妖怪に愛された少女
人は誰でも、この世のものではないものを見る力を生まれつき持っている。その力の強さは人それぞれ異なり、はっきりと見える者もいれば時々ぼんやりとだけ見える者も、はたまた全く見えも聞こえも気配すら感じない者もいる。
「遥! お前、そんな格好で木に登るな!」
火と同じ色をした目の青年が木の上にいる少女に声を掛ける。短いスカートの裾からは白い足が覗いている。しかし少女は気にすることもなく、腕に猫を抱きながら彼を見下ろして手を振った。
「下着見えるぞ」
「スパッツ履いてるから別にいいよ」
「すぱっつ? 何だそれは。まぁいい、何にせよはしたないのには変わりないのだからさっさと……」
降りてこい、と彼が続けようとしたとき、彼女は猫を抱えたまま枝から飛んだ。そして彼女は彼の立っている方へ一直線に落ちてくる。彼が目を丸くしている余裕すら奪う速さで。
彼は落ちてくる彼女を受け止めようと腕を伸ばした。彼女はその腕の中にすっぽりと受け止められ、悪戯っ子のように笑いながら、ナイスキャッチ、と言った。その一方で青年は般若面でも貼り付けたかのような顔をした。
「莫迦かお前は! 俺が受け止め損なったら大怪我だぞ、それくらいわかるだろう」
「だってちゃんと受け止めてくれるでしょ?」
彼女は抱きかかえられたまま自慢気に言う。彼は押し黙ってしまい、彼女を地面に降ろした。
「全く、遥も大人になれ。こいつはあんたを心配しているのだから」
少女の腕の中で大人しくしていた猫がしわがれた声で言った。二つに分かれた尻尾をゆらりゆらりと揺らしている。遥、と呼ばれた彼女は、また悪戯な笑みを浮かべてただ一言、知ってる、と青年には聞こえないよう囁いた。彼は人差し指の先を猫又に突きつけて口を開いた。
「俺がこんなのに心配掛けるわけないだろうが!」
「素直じゃないの、流石天邪鬼」
「うるせぇ爺猫」
天邪鬼、と言われた彼は、遥の腕の中におさまる猫又を火の色をした目で睨み付けながら言い捨てる。猫又は猫らしく可愛らしい動きでぷい、とそっぽを向いてしまった。機嫌を損ねそうな猫又に、遥は優しげな声で尋ねた。
「ねぇ猫又さん、どうして木の上なんかにいたの?」
「……あの木をご覧。小さい花が咲いているだろう」
遥と天邪鬼は先程まで一人と一匹がいた木に目を向けた。小さな白い花がいくつか咲いているのが二人の目に映る。しかしその花は、この森ではよく目にするものであり、特別珍しいものではない。二人は訳がわからないと言いたげに首を傾げた。猫又はその二人の様子を見て口を開いた。
「私のご主人が居る池の近くでは見かけない花での。土産に、と思ったらあんな無様なことになってしまったんだよ」
「あの花が欲しいのだな、わかった」
天邪鬼はそう呟くや否や、着物の裾をたくし上げて木に登った。一本の枝の上に座ると持っていた笠に花を入れ始めた。その様子をじっと見ていた遥は何かを思い立ったのだろう、猫又を地面に降ろしてすぐ近くの花を一輪、また一輪と摘んだ。
「何をしている?」
「この辺りの花も摘んで行こう。そうしたらきっと水月さんも喜ぶよ」
「おぉそうだな。天邪鬼、あまり沢山はいらんぞ、遥がいくつか花を摘んでくれているから」
「あぁわかった。じゃあもうそっち行くぜ」
笠を抱えて天邪鬼は枝から飛び降りた。軽やかに着地して、すたすたと遥の下に歩み寄り、彼女のすぐ隣に膝をついた。そっと笠を差し出し、中に入れろ、と素っ気ない声で言う。彼女はその素っ気なさを気にすることなく、人懐こい笑顔を彼にまっすぐと向けて一つ礼を言った。白一色だった笠の中はあっという間に色とりどりに染まった。遥はもう充分かな、と呟いて立ち上がった。
「水月さんの所に行こう。猫又さん、案内してよ。私、道ちゃんと覚えていないから」
「あんたは本当道を覚えない子だな。一体何度ここに来ているんだ」
「天邪鬼がいつも道案内してくれるから覚える必要ないんだもの」
