#16「Youth」
俺の少年時代は少し特殊だ。
あの時の《私》は、憤怒と焦燥に駆られて銃を握った。
大切な者を失った怨みに心を支配されていた。
その強い意思の具現化したものこそが、この《眼》だった。
《私》の《眼》は、私に即座恨みを晴らすチャンスを与えてくれた。
でも、何かが矛盾している。
その恩恵は本当に正しいのか。
本当に在るべきものだったのだろうか。
大切な人を助けた。立派な偉業だ。
なのに---
どうして俺は避けられてしまったのだろう。
***
「戻った」
「おかえり」
午前10時21分。和樹の言葉に、翠は応じた。
「黒乃が帰って来たってホント?」
「ああ。俺が声かける前にさっさと部屋に引き籠りやがって…あいつ、何かあったのか?」
事情を知らない翠は和樹に問う。
「能力が高校の生徒にバレて…」
「ああ…」
翠には黒乃が学校でされたことの想像は容易かった。
「…ったく、一昨日の事件も忘れたのかあいつは…」
和樹は上着を椅子にかけると、翠の向かいに座った。
「雪音に話を聞いてもらえばいいじゃないか。黒乃の事情が一番分かるのはきっとあいつだ」
「雪音は今、次の船上パーティの準備に向けて…」
「船上パーティ?」
翠が尋ねる。
「ああ、今度の11月に東京湾で巨大客船が運航して、そこのディナーパーティーで」
「へぇー、俺らは招待されるのか?」
「らしい…この間のSMFではできなかったからって」
「そりゃ楽しみだな」
取り敢えず、期待に膨らんだ顔を見せておく。
船上パーティ。大富豪や有名な俳優がタキシードやドレスを着てうじゃうじゃと酒でも飲むのだろうか。性に合わない、と翠はふと思う。
「まあ、黒乃のことはしばらく時間をおかないと」
「いや」
和樹の言葉を、翠が遮る。
「ここは俺が」
「…翠姉が?」
「何、文句ある?」
「いや…」
和樹は、翠がそのような行動に出るとは思わなかった。
説得できないとかそういうことではなく、翠がそもそもMEIのメンバーに干渉することが多くはなかったからだ。数ヶ月前、理がMEIに勧誘された時もそうだが、この人は人と話すのに慣れてない。コミュ障のような寡黙的な方面ではなく、思わず怒鳴ってしまうのだ。人との接し方を知らないと言ってもいい。
まあ、それも彼女の過去に関わることなのだが。
「んじゃ、ちょっくら行ってくる」
「…」
和樹は何も言えずに、翠を部屋まで見届けた。
「まーったく、湿気てんじゃねーよ」
「…」
翠はキャスターのついた椅子に座る。黒乃はベッドの上で体育座りをしていた。
(…何で俺がこいつの世話なんか)
自分で行っといて、今更何を言っているのだとは思った。翠には自分が馬鹿馬鹿しく感じられた。
「…和樹に頼まれて来たんですね」
黒乃はこちらに向き直した。口元は膝で隠す。一応、会話はできるようだ。
「ちげーよ。俺が興味本意でお前の様子を知りたくなっただけだ」
「なら、尚更話すことはありません」
「お前になくとも、俺にはある」
黒乃は僅かに顔を上げた。
「…先輩が?」
「ああ…お前が入ってすぐの頃、俺の過去の話を聞かせて欲しいって言ってたろ」
今こそそれを話す時だ、と翠は感じていた。
他のメンバーは知っている、つまらない少年時代の話だ。本当に他愛もない、この組織の中ではありふれた話だ。
だからこそ、今の黒乃に話す必要がある。
翠は自分の座っている椅子を「よっ」と言ってベッドに寄せると、前振りもなく唐突に話し始めた。
「7年前の話だ」
***
大抵の警察官は銃を所持している。
多くはワルサーppkという形態の自動拳銃だ。弾薬は《.32ACP弾》を使い、訓練場で標的に発砲する訓練をする。稀にいる、百発百中に近い成績を残す警官は何かと署内でも話題になる。
だが、そんな彼らでも本物の人間に発砲した警官はごく僅かだろう。
犯人に対峙してまず思うのが、自分がこいつを捕まえなきゃという意思---というのは、実際はあまりない。人間が人間を殺すという行為に彼らは怯える。他の動物の共食いとは訳が違うのだから。人間はコミュニケーションという手段を持っているから、余計に同種の人間は殺すのを躊躇う。正義感の強い警官なら、悪人を倒すという正しい行為と、殺人を犯すという間違った行為、どちらをとるかという葛藤に打ちのめされるとか。
