#31「The most dangerous eye」
「…今日は、来場に感謝する」
舞台の上では、雪音が澄ました声で話していた。
「…僕がこんな社会的な催し物に招待されるのは、聊か場違いな気もするが…僕の世界線がここでも通用する事を、この舞台で証明したい」
雪音が流暢に中二病っぷりを魅せると、パーティー席からは歓声が上がった。
「はは…今日も呂律の調子が良い事…」
客席の中で、白神は苦笑する。
今日の雪音は、より一層《水樹雪音》らしかった。歌手として、アイドルとして相応しい顔立ちだ。生き生きとしていて、そして、何よりも彼女自身がこの舞台を楽しんでいる。インビジブルの奴らがこの場に潜んでいるのかも知れないのに、そんなのをものともせず、堂々とした表情、衣装、中二言語っぷりだ。これが国民を代表する、イタいアイドル歌手なのも頷ける。
すると、横からグラスを片手にした瑠璃波が寄って来た。いつもと違う服装で、こちらもいつもの彼女とは一味違う感じだ。酒は苦手なようで、グラスの中にはグレープフルーツジュースが入っていた。
「ねえ、聡…。黒乃ちゃん、遅くない?」
「そうだな…もうすぐ歌始まるのに」
そういえばすっかり忘れていた。紺堂リーダーを担いで個室まで運びに行ったはずの黒乃が、もう15分近くも戻って来ていない。雪音を除いた4人で男女に分かれて予約した2つの部屋は隣り合っていて、どちらもこのフロアにあるから迷う事は無いはずだ。
「…ちょっと私、探して来る」
そう言って、瑠璃波がその場を離れようとした時だった。
「すみません、白神聡様ですか」
「うわっ、えっ…あっ、はい」
突然、後ろから女性のウェイターが話しかけてきた。右手には名簿を抱えている。
「外でお知り合い様がお呼びです」
「あっ、そうですか…」
「黒乃ちゃんかな…?」
瑠璃波が言葉を挟むと、白神は小さく頷いた。
「多分そうだろうね…お知り合い様なんてあの子とリーダーぐらいしか居ないよ、この船内には」
白神は水の入ったグラスをコルクのコースター置くと、出口に向かった。大広間の後ろの方に居たので、そう時間は掛からなかった。
扉を開けると、そこに立っていたのは---
「こんにちは」
茶髪の男だった。顔もよく知っている。
名前は、茶岳漆。《人類疎外論》を唱える哲学者。前に黒乃とテレビを観ていた時に彼女に説明したような気がする。
「あ…えーと…」
白神は一瞬どう言うか迷った。ニュースで見る限り、自分としては彼の印象はあまり良くない、というのが白神の思っているところだった。
それに、自分とこの人は一体どこで知り合ったのか、というのが最大のポイントだ。全くもって、覚えていないのだ。下手に思い出したような演技をしてもすぐバレるだろうし、ここは素直に分からないと言った方が得策だろうか。
そう思ったか白神だったが、
「はは…ウェイターに知り合いと言ったのはこちらの都合でね…知らなくて当然だよ」
本当に赤の他人だった。
彼がこの船上パーティに呼ばれていること自体は、別段特別なことではないだろう。他にもテレビで見かける人物なら他にも多少はいるだろう。雪音が招待とした、というよりは社交辞令的に会社側が呼んだのかも知れない。
「あはは…なーんだ、それで、哲学界の新星が僕に何か御用でしょうか?」
白神はそんな風に笑い飛ばす。生憎、こういう社交的な挨拶は慣れてなくて、少しアイロニーな感じが漏れてしまったが。
---だが、彼の次の言葉に、白神は度肝を抜かれた。
「よくも---黄村くんを殺ってくれたね」
「…え?」
---悪夢が始まった。
白神は確かにこの男と知り合いではなかった。
だが、聞き覚えのある名前が呼ばれた。
昨日、和樹がアザータワーの地下室で始末した、黄村昴。
「初めまして、白神聡---」
そう呼ばれて、今更のようにこの男の恐ろしさを知った。
途徹もない魔力が彼の目---いや、《眼》から溢れ出ていた。《左》なので色は付いていないが、殺人的能力を持つ雪音でさえ、ここまでの瘴気はない。もっと大きなものを司る《眼》のように感じる。
とにかく、これだけは間違いない。
哲学者・茶岳漆の正体は---《異能力者》だ。
「…っ!!」
「む、逃げるのか」
白神は戦慄して、逃げ出した。こんなのに敵う訳が無い。足を後ろに踏み出して、走る。一生懸命に。
漆は何故か追い掛けて来ない。ちらっと後ろを見るが、もう20mは離れている。
だが、廊下を曲がろうとしたその瞬間。
「遅い」
「…っ!!!?」
そんな馬鹿な。もう追い付かれたのか。
(この距離を、1秒で…!!?)