反省の色なんて一切見せずあっけらかんと笑っている。天邪鬼は聞こえていないのか、はたまた聞いていないふりをしているのか、火の色をした目は明後日の方向を見つめていた。
二つに分かれた尻尾を揺らしながら猫又は先頭をのんびりと歩く。すれ違うものは人の形をしたものもいれば異形のものもいくつかいた。人の形をしていても、肉や皮を身につけておらずただの骨であったり、透けていたりするものもいる。しかし遥も誰も驚くことなく、木にもせず通り過ぎて行く。
「遥ちゃん? 今日は猫又さんも一緒かい」
一本の角を生やした青年がにこやかに話し掛ける。遥は足を止めて無邪気な明るい笑顔を向けた。
「はい、今から水月さんの所へ行くんです」
「そうかそうか。きっと水月さんも喜ぶよ」
気をつけてね、と言うと角を生やした青年は彼女たちの行く先とは反対の方向へ歩き出した。遥たちも彼に背を向けて足を進めた。
三つの足音が木々の中で響く。お世辞にも道とは呼べないところを二人と一匹は歩いていた。微かに聞こえる水の音が近付いてくると、猫又はにゃあと一声上げた。
木が揺れて小さな池が木々の隙間から覗いた。小さい岩の上に赤い着物を着た女性が座っており、彼女はちらりとこちらに目を向けた。
「あら……遥ちゃんに天邪鬼。猫又の遊び相手をしてくれたの?」
鈴の転がるような声で彼女が言う。着物の裾からちらりと見える脚の部分は、まるで魚の尾のような形をしており、月と同じ青白い色の鱗をまとっていた。
「水月さん違うよ、猫又さんが遊んでくれたんだよ」
「うちの子に遊ばれたの? だめじゃない猫ちゃん、遥ちゃんは大切にしないと」
もう、と言いつつも猫又の小さな頭を優しく撫でる。猫又は目を細め、喉をごろごろと鳴らして幸せそうだ。
「ご主人、お土産があるんだよ」
「お土産?」
水月が魚によく似た尾を水の中でゆらりと動かして目を輝かせる。その瞬間、天邪鬼は笠の中身を池の水面に振り撒いた。透明で空の色を映し出していた水面は、たちまち色とりどりに変わった。水月はその水面を見ると感嘆の声をあげた。
「わぁ、素敵!」
嬉しそうにそういうと、池の中に滑り込んだ。花々の隙間からちらりちらりと見える赤い着物は、綺麗に着飾る金魚のようだった。ぱしゃ、と音を立てて彼女が水面から顔を出す。綺麗な髪に、白い頬に花びらをのせたまま水月は美しく笑ってみせた。
「水の中から見てもとっても綺麗だったわ。素敵なお土産ありがとう」
遥と天邪鬼のすぐ傍まで泳いでくると二人の頬に口付けを落とした。遥は照れたように笑って彼女の白い頬に唇を寄せ、天邪鬼は礼には及ばない、と言って彼女の頭を撫でた。
「そういえば、隣町の神社にいる烏天狗がこっちへ遊びに来ているって話を聞いたわ。会いに行ったら?」
「烏天狗が? 少し前は閉じ籠って塞ぎ込んでいたくせに」
「烏天狗って……?」
「会えばわかる。悪戯が好きな変な野郎だ」
行くぞ、と遥の手を取り歩き出す。遥は顔だけをこちらに向けて、またね、と言って彼に手を引かれるまま歩いて行った。
水月は再び岩の上に腰掛けて遠のいて行く二つの影を見つめていた。そして不意に形の良い唇が開かれた。
「またね、ねぇ」
「あの子は知らんだろうな。知ったらどうなるか」
「大丈夫よ。あの子はもう大人になるのだから。年寄りの心配なんて必要ないわ」
「ご主人は年寄りなんかではないだろうに」
「あら、妖怪から見たらもういい歳よ? まぁ人魚の中ではまだまだ若いけどね」
水月は妖艶な笑みを浮かべながら楽しそうに話す。猫又もその満足気な笑みを見て薄い笑顔を浮かべた。
二つの足音は森の奥深くへと進んで行く。静まり返った木々の合間を二つの微かな話し声と草や枝を踏む音だけが小さく響いていた。
「どこに行くの?」
「白狐様の元だ。たぶん社にいるだろう」
「白狐様?」
「あぁ、この辺りを守っているんだ。きっと烏天狗は白狐様の所にいるだろうからな」
「社ってどこにあるの?」