私の父親も、人を殺したことのない、新米警官の一人だった。
「ハワイ、楽しかったね」
当時11歳の私のあどけない発言に、父親が返す。
「何が楽しかった?」
「えーとね…サーフィン!! それからね、ホテルのお料理が美味しかった」
「ふふーん、あそこはハワイでもトップクラスのホテルだからね」
「そうなの!! お金は大丈夫なの?」
「ははっ、琴梨は家計の心配はしなくていいんだよ」
私の家庭はある程度、裕福であるらしかった。実際にどの位お金があったのか知る余地も無かったが、私が我儘を言っても、欲しいものは大抵手に入った。
ハワイでは人形を3つ買った。猿の人形だ。セットになっていて、毛が黒くて大きいのと、焦茶色い中くらいのと、薄い茶色がかった毛並みの小さい猿だ。母親の「家族みたいね」という発言で私の物欲をそそり、結局購入することになった品物だ。それぞれ父親、母親、私を指しているようだった。
私たち3人は今、ハワイの帰りでホノルル空港にいるのだ。
「12時10分発?」
「そうよ」
隣で麦藁帽を被った母親が答えた。見上げた先の電光掲示板には羽田行きの案内が表示されている。
「定刻までまだ時間があるから、トイレでも行っておくか?」
「うん」
「ちょっと待ってろ」
そう言うと、父親は近くの警備の人の所へ駆け寄った。
父親は英語が達者だ。ハワイでの滞在期間も、父親がいたお陰で何も困ることは無かった。
私にとって、父親は憧れの存在であった。刑事として平和を貫くその真っ直ぐな意志に、憧憬を抱いていた。
「Excuse me, where is the lavatory?」
私には父親が何を言ったのかはよく聞き取れなかった。が、トイレの場所を尋ねているのは容易に想像できた。
だが、その時。
突如、空港全体に甲高い音が響いたのは、警備員が口を開いて答えようとした時だった。
11歳の少女に、その残酷な映像は強く脳裏に焼き付けられた。
警備員の右脳から赤い霧が勢いよく噴き出したのだ。
「な…!?」
私にはそれが男の血であったことを理解するのに、少々時間がかかった。警備員の男は大きく目を見開いて父親を見据え、何が起きたのか理解しないまま床へ倒れた。側の壁に赤黒い斑点が横雨の様に襲い掛かる。
その壁には、蜘蛛の巣じみた跡が。
(…弾痕!?)
父親は、すぐに状況を察したのだろう。
「LIE FACE DOWN!!」
父親は空港のロビー全体に響くような声で叫んだ。周りの客が一斉に床へ這いつくばるのを見て、私も慌てて真似事をする。「伏せろ」と言ったのだろう。
倒れた警備員の顔を伺う。目の焦点は既に失われ、頭部の左側には赤い血塊が。怖くなって、私は猿の人形を強く抱き抱えた。
弾丸が頭部の左から出てきたということは、発砲元は右側から。私はロビーの廊下に目線を移す。
(…!)
そこには、武装集団がいた。黒いサバイバル服を着た男が計8人、こちらに向かって来ている。一番奥の男が持っている狙撃銃の口から真新しい白煙が上がっているのが僅かに見える。
私たちを人質にする算段だろうか。そう思った時。
「Don't move…」
私は上を見上げた。そこには、拳銃を握った父親の姿が。
よく見ると、警官のホルスターから銃が無くなっている。父親が咄嗟に奪ったのだ。
「あなた!!」
「…大丈夫だ」
隣で母親が叫ぶが、父親は銃口を彼らに向けたまま、動かない。
「…Japanese?」
彼らのリーダー格らしき人が言う。まだ80mほど離れているが、向こうが叫んだので受け答えは可能だった。
「Yeah」
「Huh, don't get carried away」
当時の私には二人が何を言い合っているかなど、分かるわけも無かった。説得しているのだろうか。
「Freeze, or I'll shoot」
「動くな、動くと撃つぞ」とでも言ったのだろう。パソコンの「フリーズ」とか、よく聞いた事がある。
だが、男はお構い無しにこちらへと近付いて来る。
(…何で撃たないの?)
