#27「Amnesia」
「あのー…おのは…ちゃん?」
彼女との関係は、私のそんな一声から始まった。
「…え?」
「あの…さっきの自己紹介で、水樹雪音が好きだって言ってた…よね? 私も雪音ちゃんの歌好きで…デビューソングの《Sadistic encounter》なんか、私毎日聴いてて…」
「…」
彼女は、椅子座ったままこちらをぽかんと口を開けながら見ている。
「あと私、橙本夏希も好きかな…雪音ちゃんと同時期にデビューしてて、あっちは明るい曲が多くて…あ、でも最近出した《Black fire》とかは暗めだよね…。…おのは…ちゃん?」
「…私、おのはじゃなくて、乙葉なんだけど」
「え…?」
私はその後、全力で《おのは》改め、榛葉紫乙葉に謝罪した。
私が彼女の名前を読み間違えたのだ。《乙》は、漢数字の《一》に並んで、日本語でたった2つしか存在しない一画の漢字だが、この漢字は読み方が複数存在する。
ネットスラングで見かける《乙》。
《乙女》《乙姫》など特殊な読みに分類される《乙》。
十干の二番目に当たる《乙》。
この他にも音読みに《イツ》があったり、《乙張》なら《めりはり》と読んだりするが、私はその斜め上を行った。
つまりは、配られた名簿に記された彼女の名前の《乙》を、《己》と見間違えたのだ。
「ごめん!!!」
「良いって、良いって」
当時の彼女は、陽気な性格だった。彼女とこの会話を交わしたのは高校に入学してすぐのことだ。
一目彼女を見た時思ったのは、彼女の綺麗な紫髪が羨ましかったという事だ。碧髪の私だって他人の事は言えないが、彼女は学年の中でも目立った存在だった。
「それで、何だっけ、雪音ちゃんと夏希ちゃんの話? そうだね、彼女たちの歌は良いよね…ええと」
「…あ、碧柳黒乃です…黒乃って呼んで」
「そっか、黒乃が言ってた《Black fire》は確かに夏希ちゃんにしては珍しかったよな…いつもは《Snow village Christmas》とか《紅葉》とか楽しい曲歌うのにな」
「あ、私も《Snow Village Christmas》好きだよ!! クリスマスが近くなると定期的に聴きたくなるなぁ…」
「でもまさか水樹雪音と同じ高校になるなんてね」
「そう…奇跡みたい」
そう、この高校には、偶然にも雪音が入学していた。入学当初に、水色の髪を持った彼女を見た時はたまげたものだ。
彼女の歌が大好きな私たち二人は、早速彼女に会いに行った。サインを貰った。別クラスではあったが、こんな至近距離で彼女と高校時代を共にするとは夢にも思っていなかった。
乙葉は中学時代、剣道部員だったそうだ。腕前は並々のようで、都大会には及ばなくとも、渋谷区内の大会では毎年上位につけていたらしい。彼女は高校でも迷い無く、剣道部に入部した。
私は一度だけ、彼女が剣道をやっている様子を見学させてもらった。凛然としていた。いつもとは異なる、獲物を見つめるかのように真っ直ぐな視線。敵の面、胴、あるいは籠手をほんの一瞬で打つ彼女の技は強力だった。一発で仕留め切れない時は二段、三段、四段攻撃と重ねていき、格闘ゲームのコンボのように相手のよろける様子を容赦なく襲っていく。
彼女の強さは、いつも正しく誠実なものだった。
私は入部先に悩んでいた。中学時代は帰宅部だ。高校は中学以上に忙しいと聞いていたので、同じ選択肢を取る事も考慮していたが、折角の青春時代を部活に振らないというのも何だか惜しい気がした。
そんな時、彼女が声を掛けてきた。
「剣道部は?」
「え、そんなの無理だよぉ…」
思わず、弱気な声が漏れる。
「大丈夫だよ、私も居るし」
「でも…」
私は別段、スーパースポーツ少女と呼ばれる程の運動能力を備えているわけでは無い。寧ろ平均より悪い。それでも体育の評定が5段階中の3を下回らなかったのは、きっとペーパーテストで稼いでいたからだろう。
そんな俯く私を変えたのは、やはり乙葉だった。
「黒乃には剣道が似合うよ」
