#36「It'll never come true」
「《凍結眼》って…一体何なんですか?」
船の外から船内に戻った私は、紺堂リーダーに尋ねた。
「私も詳細は分からない。何せ普段、彼女はあの能力を滅多に使わないし…私が見たのも1回きりだ」
「それって…雪音がMEIに入ってすぐの頃ですか」
「ああ」
紺堂リーダーは小さく頷く。
「《凍結眼》は彼女の視界に捉われている万物を一瞬にして凍結させる---正確には、彼女が見ている全ての水分子の熱運動を急激に低下させているようだけど」
「水分子の…熱運動?」
急に化学的な言葉が乱入して、私は戸惑う。
「黒乃くん、《気温が下がる》という現象を正確に説明できる?」
「え…正確も何も、そのままなんじゃ…」
「そもそも《気温》というのは熱運動をどれだけしているのかと言う指標だ。気温が高ければ高いほど分子同士の衝突は激しいし、気温が低いほど分子の運動は弱い。因みに絶対零度---つまり、-273℃というのは熱運動が完全に停止した状態だ」
「へ…へぇ…」
知らなかった。詳細は理解できなかったが、とりあえず《凍結眼》は物質の気温を下げる、という理解で良さそうだ。
「だが《凍結眼》の特殊な部分はここからだ」
「え?」
「今、目の前に大きな箱があるとしよう。黒乃くんの《終末眼》は、その箱の中にある何かしらの物体の未来を予測することはできるかい?」
「そ…そんなの無理ですよ…。白神先輩じゃあるまいし」
そうだ。《異能力眼》は通常、視界内にその物体を捉えている場合にのみ作用する。視界外に居る人は勿論、視界内に存在する物体でも壁や箱に遮られていれば《眼》はその存在を捉えていないのだから、能力の効果は及ばない。例えば私の《終末眼》の場合、目の前の紺堂リーダーの胃腸をみてどんな病気になるだとかは、課長の腹筋、それ以前に課長の衣服が、相手の胃と私の虹彩を結ぶ直線間に存在するのだから予測不可能だ。白神先輩の《透視眼》だったら人の身体の内部も観察出来るのかも知れないが、あれはそもそも《透視》が能力なのだから、別に何も不思議ではない。
「そうだな、私も若い頃も視界内に捉えた人間の記憶しか弄れなかった」
「…結局、何が言いたいんですか?」
「水樹くんの《眼》は、その常識を破る」
「え!?」
想像が出来なかった。物体の先にある物体を凍らせる、と言うことなのか。
「さっき《凍結眼》は水分子の熱運動を急激に低下させると言ったが、そもそも空気中に存在する水分子を肉眼で見ることができないのに何故凍結させることが出来るのか、分かるかい?」
「…肉眼で見えていようがいなかろうが、視界内にあれば関係無し…?」
「そうだ。彼女がそこに水分子が存在していると認識していれば《眼》は作用する。つまりは、人間の内部にある水分子も見えていようがいなかろうが凍結させてしまう」
「そ…そんな事が可能なんですか!?」
「私は、彼女が《眼》で人を凍死させた所を見たわけじゃないから分からないけど、本人はそう言っているね」
「…!!」
人間の内部構造に含まれている水分量は約65%。もしその水分子全てが一瞬にして熱運動を停止したら、その人間がどうなってしまうかは容易に想像がついた。つまり、雪音の《凍結眼》が力を及ぼす範囲は「《眼》で捉えた物体」と「存在認識の完了した物体」。私たち一般の《異能力者》は前者にしか能力の効果を見出すことができない。雪音は対して、そこに水分子があれば《眼》でその水分子を視たと認識されてしまう---即ち、《眼》での認識と脳内での認知が同義なのだ。空気中や人間の身体内に水が存在するのは誰もが知っている事なので《凍結眼》にスキャンされてしまうのだろう。
