9
歩くこと約二分。
幾度の分かれ道があったがアイサは周到に目印を付けていたようで、迷うようなミスはしなかった。
そして、見えてきたのは金属質の壁に空く大きな洞穴だった。リコはぎょっとする。
恐らくそれは魔族の巣だろう。その穴のサイズからするに大型の魔族が出入りするようなものと見受けられる。それも重厚な壁に穴を空けるような突破力を持つような魔族のだ。
もしそれを理解せずに利用しているのだとして、みすみす帰ってきた魔族と鉢合わせたら、それこそ最悪のシナリオが待っている。
「マルコ、戻ったよ」
「早かったな。よく戻ってきた」
しかし、次にはそんな心配をした自分が馬鹿だとわかった。
「ん?その子はどうした?」
迎えに出たのは一人の男だった。鈍色のスケイルアーマーの下からでも分かるくらいに鍛え抜かれた肉体は並みの魔族になら力負けしないであろうと断言できる重厚さを持っている。
ポマードで纏めた金髪からはダンジョン攻略の最中とは思えないくらいの清潔感に溢れており、顔立ちも若いながら長年の冒険者としての貫禄に溢れていた。
「酷い怪我だな。今すぐ治療が必要だ。アイサ奥に運んでくれ」
アイサは頷き、リコを洞穴の奥へと連れて行く。そこでリコは目を疑うようなものを見た。
全長五メートルはくだらないであろう甲殻類のザリガニに近い外見をしているそれは、両腕には巨大な掘削機のような鋏を携え、尾には針山のような棘を持っている。
それが群れをなして洞穴の中を埋め尽くさんばかりに積み重なっていたのだ。
恐らく階級的にはA級下位。コレクション持ちでも足下を掬われかねないレベルの魔族だ。
だがリコが驚いたのはそんなことではない。
そのザリガニの魔族の瞳に一切の生気はなかった。全ての魔族が完全に生命活動を止めていたのだ。
赤紫色の装甲を粉々にされ、徹底的に破壊されている者もいたが、その殆どは急所を見極められ、一撃の元絶命させられている。
見事な手際と認めざるを得ない。
(いったい誰が…?)
まさかと思いリコは入口の方角を振り返った。
見張りをしているマルコと呼ばれた男をジッと見る。
(あの人がやったの……?まさかね……)
この数を相手取ったにしては一切疲弊していない上、装備の清潔感からして彼ではなさそうだ。
アイサでもないだろう。死体の傷に対して先程見せたアイサの戦闘スタイルと映し合わせても、これをヤったのがアイサというには自分の中で納得出来るものではなかった。
「傷は痛む?」
「うん、少しね。でもアイサが助けてくれなかったらもっと酷いことになってたかも」
出来ることなら今すぐにでも超速再生能力を行使し傷を完治させ、このお姫様だっこという悪夢のような状態から抜け出したいものであった。
だが、内臓の一部が負傷し、魔力の制御もままならない今は簡単な魔法の行使すら出来ないでいる。
恥ずかしさで死にそうだ。こんな情けない状態、本当ならあっていいはずがないのだから。
アイサが洞窟の奥に進んで行くに連れ、明かりも絶え、気温も低下していき、ひんやりとした空気が肌を撫でていく。
まるでダンジョンからは隔離された空間に迷い込んだかのようで、底知れぬ不安があったが進むに連れ、明かりが見えてきて、それもすぐに収まった。
周囲の景色もうっすらと見えるようになってくると、辺り一面には先程のザリガニの魔族のものと思わしき甲殻が散乱している。
使い捨ての蛍光ランプに身を寄せる人影が一人、此方に気付くや気さくに話し掛けてきた。
「おぉうアイサ、随分早いお帰りじゃないの。その分だと食糧調達も順調……」
飴色のサングラス越しに視線がリコと絡み合った。男は言葉を詰まらせる。
「あ~……アイサよ、残念だが俺は人型の魔族は喰わないんだ。すまないなぁ」
