#34「Thanks for Xing me」
気付いたら、葬られる寸前だった。
その蓋を開いた時、目と《眼》に眩い光が入るのを感じた。
周りの大人たちは倒れ。
私と似た顔付きの大人も倒れ。
私はただ1人、生き残っていた。
---ワタシハ、ダレ…?
最初に発した言葉は、多分そんな感じだった。
私の名は、榛葉紫乙葉。
黒と白の幕に包まれた周囲の理不尽な訴えが、そんな名前を呼んだ気がした。
その煙たい会場を後にして、私は近くの河川敷を彷徨すること。
そこの緑は、まるで生きている心地がしていないように、私の《眼》には。
やがて橋の下に踞った。
私は、生きる理由がない。
私は、行き着く果てがない。
私は、帰る場所がない。
奇妙な世界だ。
悲しいとは思わなかった。
アスファルトの冷たい地面に横たわる。
ひんやりとした無機質の感触は、私にはとても愛おしく感じられた。
このまま、一生を終えてもいいとさえ思った。
ふと、足音が近付いた。
コンマ1秒の乱れもない、真っ直ぐな歩行。
足音は段々に拡大していくと、32歩目でそのリズムを止めた。
俯せに寝ていた私は、顔を少しだけ見せてみた。
「こんにちは」
初老の男性。
「…何ですか」
私は茶髪の男に、不機嫌な顔を見せる。
だが、彼の次の発言に、魅せられた気がする。
「---この世界、壊したいとは思わないか?」
***
「絶対に---殺す」
乙葉がそう言った瞬間、彼女はこちらに向かって来た。正面からの攻撃を、私は自分の刀で受け止める。
「…っ!!!」
初めて貰った真剣をまともに扱った。竹刀とは格段の緊張感が伴って、柄を握る両手が汗ばんでいた。
これはゲームじゃない。斬られたら、死ぬんだ。
(やっぱり《終末眼》で先読みして…)
安全策を取ろうと思って、私が《眼》を発動しようとした時だった。
「---させない」
「…!!」
間近で、乙葉が小さく呟く。
刹那、彼女の《着色眼》が一瞬《紫》に光ると、その後《銀色》に色付いた。
そして。
「あ…あれ…?」
おかしい。何かがおかしい。
---《終末眼》が発動しない。
「な…何で!!?」
一気に焦りが生じる。私は訳が分からず、咄嗟に刀を振り上げた。
乙葉からの、面狙いの攻撃は偶然にも退かれた。だが、
(…っ!! 速っ…!!!?)
すかさず乙葉は剣を握り直し、私の左腰を大きく斬りつける。後ろにかわそうとしたが、間に合わずだった。
「ぐっ…」
腹に10cm程の切り傷が生まれて、床の白絨毯に血がポタポタと垂れる。
(ドレスが…)
私が密室でドレスを着たままでいたのは、翠先輩にこれを返したかったからだ。だから瑠璃波先輩と居た時の、魚偏の漢字が書かれた浴衣は着て来なかったのだが、これはこれで失敗したかも。
だが、それより。
「何で…《眼》が使えないのか?」
「え?」
久し振りの起動で調子が出ていないのかと思っていたが、やはり向こうが仕組んでいたのか。私が何度《眼》に意識を向けても、反応は示されなかった。
「…着色したのは…《相殺眼》…相手の能力を無効化する…《眼》」
「…っ」
また厄介な《眼》が登場したものだ。
確かにさっきの接近戦の時、乙葉の《眼》が銀色に変わった。《紫》に一瞬光ったのは、恐らく《着色眼》使用の合図なのだろう。着色した、と言うのは、その《相殺眼》とやらの持ち主がインビジブル内に存在する、という事だろうか。
とにかく《終末眼》は使えない。だが能力は相殺されているのだから、実際これはズルなしの平等な殺し合いだ。
「あなたは---私に敗ける」
乙葉は静かにそう言うと、再び刀を振りかざしてこちらに向かって来た。
「っ…」
私は自分の刀でガードした。だが、続けて連続攻撃で乙葉の剣が振られる。腕、脚、頬---じわじわと、切り傷を加えられていく。《眼》を使わない剣道術もしっかり会得すべきだったと、私は今更のように悔いた。
(記憶は失っても…2年前の剣道の腕前は残ってる…!!?)