「そこの小高い丘の上にある。そう遠くはない」
天邪鬼は遥の歩く速さに合わせて少し速度を落としている。倒れた木や段差があると、彼は一々手を貸して、まるで大切な姫君を守るかのように振る舞った。
二つの影は仲良さげに並んで歩く。まるで道標のように咲く花を辿って歩き続けていると二人は一つの社の前に着いた。辺り一面には花が咲き誇っている。
「白狐様はお留守みたいだな」
「そうなんだよ。私も白狐に話があって来たのにのぅ。どこにいるのか」
突然彼らの背後から声がした。二人が驚いて振り返ると、そこには修験者のような服に身を包み、天狗の面をつけた男が立っていた。背中の黒い羽は風でふわりふわりと揺れている。
「ほぉ、君もあの子がたまに着ているものと同じような変わった服を着ておるの。何と言ったか、えぇっと……」
「洋服のことですか?」
「そうそれだ。歳をとるとどうも忘れっぽくなる。……して、人の子。名は何と言う?」
「おい烏天狗。この子を隠すつもりか」
「あ、いや悪かった、そんなつもりはない。すまんな人の子、悪気はないんだ」
天狗面の彼はあたふたとしながら遥の顔を覗き込んだ。すまない、と申し訳なさそうな声で何度も謝る彼を見て、遥までも困ったように眉を下げた。そして天邪鬼を見上げて助けを求めるような視線を投げ掛けた。天邪鬼は一つ溜息を吐いて烏天狗の頭を強引に上げさせた。
「困っているだろう」
「いやでも、本当に悪いことをした。お前の想い人に名を尋ねるなんて」
「想い人じゃない」
「ねぇ天邪鬼、どうして名を尋ねてはいけないの?」
遥は幼い子がするように天邪鬼に疑問を投げ掛けた。天邪鬼も烏天狗も驚いたように彼女を見下ろす。しかし遥はきょとんとした顔で彼らを見上げるだけだった。
「神に名を知られては神隠しにあう可能性が高くなるからな。もし私が君の名を知っていれば簡単に隠せてしまうでの」
「だから教えてはならないんだ。いいか、神には名乗るなよ」
絶対だ、と天邪鬼が念を押すと遥はこくこくと頷いた。烏天狗は、人の子は聞き分けがいいの、と声を跳ねらせた。
「さて、と。月も顔を出し始めた。私はそろそろこの辺りをちゃんと探すとしよう」
「俺はこの子を途中まで送るから手伝わないぞ」
「あぁそうだな、この時間帯は独りにしたら危ない。人の子、気をつけて帰りなされ」
「はい。烏天狗さん、またいつか」
遥はそう言うと天邪鬼の後ろをついて行く。烏天狗は一瞬戸惑うように動きを止めたが、すぐに明るく笑いながら、またな、と手を振った。そして木々の隙間に消えていく二つの影を眺めながら口を開いた。
「白狐、あいつも他の子も皆あの娘を慕っておる。手を貸してやったらどうだ」
「あのお嬢さんの自由を奪うなんてことをしたら天邪鬼に祟り殺される」
小さい社の小さい屋根の上、一匹の狐は毛づくろいをしながらぽつりと告げた。
「まぁ、天邪鬼が望むのならば手は貸すけども」
「私があいつの立場ならば隠すかもしれないな」
「残されている時間はほんの少しだ。我々老いぼれは見守るしかない」
「老いぼれとは失礼な。一緒にするな」
烏天狗は腕を組んで不満気に言う。しかし白狐に何の用だ、と尋ねられると彼は嬉しそうな声で一人の少女のことを話し始めた。白狐は一方的に話し出した烏天狗の言葉一つ一つに相槌を打って大人しく聞いていた。
天邪鬼と遥は森の入り口までおりてきた。石畳の細い道の先は小さな町へと続いている。遥の足が石畳に触れる直前、天邪鬼は彼女の腕を掴んだ。すると遥はくるりと振り返り、何、と尋ねた。しかし天邪鬼は俯いたまま、黙り込んでいる。遥は不安そうに眉を下げて彼の顔を覗き込み、彼の頬に触れた。はっとした顔をして天邪鬼は彼女に視線を向けた。
「どうしたの、ぼうっとして」
「一つ、頼みがあるんだ」
「頼み?」
「そう、明日で構わない。紙と筆のような……何かものを書くことのできる物を持ってきてほしい」
「わかった、持ってくるね。じゃあまた明日」
