#20「Silent and cold」
それは奇跡だった。
あと1秒遅ければ、黒乃は完全に自殺させられていた。
和樹たちは1Fから順番に回るなんて馬鹿なことはしていなかった。
《遡刻眼》だ。和樹の、過去を遡る能力。
それで、タカジマヤ各所に設置されている監視カメラを辿ったのだ。内蔵メモリに記録された過去の映像を見て黒乃の姿を探し出した。
良かった、間に合った。
そう思ったが、
「あ…」
彼女は右足を踏み外した。
「く、黒乃!!?」
和樹が咄嗟に駆け寄った。だがその前に褐間が立ちはだかる。
《左眼》が褐色に色付こうとしたその瞬間。
「!!!」
和樹の後ろから一発の銃声が響いた。迫る弾丸を、褐間はしゃがんで避けたが、能力の発動が阻まれる。
(くっ…!!)
そして和樹が滑り込みで駐車場に手を伸ばした。
その手には、弱々しくも逞しい黒乃の右手が握られていた。何とか転落は免れた。
だが、和樹はそのままの姿勢で動けなかった。手を伸ばした左手は封じられ、上半身は胸板下が屋上の冷えたコンクリートに接触している。
「あっぶね…おい、黒乃!!」
和樹は下にぶら下がる黒乃に声をかける。だが、応答がない。
(…気絶してんのか?)
無理もない話か。ここまで追い詰められ、実際もう落ちてると言っても過言ではないこの状況だ。
和樹は何とかして黒乃を屋上に引き摺り上げた。冷や汗が今までにないくらいに服をべたつかせていた。
「…これは驚いた」
褐間は今更のように立ち上がる。
「まさかあの歌姫…水樹雪音が組織の者だったとは」
褐間の視線は、銃を構える雪音に向けられていた。雪音は、一筋の汗を首に流している。
「その眼帯の下に?」
「…君に教えるつもりは微塵もないさ」
雪音は拳銃の照射線の如く睨み付ける。その間に、和樹は双剣の片方を取り出す。
刃先を向けると、空いた左手で上着のポケットに入るスマホを弄る。褐間に見られないよう、ポケットの中で。
録音アプリを起動すると、和樹は向かいの雪音に目配せした。この間の文化祭とほぼ同じ状況だ。
「褐間、一つだけ訊きたい事がある。インビジブルの情報データファイルへアクセスするパスワードを教えろ」
「…ほう」
この間、理が話していたデータ侵入の話だ。これを解き明かせば、インビジブルの殲滅に大きく近付く。
彼らの全情報が詰まったファイルなら、MEIへ入場する時のパスワード並み、あるいはそれ以上に長いはずだ。だから和樹は録音アプリで後から本部に戻って入力しようと思ったのだ。
一度しか言わないからよく聞け、といった定番台詞が来ると思った和樹は、しかしながら期待を裏切られた。
「5963、だ」
「…え?」
「だから、5963だ」
裏切られた、という言い方は間違っているかもしれない。寧ろ暗記できる長さで助かった。録音アプリを起動したのは取り越し苦労だった、それだけだ。
だが、短すぎだ。しかも2回も言ってくれた。
「満足かね」
「え、あ、はい」
和樹は流れで返事をしてしまった。向かいの雪音も困惑したような顔で褐間の背中を見ている。
「…本当なら、碧柳くんをさっさと自殺させて逃げたいところだが」
褐間は再び話題を戻す。和樹の頭には色々な考えが浮かんでいたが、取り敢えずは目の前のことをどうにかしようと思った。
「気絶、或いは死亡している人間には使えないのか」
「ああ…そうだな、少し趣向を変えよう」
そう言うと、褐間は雪音の方に振り返った。雪音ははっとして、拳銃を再び強く握り直す。
「水樹雪音…《眼》の事がバレた以上、私は生かしておけない存在かね?」
「…僕はそんな勝手な人間じゃないさ。自らの都合で無駄な殺生はしない」
「どうかな」
褐間がどんな表情をしているのか、褐間に背中を向けられた和樹は分からない。でも、何か嫌なことを企んでいる気がした。
「…自分には正直なつもりさ。僕は歌を届ける為に、あの観衆の前に屹立する。愚劣な事なんて、一切存在しない」
「…つもりだろ?」
褐間がそう言った途端、雪音の顔が曇った。
「中二病患者は持論の脆弱性を突かれるのが弱いって、ホントだったのか」
「別に今のは持論なんて大層なものじゃ…」
弱音を吐いて、雪音が僅かに拳銃を持つ手を緩めた、その刹那。
「---歌う目的は大事じゃないのかい?」
褐間の《眼》が染まった。
「!!」
和樹が自らの目でそれを見たのではない。
雪音が、拳銃を投げ棄てたのだ。
「…え?」
一番驚いているのは、恐らく当人だろう。何たって唯一の武器を自ずと手離したのだから。
雪音の拳銃は屋上から落ちて見えなくなった。確かこの下は駐車場だから、暴発したら危ないかも知れない。
だが、今はそれどころではなかった。
雪音が茫然とする中、褐間は再びこちらを振り向いた。
そして、和樹は剣を投げ棄てた。
「…っ!?」
この間の、降り下ろした剣が操られた感覚と同じだ。腕、肘、手、全ての関節が支配された感じだ。
無力になった雪音は何もできずに、褐間の後頭部を焦燥に駆られながら見つめる。
そして、和樹は自分でも思いがけない行動に出た。
「一緒に居たいだろう?」
褐間がそう呟いた時、和樹は屋上際で気絶している黒乃のもとへ歩み寄っていた。
そして和樹は、自分でも驚くくらいに黒乃を優しく抱き上げた。
「…まさか」
和樹が首を振り向こうとした瞬間。
「逝け」
和樹は、黒乃を抱えたまま、建物の奈落へと駆け出した。
***
---和樹の右足は空を踏む。
そして、2人揃って、奈落の底へ堕ちていく。
雪音はそうなると思った。和樹が黒乃の方へ向かう時から。
今の無力な自分に、一体何が出来る?