私はそれがとても疑問だった。
そりゃあ、さっきの英語は威嚇のつもりだったのだろう。だけど、このままでは向こうの方に居る一般客が拐さらわれる。
私は父親を見る。
---銃を握る手が、震えていた。
私には、その理由が分からなかった。父親は強くて、拳銃の扱いも上手だと思っていたからだ。
銃の扱いが上手でも、人を撃った経験がないなんて、私が知るはずも無かった。純粋に悪を殺す例は、皆無だった。
今思えば当たり前に理解できることだ。
私の父親は、《正義感の強い警察官》であったが為に、トリガーを引けなかった。
葛藤に敗けたのだ。
「お父さん…?」
私が父親にそう声を掛けた、その瞬間。
「You lost」
男はそう言った途端、銃口を私に向けて、発砲した。
「!!」
「琴梨!!」
一瞬だが、銃弾が見えた。向かう先は自分の額だとすぐ分かった。
しゃがんでいる私にとって、それをかわすのは不可能だった。
もう終わりだ。
純粋に、きっと痛いんだろうなと察した。
そう思って目を瞑った瞬間。
「…ぐっ…あ!!!」
父親の呻き声がして、私は目を開いた。
「…っ!!? え!!?」
目前には父親が倒れていた。Yシャツの左肩が赤黒く染まる。
「お…お父さん!!」
「あなた!!」
私と母親が一斉に父親へ近寄る。父親は虫の息だった。
「…大丈夫か、琴梨?」
掠れた声が私の耳を劈つんざく。その言葉は、寧ろ私を苦しめた。
「お父さん…お父さん!!」
父親は喋らなくなった。死んだわけではないだろうが、それでも私は悍戻とした気持ちになった。
そして、私は考えてしまった。
瞬間、翠色の光が脳でフラッシュする---
「私…私のせいで?」
そう言葉にした途端、全身に激しい麻痺が回った。
「っ!!!? うあっ…!!」
思わず猿の人形を落とす。右目に激痛が走り、両手で押さえる。何か大きな力に支配されるようだ。
「…っああああ!!!」
動悸がする。呼吸は不安定。目に銃弾でも撃ち込まれたかのような苦痛が私を蝕む。
父親はとても不安そうな顔でこちらを見た。
「…琴梨…その《眼》…」
その時、寝そべっていた父親の手から拳銃が落ちた。警備員が保持していたものだ。
(…ワルサー…ppk?)
セミオートマチック拳銃の一種だ。装弾数は確か8発。
武装集団の方を見やる。敵は---8人。
(…お父さんの為なら…!!)
私は、ワルサーppkを拾い上げた。
「こ…琴梨!!?」
「無理だ!! 触るな!!」
父親はそう叫ぶが、すぐに呻いて肩を押さ込む。
「…What?」
敵も私の行為を不審がる。
---躊躇うな。
奴らは、私の大切な父親を傷付けた。
絶対に…赦さない!!
きっと、あの時の私を見た父親はこう思っていただろう。
---どうして、子供はいつも勉強してないくせに、こういう言葉だけは覚えてるんだか。
「…Die」
私が禁忌の言葉を解き放った刹那。
ワルサーppkが甲高い叫び声をロビーに響かせた。
トリガーを引いた途端、私の腕にとてつもない衝撃が走る。
「…っあ!!! っ…」
当然だ。11歳の子供、ましてや女の子が何も無しに銃を撃ったら、その反動に華奢な私の腕が耐えられるはずがない。
だが、激痛を無視して私は弾丸の行く末を見ていた。
「無理だ!! この距離じゃ…」
父親はそう言った。だが、私とて適当に撃ったわけじゃない。
そして---
「…Ahhhhhhh!!!?」
命中した。
リーダーの心臓だ。血が噴き出ているのはここからでも容易に分かった。
(…あれ?)