その上、知らぬ内にナイフが背中側から腹部に刺さっていた。白いシャツに、赤い液体がじわりと染み渡って行く。
「はっ…や…」
異常だ。あまりにも速すぎる。
「別室で続きと行こうか」
「なっ…」
無理だ。既にこっちは大量に鮮血を噴出しているのに、これ以上殺り合ったら確実に殺される。
だがそう思っても、足が言う事を聞かない。
そして意識が朦朧とする---
***
船内のとある一室。
「…ん」
私は、ベッドの上で目覚めた。瞬間、
「…っ…痛たた…!!!」
左腕に猛烈な激痛が迸る。擦りむいただとか、捻挫とか、そんなレベルではない。私は首を傾けて、自分の腕を確認した。
「…何これ…」
それを見て、悪寒が走った。
「…き…切られてる!!?」
左腕に、一筋の巨大な切り傷が出来ていた。切断はされていないが、約5cmに渡る肌の切れ目がそこにはあった。内皮部分の肉塊がちらっと覗いて、私は体がぞっとした。
「うっ…」
自分の腕だが、気持ち悪かった。赤黒い鮮血は固まり始めているが、まだ少し腕の筋を通って垂れていく。私が寝ていた白いシーツは、腕から円状に真っ赤に染色されていた。グロにはある程度耐性はあるが、まさか自分がされる側になるとは思わず、流石に吐き気がした。
そして、腕を切られた理由はただ一つ。
「《血》が…盗られた」
そう思った途端、体が酷く震える。遂に、私が《奪命眼》の材料にされる時が来てしまったのか。
(…と…取り敢えず、応急処置だけでもしなきゃ…)
私は出血部分を押さえながら、ベッドから降りた。
恐らく、私をこの部屋に連れて来たのは乙葉だ。私を眠らせた後、私の腕を切って《血》を回収した---それでほぼ間違い無い。
そこで、私は気付いた。
(…じゃあ次は…雪音が…!!!)
まずい。そう思って、私は部屋のドアへと駆け出した。そしてドアノブに手を掛けて---
---だが、開かなかった。
「なっ…まさか、閉じ込められた!!?」
この客船の個人室は、全てICカードによるスキャンによって行われる。部屋に入るのは勿論、部屋から出る時にも、この金属製のカード差込口に専用のカードを挿入しなければならない。そしてその専用カードはマスターキーを除けば、1枚のみ。
今、この部屋には私一人。つまり乙葉が自分のICカードを使って部屋から出たとすれば、今、この部屋は完全な密室。まずい状況だ。
「どうしよう…あっ」
すると、私は思い出したように部屋の方へ戻った。
「確かテレビの横に受話器が…」
私がさっき紺堂リーダーを部屋に運んだ時には設置されていた。恐らく部屋の構造はどの部屋も同じ筈だ。
私は受話器を持ち上げた。だが、
「…電話線が切られてる…」
希望は呆気無く潰える。私は受話器を元の場所に戻した。
窓の外を確認する。各部屋には一つずつ、テレビと同じくらいのサイズの窓がある。開閉は自由だが、外にあるのは海だけ。乗り出して上下左右を確認してみたが、梯子や他に掴まれそうな物は存在しなかった。
「どうしよう…」
またしても、同じ言葉を繰り返す。私は雪音を助ける為に、思考を繰り返す。
玄関は開かない。窓からの脱出も不可能。電話線は切断されている。残る手段は---
「…換気口は!!?」
私はバスルームへ向かった。スライド式のドアで、入口はかなり狭かった。湯船は無く、壁にシャワーが備え付けられているだけのシンプルなデザインだ。シャンプーの類はプラスチック製の白い棚の上に置いてある。壁には船の名前が印字されたタオルが掛けられていた。
天井には、換気口があった。ここから外に出られそうだ。希望はある。
だが、障害が一つだけあった。
「ん…んんっ…」
手が届かないのだ。
私の身長は152cm。一般の女子高校生とすれば平均並だが、実はMEIの中では一番小さい。まさかこんな所で身長の低さが仇になるとは。
天井の高さは3mよりやや高い程度だろうか。白神先輩とかならともかく、私ではジャンプしても届かない。
(何か…高台になるものを…)
そう思って私は部屋に戻る。だが、高台になりそうなものはあっても、バスルームに入りそうな物は無かった。
というのも、先程述べたように、このバスルームは入口が極端に狭い。所謂折り畳み式の扉なので、その束が入口を大きく占めているのだ。バスルーム自体も恐らく一人で使う時しか考えていないのだろう、余り広くない。所詮、客船に取り付けられた仮設のシャワールームだから、そういう構造になっているのだろう。
私はバスルームの中を改めて見回した。あるのはシャワーと、シャンプー類と、タオル1枚。洗面台やトイレは別にあるし、お風呂は大浴場が1階にあったので、バスルームの中はかなり簡素に作られている。ここにも高台になりそうな物は無い。
「あと一歩なのに…」
私は唇を噛む。きっと換気口の螺は持ち合わせの10円玉でも使えば開けられる。どうにかして上に手が届けば---
(…あ)
あった。目の前に、答えが。
(…でも…上手く行くかな)
解決法は思い付いた。時間は掛かるし、真冬にこんな事はしたくないが…。
「…迷ってる場合じゃない!!!」
私は側のタオルを取ると、左腕の傷口にきつく巻き付けた。出血をこれ以上進めるわけにはいかない。
「…翠先輩…ごめんなさい!!」
ドレスを貸してくれた彼女の名を叫んで謝ると、私はシャワーの栓を全開にした。