「この子は同業者だよ。怪我をしていたから連れて来たの」
「同業者って……おいおいマジかよ。今の御時世、こんなガキまでダンジョン入んのか?」
男は立ち上がり、アイサの前で歩み寄り、リコに視線を落とす。
くすんだ茶髪、十字架のピアス、黒のカーゴパンツ、上に着ている黒のジャケットには『C&C』という赤の刺繍があしらわれていた。先程のマルコ程ではないにしろ、筋肉質な肉体からはどこか威圧するような雰囲気を放っている。ただ、その風貌からはどこかの蛮族又は遊び人という印象を受けがちだった。
男はリコを品定めするように眺め回し、プッと嘲笑するように息を吐いた。
「うちの娘と変わんねえくらいじゃねえかよ!よく此処まで来れたもんだぜ?」
ムッとリコは眉を顰め男を睨み付ける。見かねてアイサが口を挟んだ。
「とりあえず、傷の手当てを急いだ方がいいみたいだね」
地に降ろされ、ようやくお姫様だっこの呪縛から解放され、リコは心の内で安堵の息を吐いた。
敷いたタオルの上に寝かせられると、コートのファスナーを下ろされ、下着を捲られると、痛々しい傷口が顔を見せた。
「うわっ……これでよく死ななかったな」
「少し黙っててトリート」
そこで初めて男の名前を知った。トリート、聞いたことのない名だ。そもそも冒険者個人で名が通ることは少ない。それはダンジョン攻略を一人で遂行できる人間はまず希少なものだからだ。ダンジョンの危険度を知っているなら団体での攻略が望ましいのは冒険者なら誰もが知っている。だから個人でのダンジョン攻略なんてするのは余程腕に自信のある者か、或いはただの愚者かだ。
それこそダンジョンを人類で初めて攻略した聖騎士団の総帥の名は冒険者であれば知らない者はいないくらいであるが、殆どの場合、団体で名を上げていってるのが現状だ。
「でも確かにこれは酷いね」
見れば鳩尾の辺りから腹部に掛けて、巨大な三本の爪跡が抉るように刻み込まれていた。
「大した生命力だぜ」
感心するようにトリートは顎に手を当てる。生命力もだが、リコの佇まいにもトリートは目を見張った。
こんな深い傷を受けて泣き言一つ漏らさない辺り、彼も一人の冒険者なのだと。
「まずは消毒からだね」
傷の具合を見ながらアイサは置いてあったバッグから一本の瓶を取り出した。栓を抜くと鼻にスッとくる清涼感が駆け巡り、それがアルコールの類だと理解する。
「ちょっと染みるかもしれないけど、我慢してね」
同じく取り出したガーゼに液体を染み込ませると即座に傷口に押し付ける。
「いっ……!ッ……!」
脳が焼き切れそうな痛みが襲い掛かる。溜まらず声が漏れるもリコはぎゅっと唇を噤んで必死にその痛みに耐える。
アイサがガーゼを動かす度にリコは苦悶の声を上げそうになり、拳を握り締めたり、足の爪先をピンと反らせたりして気を逸らし続けた。気付けば信じられない程の汗が溢れていた。体は火照りきり、消毒が終わる頃には息も絶え絶えになっていて、粗い呼吸を何度も繰り返していた。
「はいお終い。よく頑張ったね」
その後、治療を一通り終えるとアイサは汗を拭い、心なしか優しげな表情を作るアイサにドキッとさせられる。
「ら、楽勝だよ」
見栄を張っているのは明らかだったが、それでも弱音一つ溢さないのは大したものだとアイサもトリートも感嘆の息を吐いた。
「起きれる?」
手を差し出されると、リコは首肯し、アイサの手をしっかりと握り締めた。
アイサの手は温かく、人の温もりは孤独な少年にとって久しいものだった。細くしなやかで真っ白な手をしていた。ずっとこの手を握っていたいとすら思ったが、ぐいっと釣り上げられるように引き上げられるとあえなくその繋がりは引き裂かれた。
「うん、平気そうだね」
「まぁね」