「そんな人殺しの《眼》を持ってると世間に露見したら、彼女は間違いなく消される。芸能界からは勿論、人間的にもね」
「…で、でも、雪音はさっき大衆の前で《眼》を使った」
「本当にあの子は馬鹿か…いくら緊急事態とは言え」
「馬鹿で悪かったな」
突然、澄んだ声が後ろから響いた。
「…ゆ…雪音!?」
振り向くとそこには、息切れした雪音が壁に寄り掛かっていた。
「ど…どうやって戻ってきたの!?」
「…海を渡った」
雪音はさらっと言いのけた。海を渡った、と言うのは比喩表現では無く、恐らくそのままの意味---凍った海を徒歩で渡ったのだ。証拠に、霜が靴に付着している。
彼女は、今はもういつもの眼帯をしていた。あの下に《凍結眼》が…。
「蔑む?」
「え?」
「僕の《本当の姿》を認知して、君は僕を蔑む?」
「…そんなことないよ。どんな雪音であっても、私は雪音の友達でいるから」
「…ありがとう。プロデューサーにも同じことを言われたよ」
雪音は壁から背中を離した。嬉しそうだった。
続けて、リーダーが尋ねる。
「…どうして《眼》を使ったんだ」
「明白だろう、船の沈没を遅らせる為だよ。あと、君たちに救済の手を差し伸べに来た」
「違う…あんな大勢の前で使ってよかったのか」
「知らないさ」
雪音はそっぽを向いた。本当に、度胸のある少女だ。
「それより今は2人の救助だ。全く何処を彷徨っているんだか…」
その時。
「聡!!」
(!!)
女性の叫び声が遠くから響いた。間違い無く瑠璃波先輩の声だ。
「あっち!!」
私と雪音、紺堂リーダーは声の鳴る方向へと駆け出して行った。
床が傾いている。右に約10度、進行方向に約15度。前向きに下り坂になっているということは、今私たちは船の沈む方向へと自ら向かっていることになる。本来なら阿呆のする行為だ。
廊下の所々には色々な物が散乱していた。財布や招待状の半券、服のボタンなど---来客の落し物だろうか。更に、廊下に飾られていた豪華絢爛な花瓶が割れて、白い絨毯のカーペットに大きなシミを作っていた。
すると、突然船内が暗くなった。
「…停電?」
廊下中の電灯が消えた。一部まだ点いていたり、点滅を繰り返す物もあったが、電気室がやられたのは間違い無かった。
そして、走った先に彼女は居た。
「…瑠璃波先輩!!」
丁度廊下を曲がった所に、一つだけ明るく灯された電球。その下のドアの前に、彼女はへたれ込んでいた。
だが、そこに最悪の事態が重なる。
「…波が…!!先輩逃げて!!」
私たちが視たその先には、廊下奥から押し寄せる波が。白い飛沫を上げて迫る。猛スピードで。
「…」
瑠璃波先輩に逃げる様子は無い。人形のように固まったままだ。
「くそっ…!!」
一足先に行動を取ったのは、雪音だった。
「ちょ…危ない!!」
雪音は瑠璃波先輩の元へ走る。津波はすぐそこだ。
「僕の視界から外れて!!」
雪音は先輩のドレスを摘まむと、後ろへ引っ張った。即座に、眼帯の紐へ手を掛ける。
「…《凍結眼》!」
呪いの《眼》が解き放たれた。私や課長にはその顔は見えない。《眼》の、きっと美しいのであろう水色の輝きも見ることは叶わない。
---だが、確かに目の前の白波は、一瞬にして凍った。
