#32「Seventh color」
客船のとある一室。
「いい気味だな」
「…っ」
《インビジブル》のボス---漆は、蔑みの視線を向ける。その対象---白神聡の体には、生々しい大量の打撲跡があった。
(こんな事してる場合じゃないのに…早くしないと2人が)
白神は、部屋の椅子に縛り付けられていた。腕は背凭れの後ろで交差してロープで固定、脚も同様に動かせなかった。
「---もう一度訊く。褐間と黄村を殺ったのは誰だ?」
「僕だ」
白神が即答した途端、彼の腹に再び漆の拳が炸裂した。
「…っ!!! がはっ…」
「そんな訳が無かろう、君は《インビジブル》のメンバーだったんだから」
白神は酷く咳き込む。
白神は答えを知っている。どちらも和樹が殺害した---そう本人が言っているのだ。本人が嘘をついている可能性だってあるが、どちらにしろ白神は彼の名を吐くつもりなんで毛頭無かった。
「私は---仲間が殺されたからこんなことをしているのではない。君にこの質問の回答を求めているのは、別に復讐だなんて下らない理由ではなく、私の道を阻んだ事に私が怒っているのだ」
「なら僕を殺せばいい」
「だからそれは違うだろう? 彼らが殺された事はどうでもいい---私に逆らった者に、私の恐ろしさ、目的の崇高さ、そしてこれから創られる世界の美しさを知らしめる」
「世界の美しさ…だと?」
「私は《奪命眼》で人類滅亡を試みる」
「なっ…!!?」
漆の口から告げられた言葉に、白神は絶句した。
「《人類疎外論》を実践するつもりか…!?」
「ほう、私を知っているのか」
哲学者は小さく笑う。
「私は私自身を含めて人類が嫌いだ。人類がいるから、世は穢れる。だから一度世界をリセットして、その美を再構築するのだ」
「訳分かんないね」
白神がそんな言葉を吐くと、今度は顔を殴打された。
「…っ!!!」
「この演説を聞いて情緒を動かされないとは、救いようの無い奴だ---」
彼がそう言った瞬間。
僅かに《眼》の気配が漂うと---
(…!!?)
どうしてなのか。
こいつ、どんな奇妙な《眼》を使っているのか。
---やっぱり、知らぬ間にナイフが腹に刺さっているのだ。
***
(…遅いよ)
そんな焦燥に駆られる美女が居た。
黒乃は課長を部屋に連れて行ったきりこちらに帰って来ないし、彼女を連れ戻しに行った白神も戻っていない。木乃伊獲りが木乃伊に、なんて縁起の悪い言葉は使いたくないが、まさに今の状況はそれであった。
もう雪音はステージから退いていた。2人が居なくなって戻って来ないのを気にしているのは、彼女も同じだったようで、度々瑠璃波の方に視線を送っていた。雪音は恐らく、ステージ裏で休憩している最中だろう。
私も行くべきだろうか。このパーティー会場に一人で居ると色んな男性が話し掛けて来て、正直うんざりしているのだ。白神がいれば、さっさと追い払ってくれそうなのに。
「…聡」
ふと、彼の名を呼ぶ。すると、
「白神先輩がどうかしたんですか?」
「うん…って…え!!?」
瑠璃波の隣には、いつの間にか黒乃が居た。
「い…今の…聞いてた?」
「はい」
「…ぜ、絶対忘れてね!! 絶対だよ!?」
「人間、そう言われると他人に言いたくなる性質があるもので…」
「あーもう、つべこべ言わずに…って…え!!?」
瑠璃波は彼女の様子を目をしかめて見た。
びしょ濡れだ。碧い髪はプールに入った後のように水分を含んでおり、いつものサラサラ感は皆無だった。翠に借りたはずのドレスも濡れていてる。
「黒乃ちゃん…どうしたのそれ? それに腕も怪我して…」
「えへへ…ちょっと」
瑠璃波は周囲を見回した。男性客の目線が、ドレスの透けた黒乃の姿を追っているような気がして、瑠璃波は思わず「うわっ…」と声を出してしまう。
「…一回出よっか」
そう言うと瑠璃波は黒乃の肩を引っ張ってパーティー会場の外に引き摺り出した。
「それじゃやっぱり彼らが…?」
「はい…っ…へくちっ!!」
私はベッドの上で小さなくしゃみをする。寒い。
入ったのは、私と瑠璃波先輩の個室だった。部屋の構造は他の部屋と全く同じなので、別段サウナ室や床暖房なんて設備が存在するわけも無かった。
例の黒ドレスは一旦脱ぎ、今は部屋のクローゼットに収納されていた浴衣のような服で過ごしている。ホテルなどによくある類のもので、全体的に青い海を表現しているようだった。ドレスは床に置いて、今は瑠璃波先輩にドライヤーで乾かしてもらっている。
「それで…部屋からはどうやって出たの? カードキーは無かったんでしょう?」