私はその《視力の良さ》に自分自身を疑った。
奴と私の距離はまだ70m強ある。なのに狙った箇所の傷具合、リーダーの驚愕の表情、床に広がる鮮血の模様まで、何も意識せずとも分かっていた。今更、違和感を抱いた。
《右眼》は、まだ少し痛む。だが、それを手で押さえようとするとふっと視力が悪くなる。元々の私の視力に戻っているようだ。
「…」
父親と母親は側から私を驚嘆の目で見ている。だが、父親は満身創痍だし、母親も気を失いかけている。他の客も私を傍観視するだけで何もする気は無さそうだ。
今戦えるのは、私だけ。
リボルバーを回す。残り7発あるのをしっかりと確認する。
「Damm it…!!」
そう叫んだ背の高い男に、私は再び銃口を向け、派手な火を噴かせた。
今度射抜いたのは男の鼻だ。男は何も言えずに仰向けに倒れ、噴水の如く血を撒き散らして即死した。左手から拳銃が零れるのが見えた。
「W…WHAT!!?」
驚嘆の声を上げるその金髪男に、私は再び弾丸を放つ。リズム良く鳴り響く発砲音のテンポを、男の叫び声が滅茶苦茶に崩してくれる。
《眼》は、まだ痛かった。腕だって既に脱臼寸前だ。
---だがそれでも、殺す。
次いで4人目が、派手な赤い噴射器を披露しながら射殺されたころで、サングラスをした別の男が倒れた仲間の銃を奪った。
「Die!!!」
そう言うと彼は、私に一発ぶちかましてきた。金色の弾丸が私の左頬を掠める。
「うっ…」
だが、本当にかすり傷だ。全くの的外れだ。本当にテロしに来たのかと言いたくなるほど、私の何百倍も照準が下手だ。
私を男の顔を《眼》で見てみた。
---ははっ、怯えてるじゃん。
まあ、それもそうだろう。仲間の半分を即死で次々に殺しているのだから。
今の私には、全てが見えている。何も恐れる事は無い。
私は腕の衝撃や傷なんかは全く気にせず、発砲を続けた。私を撃った男と、その手前に佇んでいる太った男を立て続けに殺す。
それは、血祭りだった。
視力が馬鹿げている私には見えた。赤い血液がワインの掛け合いの如く宙を舞う様子、男たちの苦痛に歪む顔。
風穴から晒された鼻腔の筋肉は赤黒さを増し、周りの傍観者は無責任に目を覆う。
グロいなんて生易しいでは表現しきれない。これは一種の地獄絵図だ。
「---殺人って、楽しいね…!!」
当時11歳の私は、そう呟いたらしい。父親が後からそう教えてくれた。
残りは2人。完全に戦意を失ったその顔は、見ていてとても滑稽だった。
「Run away!!」
「O…OK」
そう言って出口へ走り出す弱虫2人組を。
怒り、或いは愉悦に支配されていた私が見逃す訳が無かった。
「じ、えんど……的な?」
そう言って、私は残りの2弾を連発した。弾は吸い込まれるように、二人の男の後頭部を撃ち抜いた。鼻の先端からスプリンクラーのように血が噴き出す様子は、きっと私にしか見えていないのだろう。他の人にはモザイクが掛けられてしまう、私だけが独占できる最高の描写。
弾丸はもう残っていなかった。8発ジャストで彼らを制圧しきった。
「…終わった」
男が血塗れた硝子の扉に激突して倒れたのを確認すると、私は溜め息混じりに後ろへと振り向いた。
敵が殲滅されても、周りの人達は呆然としていた。狂気じみた顔で私を見ていた。父親と母親も含めて。
「大丈夫? お父さん」
私はそう言って寝そべる父親の所へ寄った。が、父親の口から思いもよらない言葉が出た。
「ひぃ!!! く、来るな!!!」
「え?」
私には、それが未知の言語に聞こえた。歩みは止めずに、ワルサーppkを見せながら更に近寄る。
「これはもう弾切れだよ。だから安心し…」
「来るなぁ!!!」
父親のあまりの気迫に、私は足を止めた。
「お父さん…?」
父親は、ひどく怯えていた。よく見ると、すごい汗の量だ。肩の傷が思ったより大きいのかも知れない。
私もまだ《右眼》と両腕が痛むが、もう気にならなかった。
だが、それより---
---目の前にいる《これ》は、本当に父親か?
私が憧れていた、世界の平和を守る警察官の父親なのか?
何だか、情けない顔をしている。
何で?
私はお父さんを助けたんだよ?
私はお父さんみたく、この空港を守ったんだよ?
---なのに、どうしてそんな怯えているの?
私には何故父親がこんな顔をしているのか、どうしても分からなかった。
私はロビーを見渡す。
お土産屋で買った猿の人形は、幼い子供猿だけ行方不明になっていた。