コートに袖を通しながらリコは身体の具合を確かめる。すっかり回復していて、今すぐにでも動けそうだ。脚の方も回復がもう少し早かったなら、あんなハイエナなんかに後れを取ることなんて決してなかった筈だ。
「よしよし、お子様の手当ても済んだみたいだし、俺は飯の続きをさせてもらうぜ」
そうしてトリートが手に取ったのはぎっしりと身の詰まった朱色の甲殻だった。円筒形のそれは恐らく脚の部位なのだろう。中の身は赤紫色の体液が滴っていたが、全体的に白く、蟹の身に近いものに見える。
「それって入口に積み重ねてた魔族だよね?」
リコはやや嫌悪感を催しながらトリートに問い掛けると、トリートはじゅるじゅると中身を吸い出し、身を咀嚼しながら答える。
「おう、それ以外に何かあるか?」
「魔族の肉なんて食べて美味しいものなの?」
するとトリートは咀嚼物を喉の奥に押し込むようにして飲み込むと、信じられないものを見るような目でリコを見つめる。
「まさかお前食ったことないのか!?」
リコは迷わず首を縦に振った。魔族なんてダンジョンにおいて邪魔者という認識しかない上、そもそも見た目がどれもグロテスクなものばかりだ。それを食の対象として見るには少し抵抗があった。
トリートは「かぁ~」と呻き、額に手を当てやれやれと緩く首を振った。
「お前ダンジョン攻略初めてか?」
「いや、何回かはあるよ」
「そこで殺してきた魔族は皆ほったらかしにしてきたと?」
「うん、だって不味そうだったし……」
現に今トリートが手にしている魔族の身も、進んで食べたいという気にはなれないでいる。
「よしわかった」
そう言ってトリートはむんずと別の魔族の身を持ち出し、リコに差し出した。
「百聞は一見に如かず。道中で狩った角兎の肉だ。これ食ってから判断しな」
リコはその魔族の肉を受け取ると、くるりと手元で回して肉の具合を見る。
角兎、二度目のダンジョン攻略で遭遇した記憶がある。薄赤色の毛並みと一角のような角を除けばそれこそよく知る兎だったが愛くるしい容姿に騙され近付いたところで本性を表し見るも禍々しい姿で襲いかかってきたのがややトラウマになっている。
角兎の肉は綺麗にカットされていて、それこそ言われなければ魔族の肉とはわからないだろう。臭みは香辛料で消しているようで獣型魔族特有の臭みは消えていた。
火は通っていたが程良く赤身が残っていて、適度に脂の乗った身がリコの食欲をそそる。
気付けば口内は唾液が溢れかえっていた。ごくりと唾を飲み込み、一気にその肉にかぶりついた。
一瞬くらりと脳が揺さぶられたような錯覚が起きた。小さな身に凝縮された旨味、脂身の甘みと肉本来の微かな甘みと赤身に残った血の酸味が見事な調和を果たし、その味をぴしゃりと引き締めているのが香辛料だ。ピリッとした後味が更なる食欲をそそらせる。
リコは何度も口の中の肉を噛み締めて、ただひたすら噛み、液体になって口内からなくなってしまうまで噛むと初めて咀嚼物が喉を通った。
すっかり夢中になってリコは手元に残っていた角兎の肉を一口で口の中に納めた。
その様を見ているトリートはアイサと顔を見合わせ、にんまりと笑みを浮かべた。
どれだけ強がってもまだ彼が子供なのだと改めて認識させられたからだ。
漸く肉を完食したリコは視線をトリートに合わせる。その眼には新たな発見をしたときによく見られる感動の輝きを溢れさせていた。
「これ……もっと食べたい!」
「残念ながら角兎の肉は今ので品切れだ」
「じゃあそれ!それ食べたい!」
すると今度はトリートの持つ蟹の脚を指差した。最初こそ嫌悪感を覚えたそれも角兎を食べた後のリコには未知の味を持つ食材へと変貌していた。
「悪魔海老か?はっきり言ってこれは角兎程のもんじゃないが……」
「それでもいいから!」