「…え」
「この間、一回私の竹刀を貸してあげただろ? あの時の素振り、惚れたよ」
「ほ、惚れた!?」
「あー、いや別に百合の意識とかそういうのじゃないよ? 純粋に、竹刀を振ってる時の…何というか…目が…本気だった」
「え、いや、そんな…アニメのキャラみたいに剣が振れたら…みたいな中二病意識だよ!! きっと!!」
「中二病なら雪音ちゃんの専門だろ?」
…突っ込む所はそこなのか。
「でも、黒乃なら、極めれば絶対強くなるよ。私にも余裕で勝てちゃうよ。私が保証する」
「乙葉…」
区内大会優勝経験者に言われると、圧倒的な説得力が付いて回った。乙葉に勝てるかは別として、私でも強くなれるのかなと思った。勉強面でも運動面でも取り分け得意分野を持っていなかった私は、スクールカーストの中間辺りを上下する平凡な生徒だ。力が欲しい。注目されたい。そんな欲が私の中で渦巻いていた。
「…分かった。私入るよ、剣道部。乙葉との思い出ももっと…作りたいし、ね」
「…ありがとう、黒乃ならそう言ってくれると思った!!」
約束をした。確かにこの時、約束したはずなんだ。
私は翌日、職員室へ入部届を貰いに行った。紙に入部する部活と、氏名と、保護者のサインを記して顧問の先生に提出するだけだ。私が最終的に入った部活は、
---またしても、帰宅部だった。
第一の理由は、私の家の家賃だ。
当時は、というか今もそうだが、私は独り暮らしをしている。渋谷区内の某賃貸アパートだ。格安で、家の広さは確かに十分とは言えないかも知れないが、私一人だけならどうにかなるだろうと、このアパートに住む事を決めつけられた。
決めつけられた、というのは、私の保護者が決めたという事だ。両親ではない。君には親が居ない、居なくなったんだと、ある人に言い付けられた。父親と関係のある人物らしかった。だが、今はその顔も覚えていない。私の過去は、不思議と多くが黒塗りされている。両親は私を捨てたのか、死んだのか、そんな事さえも不明瞭のまま、高校時代を生きてきた。
とにかく、それ以降私は自分の生計は自分で管理しなければならなかった。その為に、私は小さい頃からアルバイトをしている。今は区内のドーナツ店の接客係だ。
高校に入って、学校生活に取られる時間が増えた。アルバイトに費やす時間も減らしたくはない。部活という選択肢を削るのは、苦渋の決断だった。
だが乙葉にとっては、私が約束を破った事が思った以上に堪えたらしい。
「何で…何で入らないの!!? 言ったじゃん!!!」
理由は話した。彼女は私に親が居ない事は知っていた。だが、それでも納得してくれなかった。
約束を破るというのは思いの他苦しいものだ、と当時の私は痛感した。確かに約束はした。したけど、破った。私は嘘を付いた。
その罰が当たったのだろう。
---後は、和樹たちに話した通りだ。
彼女との仲について苛んで、信号を渡っていた渡は赤信号に気付かず。
引かれる筈だった私を助けたのは、間違いなく彼女で。
死ぬ筈だった私の代わりに死んだのも、間違いなく彼女で。
彼女の名前は、榛葉紫乙葉。
死んだ筈の彼女が今、私の前に存在している。
私は忘れたかった。
責任逃れの、あの事故を。
---そして、榛葉紫乙葉という存在を。
***
アザータワー、地下1階、電気室前。
「…乙葉?」
薄暗い廊下に、2年ぶりに呼ばれた彼女の名前は虚しく響く。
「…?」
「…乙葉…だよね…ねえ…乙葉!!!!」
「…」
彼女は無言のまま、立つ。
その時、私は途轍もない違和感を感じた。
彼女の表情に、色が無かった。嘗ての面影など、皆無だった。無表情で、剽軽で、単純。
--認めたくない。あの思い出は全て架空で、真っ白の偽善なの?
彼女はこう言い放った。
「私は…《インビジブル》所属、《着色眼》の…榛葉紫乙葉…」
抑揚も、涙も、感情さえも殺して。
「あなたは…誰?」
認めない。
彼女が記憶喪失だなんて、私は絶対に認めない。