細い腕は天邪鬼の手からするりと抜け出た。明るい笑顔を浮かべて遥は手を振る。天邪鬼も手をあげて、まるで猫でも追い返すようにしっしと追い払った。その動作を気にすることもなく、遥はスカートの裾をひらりと揺らしながら歩いて行った。天邪鬼は小さくなっていく彼女の背中に小さく手を振ると、彼女の向かった方向とは逆の方へと歩き出した。
妖怪や異形のものは先程遥と一緒に歩いていたときよりも多く、楽しそうに騒いで行き来している。その中、天邪鬼は一人で歩いていた。屋台の立ち並ぶ通りを抜けて木々の隙間を縫うように歩いていると、一つの池が見えてきた。
「どうしたの。何か忘れ物?」
「水月さんに、話したいことがあって」
「あらあら素直なこともあるのね。話してごらんなさいな」
花びらを浮かべた池の中、岩に腰掛けた女性は優しく微笑んで天邪鬼を見上げた。天邪鬼は池のすぐ近くに腰を下ろした。しかし彼は口を紡ぎ、黙りこくっている。
「……遥ちゃんのこと? いいじゃない、隠しちゃえば。私たち誰もが歓迎するわ」
「俺の我儘はあいつを困らせる。それどころか不幸にさせるかもしれない」
彼は俯いたまま、悲しそうな声で言う。膝の上に乗せられた手は固く拳を作っていた。思いつめたような顔をしている天邪鬼の隣に近づいてくると水月はその手を優しく撫でた。
「閉鎖された森の奥深くで生まれた人魚も幸せよ。不自由が不幸とは限らない。まぁ、遥ちゃん自身に聞いてみるのもいいかもしれないわ」
「……そうだな、わかった」
彼の思いつめたような表情が少しだけ軽くなった。それを見た水月は安心したように微笑んで、じゃあまたね、と手を振って水の中へと潜っていった。天邪鬼は一言、じゃあな、とだけ呟くと、仏頂面のまま立ち上がり、どこかへ歩き出した。
翌日の昼過ぎ、遥はいつもの通り森の奥へと向かっていた。石畳の道が途切れた先に足を踏み入れ、奥へ奥へと進んでいく。通り過ぎる妖怪たちは誰も彼も優しい声で彼女に話し掛ける。今日はどこに行くの、天邪鬼はどうしたの、とまるで迷子を扱うかのようだ。
「今から天邪鬼を探しに行くんです」
遥は明るい笑顔を浮かべて言った。すると妖怪たちは、天邪鬼はあっちかも、こっちかも、と丁寧に教えてくれた。一つ一つを丁寧に聞き、じゃあ探してきます、と遥は再び歩き出した。
どこまで歩いても木々が並ぶだけの似たような景色。遥はあちらこちらにふらふらとしながらも一本の高い木のすぐ下に辿り着いた。そしてその木を見上げ、息を吸い込んだ。
「天邪鬼ー!」
木のてっぺんまで突き抜けるような声で叫ぶと、葉の揺れる音と一緒に笠を頭に乗せた影が降りてきた。遥の目の前に着地すると腕を組んで彼女を見据えた。
「よくここまで来れたな」
「皆が教えてくれたんだよ」
遥は嬉しそうに笑って言う。天邪鬼はそうか、と呟いただけだった。しかしすぐにいつもの調子で、遊びに行こうか、と歩き出した。遥は少し不安気な表情を浮かべながらもその後ろをついて歩き出した。
二つの影はすぐに楽しそうに喋りながら森の中を歩き始めた。のんびりと歩きながらあちらこちらへと寄り道をしている。一つ目小僧や唐傘小僧と追いかけっこしたり、地蔵の下に備えられた菓子を三人でつまみながらのんびりと話をしたりと楽しそうだ。
「遥、こっちだ」
天邪鬼が明るい声で彼女を呼ぶ。遥は横たわる大木を越えようとしながら天邪鬼の背中を必死で追おうとしている。やっとのことで木を越えると、天邪鬼は腰に手を当てて溜息を吐いた。
「こっちの道から来たのは間違いだったか。人間は力がないのを忘れていた」
「私は特にないの!」
「木には登れる野生児なのにな」
からかうように笑うと遥は頬を膨らませた。拗ねた顔をしている遥に歩み寄ると、天邪鬼は彼女に背を向けてかがんだ。
「乗れ。お前のろま過ぎて着く頃には夜更けになる」
「また意地悪言う! でも、ありがとう」