そんなの、狡い。向こうは渋谷区内大会優勝者だ。幾らか力は落ちているようにも感じるが、それでもそんなのに私が勝てる訳が無い。ましてや、実力皆無、異能力でのし上がって来た卑怯な私が---。
(---いや)
ここで言い切ったら、それこそ完璧な敗北だ。
この2年間、私は私なりに戦い方を学んだ。剣道の本質には嘗めてかかっていたかもしれないが、相手に勝つことには徹底的に拘った。負ける可能性は大いにあるが、絶対に負けるとは言い切れない。数パーセントの確率で勝つことだって有り得る。都内、関東大会でも、そんな場面を幾度と無く見てきた筈だ。
逆転の策は、ある。
「はあああっ!!!!」
私は顔の横で刀を構えると、乙葉に向かって一直線に走り出した。乙葉は一切表情を変えない。
乙葉の得意技は連続技だ。面、籠手、胴、それらの技を組み合わせて相手を徹底的に追い詰める。
(…先制されたらこっちが持たない…なら)
こっちから仕掛けろ。
相手が区内大会優勝者であろうが、怯むな。
(乙葉が…思い付かない事と言えば…!!!)
「!!!」
それは日本剣道連盟で、高校生の使用は公式に認められていない技---即ち《突き》だった。
「…!!!」
私は、乙葉の喉を目掛けて刀を突き刺した。
あまりに予想外の技に、流石の乙葉も反応が遅れた。首は傾けられたが、右肩の鎖骨を抉る感覚が、刀を握る手に伝わった。
私はそのまま乙葉の横に抜けて、すぐ振り返る。
「…っ…!!」
私は中段の構えで乙葉の様子を見守った。右手で首筋の辺りを押さえる。手を離すと、その掌は鮮血に染まっていた。
《突き》---正確には《突き》という有効技の存在を教えられたのは、私が剣道部に入ってすぐの事だ。
嘗ての顧問---《隷属眼》の褐間陸道は言った。
《突き》は危険な技だから、お前らには教えない、と。
別に褐間が当時、私たち剣道部員の安全を確保したかったからではない。公式試合での使用が禁止されているのだ。私は勿論、乙葉も存在は知っていても練習したことはない技だ。
だから、その可能性に懸けた。
私は《突き》をやったのはこれが初めてだ。ましてや初経験が真剣だなんて思いも拠らなかった。かわされたとは言え、成功したのは、本当にまぐれだ。
(これなら…行ける…!!)
私は再び構え直すと、走り出した。
今度こそ一撃で決める。決めて見せる。
だが。
「そっか…」
乙葉は小さく呟いた。
「…嘗ての親友の喉を貫くんだ…?」
「…っ!!?」
その言葉に、私は揺らいだ。
私は剣先が乙葉の喉に当たる直前、手を大きく震わせてしまった。攻撃が、空を切る。
この一瞬で、様々な映像がフラッシュバックした。初めての会話。剣道着の乙葉。入部の件で怒りを爆発させた彼女の顔。
乙葉には、その記憶は無い。私だけが持つ私情を、利用された。
(…やめて…やめて!!!)
これは、またしても罰なのだろうか。それとも俗に言う走馬灯とはこれなのか。怖くなって、目を瞑ってしまう。
だが、それこそが決定的なミスだった。
「…腰、空いてる」
ざしゅっ。
彼女の右横を通り過ぎる私に、乙葉は刀を容赦無く突き刺した。右腹部に。
「…っ…!!!!」
私は足が止まった。
動けない。意識が朦朧として、相手の顔さえ認識できない。
私は刺すのを躊躇ったのに、乙葉はそれを何とも思わないのか…?
やっぱり、私を忘れてしまったから…?