(…っ!これが…雪音の《眼》…)
白波は、彫刻の如く固まっていた。透明感のある薄氷で覆われており、中の水色が透けて輝いていた。一番先端部分は、雪音の僅か10cm手前で止まっていた。
「くっ…」
すると突然、雪音がその場に倒れてしまった。
「雪音!」
私は雪音に駆け寄った。側にしゃがみ込んで、雪音がいきなり《眼》を開いても大丈夫なよう、すぐに眼帯を被せる。
私は彼女の身体を揺さぶるが、反応は無かった。
「…無理しすぎだよ…」
過度に能力を使ったのだろう。《眼》はあまり使用し過ぎると体力が持たなくなってしまう。ゲームで言えばMPに近い。
何せ先刻、海一つ凍らせて来たのだ。気絶しても無理はない。
私は雪音を抱えると、瑠璃波先輩の元へ駆け寄った。
「先輩、どうしたんですか」
「…聡が中に居る」
瑠璃波先輩は低い声で返答した。
「中って…この部屋の?」
私が尋ねると、先輩は小さく頷く。
「じゃ…じゃあ急いで開けなきゃじゃないですか」
私はドアノブに手を掛けると、思いっきり押した。だが開かない。
「鍵が…白神先輩は中に居るんですよね?どうしてあの人、開けないの…」
今度はドアを叩いた。返事は無い。
「開くわけないじゃん…」
「え?」
「足元見て」
「足元?…っ!!」
私は今更のように下を見て、戦慄した。
血溜まりがあった。白い絨毯を真っ赤に染めている。
その先は、扉の中に続いているようだ。
「…白神先輩っ!!」
私はしきりに扉を叩いた。だが、無駄に時間だけが過ぎて行く。
ふと、左の氷の波を見た。《凍結眼》の効果が薄れて、少しずつ滴が垂れ始めている。
「お願いだから…返事をして…先輩」
私は扉に縋って、床にへたれ込んだ。焦りと懇願の思いが混濁として、私の心の中を渦巻いて行く。
涙が、静かに滴る。
その時。
「…何だい」
「…!!」
扉の中から微かに声がして、私と瑠璃波先輩は同時に扉の方を向いた。
「…先輩!!」
「…先に行け」
「え?」
「…君たちだけで逃げるんだ…僕はもう、助からない」
「何言ってるの聡!あなたも逃げるの!!」
隣で瑠璃波先輩が叫ぶ。
「…無理だ」
「何で!?まだ間に合う!!早くカードキー差し込んで…」
「カードを…奪われた」
「え…」
白神先輩の発言に、私たちは言葉を失った。
「ま…マスターキーは!!」
「…管理室は…この部屋を出て…右だ…でも、もうその先は…通れないだろ…?」
「えっ…」
私達の左には氷の波があった。氷が融けたとしてもこの先は進めない。白神先輩は《透視眼》でその事を知っているのだろう。
「…だから…さっさと…逃げて…」
「待って!!この血は何!?」
瑠璃波先輩は怒り気味に扉の先の白神先輩に問い掛ける。
「僕の…血だ…」
「何で聡の血がここに…」
「…インビジブルのボスが…僕に復讐したんだ…」
「なっ…ボスが来てたの…!?」
私は恐ろしくなった。思った以上に、事態は深刻だったのだ。
「…私のせいだ」
彼らの標的は私だ。だが先輩を巻き込んでしまったがために、その矛先は先輩に向けられた。予測できた事態であったはずなのに。
「ツンデレちゃん…それは、違う」
扉の奥から声が聞こえる。その声も、段々と掠れて来たが。
「…《血》は、守り切ったかい?」
「…はい」
「なら、それでいい…君はこれ以上、無理をするな」
「でも…でも!!」
私は目頭が熱くなるのを感じた。先輩と別れるなんで…しかもこんな別れ方…絶対に嫌だ!!