僕には、元々何も無かった。だから、こうやって拳銃を持って、自分を包み込んでいた。
この一人称だって、自分のシルエットを簿かす為のものだ。中二病なんて設定だって、自分を偽る言霊で。
それを剥ぎ取られた今、《私》には何がある?
和樹が黒乃を抱き上げた。正確には抱き上げさせられた、か。どちらにしたって、この後は地に落とされる。
もう、無理だ。この非力な私には何も無いのだから。
そう思って、雪音はこれから見る彼らの末路に顔を手で覆った。
その時だった。
(…あ)
私の手に、白い布が触れた。
あの大舞台に上がるときは邪気の封印だよ何だのと偽って誤魔化した、使い古しの白い眼帯。
そしてその下には、邪気という単なる言葉では言い表せない、余りに冷酷な《眼》が。
(…あるじゃないか)
もうどれだけの期間、この眼帯を外してないだろう。MEIに加入した時に一度だけ見せたきりだから、かなりの月日だろう。
雪音は葛藤した。人生最大の葛藤だった。
しかしながら、判断は即座にできた。というより即決を迫られていた。
屋上際で落ち行く最中の和樹に。
雪音は、その眼帯の紐に指を掛ける。
(…お願い!!)
そして、世界で最も美しく、残酷な水色の瞳が開かれた。
***
(はぁ…はぁ…)
和樹は、助かった。
落ちてすぐのところにパイプがあった。細かったが、和樹と黒乃の体重を支えるには十分な太さだった。
「…っ」
和樹の右手にはパイプ、左手には黒乃の右手が繋がれた状態だ。
何故褐間の制御が効かなくなったのかは分からなかった。体の麻痺感も完全に無くなっている。まさか、雪音が褐間を倒したのだろうか。
「おい雪音…」
そう言って、頭を空から覗かせようとした時だった。
「来ちゃダメ!!!」
雪音の張りつめた声が響いた。反射的に頭を引っ込める。
「え…何で」
「いいから…ちょっと待って」
張りつめた、とは少し違うかも知れない。
震えた声…いや、泣いているのか?
「…お待たせ」
暫くして、いつも通りの眼帯をした雪音が顔を見せた。下から見てるせいもあるだろうが、何だか表情が暗かった。左目に少し水滴が見えたような気がする。
雪音は和樹の右手首を掴むと、精一杯引っ張り出した。
「んんっ…」
息が荒かった。2人分を持ち上げている為なのか、それとも他の理由が存在するのか、とても疲れている様子だ。
和樹は足が屋上につくと、雪音に代わって黒乃を引き上げた。黒乃はまだ目を覚まさない。
「褐間は…」
和樹は屋上を見回した。そして、すぐにその姿は目についた。
「…殺した」
雪音は憮然とした顔で褐間の死体を眺めていた。
それは、彫刻だった。出血どころか傷一つ無い、綺麗な遺体だった。その目線は、さっきまで褐間がパイプに必死にしがみついていた場所にあった。
「…大丈夫か?」
「私は、大丈夫だ…。ありがとう」
雪音は、一人称の偽装さえ忘れていた。
「寒いから…まさかとは思ったけど」
「…賭け…だったよ…」
激しい吐息を漏らしながら、雪音は返答する。
「分かってる…だから俺らが落ちた後を狙ったんだろ?」
「…ああ」
和樹と雪音は、2人にしか通じない話をした。黒乃でさえ、この話の内容は理解不能だろう。
雪音はしゃがんだまま《右眼》を押さえる。
「あと…滑るから…気をつけ…て…」
すると、雪音はそのまま屋上の床面へと倒れ込んだ。頭を強く打ち付ける。
「お、おい…!!」
和樹は声を掛けたが、返事は無かった。息はある。
(おいおい、さすがに一人で3人を運ぶのは無理だぞ…)
和樹は改めて屋上を見渡す。
気絶した黒乃に、倒れ込んだ雪音、そして遺体となった褐間。
(…理でも呼ぶか)
和樹はスマホを取り出すと、通話アプリを起動した。
---今宵は、彼女の心が最も熱く、冷酷だった夜かも知れない。