少年からしてみれば今は美味いか不味いかというのは思慮に入っていないらしい。ただただ好奇心に身を任せるだけの子供のようだ。
「そんなに食いてえなら、入口に嫌という程転がってんだろ?そっから好きな部位を好きなだけ取って来いよ」
するとリコは大きく頷き、立ち上がり、くるりと二人に背を向けた。さっきまでの重傷を負った少年はどこへ行ったのか、既にリコの体調は万全近くまで回復していた。
だがリコが歩き出そうとした手前、洞窟の入口方面からこちらに向かってくる人の気配を感じ足を止める。
アイサがちらと横目でその人物を見やり口を開く。
「入口の番はおしまい?マルコ」
ランプの明かりに照らされ、姿を見せたのは先程も顔を合わせたマルコと呼ばれる男だった。
「少々腹が空いてね。そういえば君、怪我はもう大丈夫なのかい?」
と、首を下に傾けリコを見下ろす。
身長差が凄まじい為仕方ないことだが見下ろされるのは気分の良いものでもない。
リコは唇をツンと尖らせ「大丈夫ですよ」と答えた。
マルコは爽やかな笑みを作り、ランプの前で腰を下ろした。
「君のような子供が冒険者とは……世界も広いな」
マルコの笑みの中には哀切そうな表情が垣間見えた。
「ダンジョン攻略自体は好きだから、あなたが気にすることはないですよ」
「そうか……ならいいんだが。挨拶がまだだったな。私はマルコ、マルコ・ヴァンシールドだ。よろしく頼む」
「僕はリコ。手厚い看病、とても感謝してます」
「冒険者同士、協力は必要なものさ。そんなに畏まる必要はないさ。その方が直ぐに打ち解けられる」
「じゃあ……ありがとうマルコ」
がっちりと握手が結ばれ、新たな冒険者の知り合いが出来た。が、自分が不法にダンジョンに入っていると知られたら彼等はどんな反応を示すのか。考えたら不安だった。
「さて、怪我人には精の付くものを食べさせねばな」
マルコはそう言って背に抱えていた大量の悪魔海老の身を三人が作る輪の中央にドンと投げ降ろした。四人では到底食べきれそうにない量だったが、それこそ何故だか食べ残しは出ないだろうとアイサは何となく予想出来た。
「入口のは全て私が仕留めたのだが……いかんせん食欲旺盛な奴の所為でこれだけしか残ってなくてな」
ん?とリコは眉宇に皺を寄せ、マルコを見やった。果たして彼は自分の言葉の異常さに気付いているのだろうか。悪く見積もっても悪魔海老の階級はB級上位、個体によってはA級下位に届くだろう。
その集団を一人で狩るというのはそれこそ大規模な魔力を必要とする魔術や魔王のコレクションに他ならない。
だが、冒険者の中でマルコ・ヴァンシールドという名前も耳にしたことはない。
気になる。
リコの興味が悪魔海老からマルコに移り変わろうとしていた。しかし、次にマルコが悪魔海老の身を大口で頬張るのを見ると一気に興味は悪魔海老に引き戻された。
「おっ、味噌はなかなかの珍味だな」
聞いてばかりもいられないとリコは悪魔海老の身を一握り程手に取り、取りこぼさないように口に運んだ。
するとどうだ。口の中から火があがったような錯覚が起きた。
「か……辛~~~ッ」
体全身が燃え上がるような辛さだ。傷口まで痛みだしそうなぐらいにその身は辛く、辛く、とても辛かった。
「なんでこいつが悪魔海老って呼ばれるかわかったか?」
正面でトリートが小憎たらしく腹を抱えて爆笑していた。
リコは必死に息を吐いては吸って、その非情なまでの辛さに耐える。
「こいつの体液はよ。日々口にしているある植物の成分がモロに反映されてんだ。それがこの辛味ってわけよ。勉強になったなぁ坊ちゃん」
水筒を手渡しながらトリートは尚も笑いを堪えるのに精一杯だった。
コップに注いだ水を飲み干すと他の二人に視線を送る。
マルコはさも美味しそうに、それこそ甘美な味をもつ本来のロブスターを食べるようなくらい美味しそうに食べている。