「…おしまい」
乙葉は冷酷に告げた。またしても、消え入りそうな声で。
でも、私は笑った。
「おしまいなのは…どっちかな?」
その瞬間。
「…っ!!?」
乙葉が突然、吐血した。
乙葉には背中から、私の刀が貫通していた。
「…」
乙葉は、自分の刀を私の腹から手前に抜く。
いや、抜いたという表現は間違っている。
元々、刺さっていないのだから。
乙葉の刀は---途中で折れていた。
「な…!!?」
「刺さる直前、右腕と脇下の間に偶然入ったから、てこで折った」
乙葉の刀は、真ん中で途切れていた。確かに私の右腹には当たったが、僅かに逸れて、右脇腹を貫く事は無かった。私が乙葉の首を斬れなかったように、不思議と剣が逃げたのだ。
私は少しだけ息を吸うと、静かに告げた。
「---ごめんね」
私はただ一言添えると、勢いよく自分の刀を手前に抜いた。
乙葉の背中から、血飛沫が舞い上がる。
「---!!!」
殺った。私は、殺りきったのだ。
乙葉は成す術無く、その場に仰向けに倒れた。
心底、気分が悪い。
瑠璃波先輩は私が元同級生と戦う事を恐れた。
だが、私は心の中で反駁して彼女との決闘を進んでやった。
その結果が、これだ。
確かに倒した。だけど、何も得る物が無かった。
私は乙葉に近寄る。
「乙葉は言ってた---面は中線に沿って打つって。竹刀を振った後は茶巾絞りで刀を止めるって。打った後は残滓をとらないと有効にならないって。でも今のあなたは、何一つできてなかった」
目の前の乙葉は、細い息をするだけだった。ただ、絶望的な顔はしていた。
私は続ける。
「2年前の乙葉は凄くて、凛としていて、試合にはもっと真摯に臨んでた…。…なのに。…なのに!!! 容姿も声も剣道の腕前も同じ貴方は、一体誰なの!!!?」
その問いの答えは明瞭だ。誰でもない。
彼女は一度死んだ。
なのに、生きている。
なのに、記憶が無い。
なのに、剣術の腕前は残っている。
この過去と今の双属性を孕む《彼女》を、私は何と呼べばいいのだ?
「ねえ…教えて!! 教えてよ!!!」
私は膝から崩れ落ちる。漆黒のドレスが乙葉の出血に染まろうとも最早気付かなかった。
私は静かに涙を落とした。
こんな矛盾した世界、私は---
「…黒乃」
「!!!」
微かに響いた3文字。
声色、声の高さ、語尾---全てに於いて2年前と完全一致した私の名が、時を越えて呼ばれた瞬間だった。
「…乙葉!!! 乙葉なの!!!?」
私は乙葉の手を握り上げた。冷たい《血》が垂直方向に垂れるいく。
もう、私は何か予感をしていたのだろう。私の《眼》から零れる透き通った涙が、それを証明している。
乙葉は、最後の力を振り絞って、こう唇を動かした。
「---殺してくれて、ありがと」
「…っ!!!」
それが、彼女の最期のメッセージだった。
乙葉の腕が、垂直状態から血溜まりに堕ちると、彼女はそれ以上何も話さなかった。
「乙…葉…。ねえ…乙葉!!!!」
涙が、滝のように溢れた。
《相殺眼》の銀色が褪せ、一瞬《着色眼》の紫が現れたが、その色も一瞬にして抜け落ちていく。元の黒いつぶらな瞳には瞼がゆっくりと被さって、その薄くて厚いカバーは二度と開かなかった。
「…やだよ…嘘だよね…ねえ!!!」
私は《終末眼》を起動した。さっきまで使えなかったはずなのに、使えてしまう。
私は涙を拭って、乙葉の安らいだ顔を見詰める。
その未来は---途切れていた。
2年前、病院で隣のベッドに眠っていた彼女を見ていた時と同じだ。真っ黒な映像。
---そして、それは同時に彼女の死を表す。
「…何で」
理不尽を嘆いた。あまりに不運だ。
死んだはずの彼女が生き返ったり、その彼女が《異能力眼》を持っていたり、彼女と敵対したり---悲劇的な出来事が絡み合い過ぎた。
---どうして、私が一番の親友を2度も殺さなくてはならなかったのか。
「…ごめんね…って…言えなかった…っ!!」
私は声を上げて独り言を呟く。
それが、私の一番の後悔だった。
私は2年前の事は忘れた。私がこの碧い《眼》を手に入れた理由、私が剣道部に入った理由---全て忘れた。
忘れたつもりだったけど、結局は覚えている。覚えているから和樹たちに事故の話ができたんだ。
いっそ脳内から《彼女》という存在自体を消し去ろうとしたのに---やっぱりそれは、脳の片隅に、烙印の如く刻まれている。
でも、それは逃げだった。
私は何度も逃げた。剣道からも、不正をしない試合からも、そして《榛葉紫乙葉》という少女自体からも。