「ボスが赴いた時点で…もう彼らの戦力も…かなり削がれているはずだ…。事が済むまで…あと《2色》…絶対に守り切れ」
「…はい…絶対…約束します」
「ははっ…約束ね…こっちは約束守れなくてごめんね…。…君の《眼》を無くすって」
「…っ!!」
その言葉を聞いた途端、涙が溢れた。
「…ホントですよ…っ…最初…言ってくれたのに」
私は今更のように思い出した。組織の一員になる条件。
私はそれ以上、言葉を続けられなかった。泣くのに必死で、発せられるのは咽び声だけだった。
白神先輩は相手を変えた。
「…リーダー」
「何だ」
雪音を抱きかかえたリーダーは、私の背後に立つ。
「36年前のアレは…全部…解決した後に…話してやって下さい」
「…そうだな…分かってる」
私と瑠璃波先輩には、その会話の意味は分からなかった。どういう意味か訊こうとしたが、その前に白神先輩は話し始めてしまった。
「…優那」
「…」
「…ごめん」
「…許さない」
「そいつは…参ったな」
瑠璃波先輩は扉に近付いた。
「私は…聡に救われた…。あなたが私を見つけてくれなかったら、私、あのまま…壊れていた」
「…そうか」
「立場が逆転して…校内|順《カー位最下位になった時…。傷だらけになった私を拾ってくれて」
「…懐かしいね」
「聡がどういう風に思っていたかは知らないけど…私は、嬉しかったよ…?」
瑠璃波先輩は《眼》に涙を浮かべる。透き通った瑠璃色の虹彩が美しく輝いていた。隣から見ていて、二人の扉を隔てた会話は微笑ましく、悲しいものだった。
「…《眼》が、海みたいに青くて…一目で《異能力者》だって…分かった」
「それでMEIに誘ったの?」
「…それもあるけど、泣いている君を…どうにか笑顔にできないかって…思いついたのが…それだった」
白神先輩の声が、僅かに震える。この人の泣き顔も見てみたかったなと、私は内心静かに思った。
「…雪音は…話せそうにないね…。…さあ、行くんだ」
「…うん」
瑠璃波先輩は、立ち上がった。
私の手を取り、課長と顔を合わせると、最後に扉の方へ向き合って呟いた。
「-----」
あまりに突然で、私と課長は拍子抜けした。
扉の奥の白神先輩も暫く言葉に詰まったようだった。が、しっかりと返事は返って来た。
「…ありがとう。僕もだよ」
---それが私たちの聞いた、白神先輩の最期の言葉だった。
瑠璃波先輩は出口の方へ一歩走りだすと、後は後ろを一切振り返らず、懸命に走った。私とリーダーはその後に付いた。
雪音の凍結させた波が融け始めていたのもあったけど、私には瑠璃波先輩の遁走する理由が透けて見えていた。
紛らわそうとしている。自分の、自分のパートナーを見捨てるという行為への後悔、自責、絶望---その他諸々の残酷な思いを、必死に自身から振りほどこうとしている。
「…ダサいなぁ…っ…相手が死ぬ間際になって…やっと告白なんて…」
瑠璃波先輩は笑いを含めて言った。彼女の冷たい涙が、空を伝って私の額にぶつかる。
「…大丈夫…気持ちは伝わりましたから」
私は、こういう時の言葉の掛け方を知らなかった。無責任に「大丈夫」なんて言ったが、本当に大丈夫なのかは私も、きっと瑠璃波先輩も分かっていなかった。
私たち4人はその後、船から脱出した。
客船の出口には一台だけ、オレンジ色の緊急脱出ボートが残っていた。私たちは雪音を抱えて脱出した。「4人乗り」と記されたそのボートは、まるで白神先輩が戻れないことを予言しているようだった。海の氷は既に融けていた。
ボートが出て2分後、船は海面から完全に姿を消した。私たちの乗るボートは、沈没の反動で発生した渦潮には巻き込まれずに済んだ。
船内に残ったのは、乙葉と、白神先輩。
白神先輩が言っていたインビジブルボスは、恐らく脱出した。カードを持ち去って施錠し、乙葉を見捨てて自分だけ逃げ出した。もしかしたら、他の緊急脱出ボートに搭乗しているかも知れないが、探そうとは思わなかった。
私は渦巻きが完全に消滅するまで、その大海原を眺めていた。
---白神聡。A班リーダー。《透視眼》の使い手。
奇妙な先輩だった。
出会って早々私をツンデレ呼ばわりし、身長が低いと謗り、でも本当は優しくて。
昨日のエレベーター内では私にだけ、少し弱い面を見せてくれて、勢いで私は抱きついてしまって。
君の約束を守れなくてごめんなんて、最後はちょっとカッコつけたこと言って死んで。
きっとあの先輩なら、今頃瑠璃波先輩の最後の言葉を反芻して、笑っているんだろう。
---「出逢った時から、好きでした」って。