「バスルームを水でいっぱいにしたんです」
「…え?」
突然意味不明な発言が飛び、先輩は言葉を失った。
「それで私が浮いて、天井に換気口があったので、その螺を10円玉で取り外して、ガコンって…」
「もう…携帯で呼んでくれれば良かったのに…船では機内モードとか必要ないんだよ?」
「それは知ってますけど、ICカードが無いとどうせ開けられないから…」
「…そっか」
先輩は合点がいったように呟く。
「まあ、それにしてももう少しマシな脱出方法があったかも分かりませんが…」
そう言うと、私はすっと立ち上がった。
「そろそろドレス着ます」
「え、まだ全然乾いてないよ?」
「この服、嫌なんです…なんか背中に魚偏の漢字がたくさん書いてあるし」
「あ…それは分かる」
私は服を脱いで背面を改めて見た。威勢のある達筆で、魚の名前を表す漢字が夥しく書かれているのだ。鮪、鮭、鰯、鮗---あとは、私には読めなかった。
「あと、このドレス、ちゃんと先輩に返さなきゃだし」
「だからって今すぐには…」
「雪音が心配なんです…あと白神先輩も。だから早く行かなきゃ」
「…分かった」
瑠璃波先輩は床のドレスを丁重に持ち上げると、私に渡してくれた。
「有難う御座います」
「無理はしないでね…腕も切られてるんだから」
私はベッドから立ち上がると、部屋の出口へと向かった。
***
雪音は、大きく溜め息をついた。
黒乃と白神が消えたのが、ステージからも見えた。瑠璃波は雪音の目配せに気付いたようで、困った顔をしていた。
杞憂だと思いたい。ただの偶然だ。まさか、彼らがこの船に乗っているわけがない。
雪音は自分のバッグからスマートフォンを取り出す。
「---え?」
着信が来ていた。瑠璃波から。
『《インビジブル》が現れたから、急いでパーティー会場の入口に来て』
そのメッセージを読んだ瞬間、私は身体が震えた。冷水を掛けられたようだった。
「…姿を見せた…か」
最悪の事態だ。この船には《奪命眼》の要素になる残り2色の《血》、つまり雪音と黒乃、両方が搭乗している。彼らがそれを求めて彼女たちを襲えば《奪命眼》は完成する---。
今、ステージ裏にはスタッフも含めて他に誰も居ない。雪音だけが、寂しく佇んでいた。
(取り敢えず、彼女たちと合流だ…)
私はスマートフォンをバッグの中に仕舞って立ち上がった。 まずは互いの安全確認だ。
そう思って、部屋の出口のドアを開いた時だった。
「…」
ドアの隙間から、紫髪の少女が身体を覗かせていた。
「…っ!!!」
背中まである、長い紫色の髪。無表情な顔。
間違いない。これが黒乃の話していた《着色眼》の使い手、榛葉紫乙葉だ。
彼女はドアを更に開いた。右手には包丁、左手には拳銃。そしてその銃口の先は、
「…っ…プロデューサー!!!」
雪音のパートナーである男性プロデューサーが、乙葉の後ろで震えていた。
「…すまない雪音、事情が呑み込めないまま…」
「…っ…一般人を巻き込むな!!」
雪音は乙葉に飛び掛かろうとしたが、足が止まる。今のプロデューサーは、完全に人質だ。
乙葉は小さく口を開く。
「…解放…したければ…ちょーだい…。《血》を」
乙葉の声はとても繊細だった。現役歌手の雪音でさえ、こんな細い声を出すのは難しい。
雪音は葛藤したが、答えを出すのはすぐだった。
「…分かった」
雪音は、素直に右腕を差し出した。自分を歌手にしてくれた恩人を、私情でこれ以上危険に踏み込ませる訳には行かない。
乙葉は、右手に持っていた包丁で腕に切れ込みを入れた。すかさず、彼女は親指サイズの小瓶で垂れた血を掬う。
「…っ」
腹部を刺された理や和樹のように派手な怪我をさせないのは、マスコミを騒がせない為だろう。彼らに比べればこんなもの、掠り傷だ。そう思って、必死に痛みを我慢する。
小瓶が雪音の血で満杯になると、乙葉はコルクで蓋をした。
そして、一言。
「---《7色》、揃った」
「…え?」
---そんな、馬鹿な。
自分はまだ、6色目のはず。
「…まさか…黒乃の分は…もう」
雪音が震えたら声でそう言うと、乙葉は頷いた。
「…提供…どうも」
乙葉は雪音の《血液》が付着したナイフを拭くと、上着のポケットから機械のボタンを取り出し、迷わず押した。
瞬間、船内に大きな地鳴りが響いた。
尋常じゃない揺れが伴う。
「なっ…!!?」
「爆弾を…爆破した…。…間も無く、船は…沈む」
---カウントダウンが、始まった。
《異能力眼》組織5人の命のリミットが、刻々と迫っていく---。