逃げる事は罪ではないと言う者もいるが、私の逃げは私以外の誰にも利益をもたらさなかった。
いや、私には利益どころか、残酷な運命しか舞い降りて来なかった。
「---でも、今回は逃げなかったよね…?」
私は、答えの無い質問をする。目の前の《解答者》は、還らぬ人となったばかり。
「…いつか『私に勝てる』って…言ってくれたよね…っ?」
2年前、彼女の剣道試合を見た時、初めて竹刀を借りて。
「…私、あの時から今まで…っ…ずっと練習して来た。ズルは…したけど、強くなった…」
この2年間、充実はしていなくとも、無駄では無かった。
「それで今、私は乙葉に勝ったよ…勝ったけど…!!」
私は、これ以上逃げてはいけない。
「---こんな形では…勝ちたくなかったよ…」
***
---やられた。
プロデューサーを交渉材料にされるのは想定外だった。
雪音は自分の身は自分で守るつもりだったが、思わぬ所に飛び火が行った。
雪音は今、プロデューサーと共に緊急脱出ボートに搭乗した所だった。4人乗りで、 空気で膨らませる形の小型ゴムボートだ。狭い空間に2人と2人が互いを面して座っている。 プロデューサー以外の2人は皆知らない顔だった。白髪の老紳士と化粧の濃いドレス姿の女性だ。こんな盛大なパーティに呼ばれているのだからきっと偉い人なんだろうが、雪音は本当にどちらの顔も知らなかった。対して向こうは雪音の様子を興味深そうに見ていた。有名人は、時に面倒臭い。
(…プロデューサーを安全な所まで送ったら、忘れ物を取りに行こう)
静かに、心の中で呟く。
雪音の忘れ物は、とても大事なものだった。雪音の数少ない理解者たち。
さっき瑠璃波にスマートフォンでメッセージを送った所、白神、リーダー、黒乃の全員が別行動を取っているようだ。瑠璃波からは「3人を探したら脱出する」といった旨の返信が来た。リーダーは泥酔して部屋で寝ているから場所の特定は容易だろうが、黒乃はどうやら《着色眼》使いと交戦中らしい。さっき、雪音の《血》を採った紫髪の寡黙少女だ。
雪音とプロデューサーの後ろには、誰も並んでいなかった。思ったより客船が沈むのに時間が掛かっているようで、乗客は余裕を持ってボートに乗れたようだ。周りには、既に避難した客が乗った同じ種類のゴムボートが他にも点在していた。
そして、まぐれだろうが、まだ空気の入っていないが僅か1台だけ船内に残っていた。残った4人が逃げる為の。
「じゃあ行きますよ」
最後に、プロデューサーが客船の白い柵を蹴ってボートに乗ると、雪音たちは大海原へと解き放たれた。
(…)
私は、水面下に消えつつある大きな船体を見詰めていた。中に残っているのは、黒乃、白神、瑠璃波、紺堂リーダー。もしかしたら雪音の《血》を採った少女もまだ取り残されているかも知れない。
(…私だけ先に行って、よかったのだろうか…)
できるなら今すぐ戻りたい。でも、自分のプロデューサーを捨て置くことも出来ない。中学生の頃から自分を大切に見守ってくれた存在は、大切にしたい。
雪音は、ボートの出口から黒い海を見詰めていた。船の周りに渦が発生し始めてきた。今戻ったら、あの渦潮に巻き込まれてこのボートも転覆して沈むだろう。
「雪音」
突然呼ばれて、振り返る。
「…怖くないのか」
「そりゃ怖いさ」
プロデューサーの質問に、私は端的に答える。まだ夕日頃だが、ボートの屋根が彼の顔を照らすのを遮る。
「雪音…訊いちゃ駄目なのかも知れないけど」
「何だい」
「---さっきの女の子は、誰なんだ?」
「…。…やっぱり…気になるよね」
余りにストレートな質問に、雪音はやや怯んだ。
アイドルとプロデューサーの関係は、ある程度の距離感が保たれているべきだ。あくまで社会的な関係であって、恋人同士にでもなったらそれこそ大問題だ。
でも今、彼は雪音の入ってはいけない領域に踏み込んだ。
(…そろそろか)
雪音は再び海の方へと視線を向けた。客船からは十分な距離を離れた。だが、これ以上下がれば自分の視界に他の客が入ってしまう。それでは、自分があの船を最後に脱出した意味が無い。
「プロデューサー」
「何だ」
「…君は、いつ、どんな時でも僕を信じてくれるかい?」
「勿論だ」
---即答か。頼もしいプロデューサーに会ったものだ。
「隠していたことがあるんだ…きっと軽蔑すると思う」
「…大丈夫だ。俺はお前がどんなお前であっても受け入れる」
「…ありがとう」