遥はそう言うと彼の背中に乗った。軽くて暖かな重みが彼の背中に乗ると、彼はそれを落とさないように慎重に歩き出した。なんだかんだと言いながらも丁寧に扱ってくれることが嬉しいのか、遥は幸せそうに微笑んでいた。
天邪鬼は遥を背負ったまま、あちこちに障害のある道を軽く飛び越えて行く。すると一つの小さな社が彼らの目に映った。天邪鬼はその社の前で遥をそっと降ろした。
「あれ、これは昨日の、えっと……」
「白狐様の社だ。……で、頼んだものは」
「これでいいの? というかこの量で足りる?」
遥は袋に入れたままの数枚の紙と数本のペンを天邪鬼に手渡した。天邪鬼はそれを受け取ると、ペンと眺めた。
「充分だ。それにしてもこれは変わった筆だな。どう使うんだ?」
物珍しそうに手の中のペンを眺めながら遥に問う。遥が隣に立ってペンの使い方を教えると、彼は目を輝かせていた。
天邪鬼は一つ礼を言うと、ペンと紙を大切そうに抱いた。遥が何に使うの、と尋ねようとしたときだった。
「聞きたいことがあるんだ」
天邪鬼が言うと遥は彼の顔を見た。彼の目は本当に火が入っているかのようにゆらゆらと揺れている。遥は問おうとしたことを引っ込め、いいよ、と柔らかい声で言った。
「神隠しの話を昨日しただろう」
「うん。人を天邪鬼たちや神様たちの世界につれて行くことでしょ? それがどうしたの」
「……こちらの世界に来る気はないか?」
彼は夕陽を背負って彼女に問う。遥は戸惑うように目を泳がせた。
「私を、神隠しするの?」
「お前が望まないならやらない。……それに俺は隠したくないんだ。お前の自由を奪うことになる」
目を泳がせる遥の両頬を包むように手を添え、優しいけども芯のあるはっきりとした声で告げる。遥は天邪鬼をまっすぐと見上げて笑みを浮かべると、彼の首に腕をまわした。今度は天邪鬼が目を点にし、戸惑うようにうろうろと視線を泳がせた。
「天邪鬼ってば変なの。天邪鬼が嫌なら隠さなければいいのに」
「……お前は、どうしたい?」
「私は隠す必要なんてないと思うよ。だって私、毎日来るから」
だからいいよ、と言って遥は笑った。天邪鬼は一瞬複雑そうな顔をしたが、すぐに仏頂面に戻って、それもそうか、と呟いた。
陽が傾き、月がのぼりかけている。天邪鬼は頬から手を離し、彼女の頭を撫でる。そろそろ帰ろうか、と天邪鬼は遥の手を引いて歩き出した。
「ねぇ、どうして急にあんなことを聞いたの?」
「何となくだ」
「……隠さないといけない理由があるの?」
「そんなものない。神隠しなんて、神や俺らの我儘でしかないのだからな」
冷たくも聞こえる言葉を紡ぐが、その声はどこか優しげだ。花の道標を二人は辿り、森の入り口へと向かう。途切れた石畳に辿り着くと、天邪鬼はするりと手を放した。遥は彼を見上げると、いつもの明るく眩しい笑顔を彼に向けた。そしてつい先程まで天邪鬼と繋いでいた手をひらひらと振った。
「じゃあまたね、天邪鬼」
「……またな、遥」
天邪鬼がひらりと手を振り返ると、遥はより一層明るい笑顔を浮かべて大きく手を振り、彼に背を向けて歩き出した。天邪鬼はその背中をじっと見つめ、震えた溜息を吐いた。そして踵を返し、彼は再び花を辿って小高い丘へと足を進める。社のすぐ近くに白い狐が座っていた。
「君は素直にものを言う天邪鬼だね。人の子をからかわない天邪鬼は珍しいと思うよ」
「意地悪を言うとあの子が拗ねるんです。すごく面倒臭い」
「そうかい。でも少しだけ嘘吐きなのは名残り? あの子を隠す理由はあるし、また会うことなんてできないのに」
白狐は優しいが責めるような口調で言う。すると天邪鬼は陽の色をした目を細めて笑った。
「あの子は莫迦みたいに走り回っている方が似合う。こんな森の深くで閉じ込めてしまっては勿体ないです。それに白狐様、あの子が忘れない限り何度だって会えます」
丁寧な口調でそう言うと、彼はあの少女から受け取ったいくつかの紙とペンを白狐に見せた。白狐はそれをじっと見て黙り込む。やがて一つの答えに辿り着いた。
