人で埋めただけだ。何の変哲もないことだけど、とても苦労した。
「…ごめん」
「何が?」
「ホント、醜いよね…友達が売れてるからって資金援助強要して」
「…僕にだって罪がある。どこかでこの関係を履修しなければって思ってた…でも、時間が掛かってしまった」
「雪音…」
夏希はそう言うと、雪音の前に右手を差し出した。
「…これは」
「…本当のスターの座は、雪音のものだよ…。また、友達になれる?」
夏希は頬を赤らめる。この3年間では絶対見られなかった、笑顔だった。
「…勿論さ」
考えるまでも無かった。やっとこの猜疑心から決別できたんだ。
互いの過去を打ち明けて、拳を交えて、本心を吐露して---鉛の足枷が外された気分だった。
雪音がそう思って、夏希の手を握ろうとした時だった。
「…!! …危ないっ!!!」
夏希が雪音に飛び掛かろうとしたが、もう遅かった。
知らずの内だった。何故、気付かなかったのか。
---雪音の右脇腹に、一本のナイフが貫通した。
「---え?」
いつ刺されたのか。雪音には一切の状況が把握できなかった。《鮮血》がポタポタと垂れる。
「…ぁ…」
激痛で意識が朦朧とする中、雪音は正面の夏希を見た。その顔からは微笑みは抹消されていた。読み取れるのは、悲哀と、焦燥と、畏怖。
そして、震えた口から吐き出された男の名に、雪音は戦慄した。
「全く残念だ---橙本夏希」
「…茶岳…漆」
手を握る直前で約束を絶ったその男は、悲しい顔で雪音の腹を貫いていた。