この人は、自分を最高の舞台に立たせてくれた恩人だ。アイドル歌手という肩書きが無ければ、雪音はただの空っぽな、でも人殺しだけは一人前の少女に成り果てていただろう。
「…戻りたいのか」
「よく理解ったね…ちょっと船の方を眺めていただけなのに」
「俺はお前のプロデューサーだからな」
「本当に良い人に恵まれたよ、僕は」
雪音は頬を緩ませた。
「俺は大丈夫だ。お前がここまで送ってくれたから」
「…全く以て、その通りだよ」
「でも、これが最後の会話になったら、俺は怒るぞ」
「…ははっ、君は心配性だな」
この人は、どこまでお見通しなんだか。
「---大丈夫さ。必ず戻る」
雪音はそう言うと、船の外へと身を乗り出した。
プロデューサー以外の客2人は怪訝な目で見てくる。
これは、一種の決別だ。
僕はこの9ヶ月、黒乃に自分の《眼》の話をして来なかった。
僕の過去は、皆とは違うんだ。別次元に在るんだ。
それを誇張したくて、僕は堅く口を閉じてきた。
だが、そんなのは逃げるのと同じだ。
黒乃は偽善の勝利で着飾った嘗ての自分を殺した。
逃げる生き方を卑怯だと思って、過去を消し去った。
僕も、そろそろ打たなくてはならない。
---過去の思い出から逃げる人生に、終止符を。
(あと、もう少しだけ、踏み止まって…)
僕は小さく白い息を吐いた。
改めて、視界内に誰も居ない事を確認すると、僕は長年取られなかった眼帯をゆっくりと外した。
直後、淡い水色の光が射す。
「《凍結眼》---発動」
***
「おお、黒乃くん」
私が乙葉の横に居ると、近くからリーダーの声が聞こえた。振り向かなかったが、足音が迫って、近付いて来たのは分かった。
「…それ、どういう状況かね?」
「…インビジブルが船を爆破して沈ませようと…しているみたいです」
私はリーダーの方を振り返らずに応じる。自分の顔がどうなっているのか、涙でぐしゃくじゃになってるかも分からないのに、それを他人に見せたくなかった。
何だか、どうでもよくなってしまった。殺人という行為を初めて犯して、当然良い気にはなれない。もう、私は全てをやりきったになった気になっていた。
「それはまずいな…早く逃げないと」
リーダーは私に優しく手を差し伸べた。私はちらっとその逞しい右手を見た。
(…!)
何処か、懐かしさを感じた。
何故だろう。ただの上司なのに。
昔感じたような、回顧的な温もりを。
「…ありがとう…ございます」
私がその優しさに答えようと手を握った、その時だった。
「「---!!!」」
背中に、とてつもない寒気を感じた。
敵の気配ではない。物理的な話だ。黄緑谷先輩がこの空間を見たら、きっと殆どの場所が青く染まって見えるに違いない。粒子の熱運動が鈍くなっていくのを、私は肌で感じた。
「寒い…。何でこんなに急に?」
シャワーでびしょ濡れになった上に露出の広いドレスを着た私は、二の腕を擦って摩擦熱を求めた。
だが、リーダーははっとする。
「この急激な気温の下がり方…まさか…!!」
すると、リーダーは廊下の交差点を逸れて外のレストランエリアへと出た。
「え、ちょ…待って下さい!!」
そう言って、私はリーダーを追い掛けた。
そして、外の景色を見た私たちは戦慄した。
「---何これ…」
馬鹿な。
こんな事が起こり得るのか。
いや、オホーツク海ならまだ見られるだろう。毎年ニュースで初観測日が報道されている。
だが、ここは東京湾だ。異常気象にも程がある。
---客船の周りの大海が、凍り付いていたのだ。
「な…何ですか…これは…」
外に出て、寒波が私の肌を刺激する。
全くの氷だった。船に隣接する辺りは薄氷のようだが、その氷は船から遠ざかるほど白みを増していく。そして、この氷の海の起点は、一つのゴムボートだった。乗客の顔は見えないが、そこから扇状に氷が張り巡らされている。夕日頃で、太陽の光がいつも以上に強く反射していた。
隣で、リーダーが声を震わせながら言った。
「間違いない…水樹くんだ」
「み…水樹って…雪音がこれを!!?」
「…ああ、そうか、黒乃ちゃんは聞いてないんだったね」
課長は深刻な顔をする。どうやらそれだけの事態ではあるようだ。
「彼女の《眼》は《凍結眼》---万物を一瞬にして凍らせる能力…。…もしそれが人間であれば、凍死する」
「---!!!」
彼女が長期に渡って、その《開眼》を拒んでいた理由か漸く分かった。
彼女が私をあの《眼》で直視したら、私は即死する。
《凍結眼》は、心優しい雪音が持つには余りにも冷酷な、人殺しの《異能力眼》だった。