「文でも書くのか」
「そうです。あの子が大人になったからと言って俺らとのことを忘れるわけではない。ただ、俺らを見ることも触れることもできなくなるだけですから。文のやりとりなら、きっとできるでしょう」
「ほぉ……よく考えたね」
まるで子供を褒めるかのように白狐が言うと天邪鬼は得意気に笑った。その笑顔はあの少女の浮かべていた笑みとよく似ていた。しかし天邪鬼はその笑顔をすぐに消して真面目な声で、頼み事があります、と白狐の耳に口を寄せた。誰にも聞こえないような声で告げ、彼は顔色を窺うかのように白狐を見つめる。仕方ないね、と言いたげに目を向けると、彼は嬉しそうに微笑んで一つ礼を言った。
天邪鬼は、それでは失礼します、と言うとふわりと姿を消した。白狐は一つ欠伸をすると社の小さな屋根の上に飛び乗って丸くなった。白い月は小さな狐を優しく照らしていた。
いつもと変わらない日、いつもと同じように少女は石畳の途切れた先を歩いていた。周りは風が木を揺らす音しかせず、気味が悪いくらい静かだ。少女は時々、天邪鬼、と名を呼ぶ。しかしそれに答える声は彼女の耳に入らない。うろうろと彷徨う少女の足元に一匹の猫が現れた。
「……猫又さん? あれ、でも尻尾が」
彼女がかがむと、猫はにゃあ、と誘うように一声鳴いて歩き出した。少女は慌ててその後ろを追うように走り出した。
猫の背を負ってしばらく走っていると、足元に見慣れた花が道標のように咲いていた。猫はその花にすり、と頬を寄せて一声鳴くと消えてしまった。呆然としていると一羽の烏がこちらだと言うように彼女の横を通り過ぎる。優しい風が彼女の背中を押した。彼女は誘われるまま小高い丘をのぼった。小さな社がぽつりと置かれている。柔らかそうな草や花の中に一つの影が立っているのが微かに見えた。
「天邪鬼?」
その人影が立っていたかのように見えた先には誰もおらず、ただ一つ石の上に紙が乗せられていた。その上には重りとして小さな石が座っている。少女はそれに近づいて紙を見る。そこには彼女の名が書かれていた。そっと開いて目を通すと、彼女の目からは涙が溢れ出した。
「嘘でしょう、こんなの……」
「嘘じゃない。本当のことだ」
独り言に一つの影が返事をする。ぱっと顔を上げると遥の目の前には天邪鬼が膝をついていた。
「お前はもう大人になる。そうだろう? 大人になれば俺らのことは見えなくなってしまう」
「でも、見えているよ」
「白狐様に無理を言った。……遥、一つだけ俺を我儘を聞いてほしい」
遥の頬に伝う涙を優しく拭いながら天邪鬼が言う。涙は止まらず流れるばかりだが、遥はこくりと頷いた。
「毎日でなくとも良い。俺と、俺らと、こうして文を交わしてくれ。そちらにあるものならお前は見ることができるから、こうすれば形は違えど一緒にいられる。……嫌なら断ってくれよ、俺のただの我儘だ」
「じゃあ私も我儘言うね。絶対手紙書くから、ちゃんとお返事書いてね」
遥がそう言うと天邪鬼は頷いた。そして消え入りそうな声でまたな、と呟くと天邪鬼は消えてしまった。遥は服の裾で涙を拭うと手紙を大切そうに抱きしめ、またね、と言ってその場を立ち去った。
ある日の夕暮れ、森はわいわいとにぎやかだった。しかしそれが聞こえていない少女はあちらこちらへとうろうろしており、目的地から程遠い場所を彷徨っていた。その様子を木の上から眺めていた一つの影は溜息を吐くと、紙に何かを書き、その少女の頭を目がけて投げつけた。少女はそれを拾い上げて開く。そこには「何度来れば道を覚えるんだ阿呆」とだけ書かれていた。すると少女は紙の飛んできた方を見上げて口を開いた。
「そこにいるなら案内してよ! 道標の花積んだの、どうせ天邪鬼でしょ、意地悪!」
一つの影は、はいはい、と返事をしながら木から飛び降りた。そして手を取ると天邪鬼はその手を引いて歩き出した。文句を言いながらも二つの影は仲良さげに、楽しそうに歩いて行った。