アイサはほぼ無反応と言っていい。ただ彼女に関しては何を食べさせても同じだろう。
トリートは先程から何事もないようにその汁を啜っては身を貪っている。
「まっ、お子様にはまだ早かったって話よ」
挑発的なトリートの発言はリコの闘志に火を付けた。
一度に大量の悪魔海老の身を鷲掴みで取るとそれをあろうことか一度に口に放り込んでしまった。
トリートも流石に度肝を抜かれたような表情だった。
あまりの辛さに涙目になってしまっていたリコは「どうだ!」と言わんばかりにトリートを睨み付ける。
「あーはいはい。お前は大したもんだよ。なんだったっけ……そう、リコだ」
別段勝負していたわけでもなかったが何だか胸がスカッとして勝ち誇るような気持ちを持てた。
すると、話を切り替えるようにトリートはアイサに視線を合わせる。
「そういえばアイサ。君の食糧調達の方はどうだったんだ?」
アイサは無言のまま腰の巾着を漁ると小さな小包を取り出し、四人の輪の中に置いた。封を解くと、中からは奇妙な斑模様を浮かばせた卵が四つ、丁度人数分だ。
「図鑑で見たことがあったから。多分バジリコックの卵」
トリートが歓喜に手を叩く。今にも卵に飛びかかって生のままでも食ってしまいそうなぐらいに舌なめずりし、ギラギラとした視線を卵に送る。あまりの眼力に卵に穴が空きそうだ。
マルコも興味を惹かれ、顔を近付けて卵を観察する。
「バジリコックの卵か、初めて目にするな。親はいなかったのか?」
「いなかった。だから無傷で取ってこれた」
バジリコックの成体の階級はA級上位、瞳から放たれる魔術は岩を砕き、木を枯らし、人間を一睨みで死に至らしめると言われる。更に強靭な剛毛による防御力、鉄をも溶かす火炎弾により、並の冒険者達はもとより、一人ではまず戦うべき相手ではない。
それにしてもアイサの口調は淡々としたものだった。初めて会った時からそうだがアイサの態度はどこか不思議なところがある。元からああなのか。それとも何かきっかけがあったのか。それを知る由はないが。
「よくやったぜアイサァ!それで調理法だが、どうすっか―――」
「目玉焼き」
トリートが言い切る前にアイサは既に結論を出していた。
「ちょ、ちょっと待てよアイサ。せっかくの食材だぜ?それなのに――――」
「それ以外なら食べたくないし、食べさせない」
「食材の味を楽しみたいのなら他に色々――――」
「目玉焼き」
引く気もないらしいし、立場的にも決定権はアイサにあった。
トリートもそこまで意固地になることもなくへいへいと手をひらひらと白旗代わりに振る。
「まっ、俺も嫌いじゃないからいいぜ目玉焼きでも」
少し名残惜しそうにしていたがそれ以上は何も言わなかった。
「そんなにアイサって目玉焼き好きなの?」
リコが問うとアイサは無言のまま頷いた。
確か自分が空腹だった時に作ってくれたのも目玉焼きだったな、と思い返しながら、一回り小さい携帯用のフライパンに角兎から採った脂を引くアイサを見つめる。
料理をしている時のアイサはどこか楽しそうで、瞳が爛々と輝いているようだ。
火魔法を唱えてフライパンを温め、ふつふつと油が沸き立ってきたところでバジリコックの卵を一つ手に取ると、一同の注目をアイサは気に留める様子もなしにフライパンの縁で卵を叩いた。
ピシリと卵に皹が入り、いよいよ中身の御披露だ。
フライパンの上に卵の中身が落ちた時、一瞬全員の下に沈黙が訪れた。
確かにそれはよく見る卵と同じ形をしていた。ただしそれは黄身ではなく、白身でもなかった。
「んー……紫身に……緑身?」
アイサが何とも言えない微妙そうな顔をして首を傾げる。
卵の黄身は黄色ではなく紫色をしており、本来白い筈の白身も、薄気味悪い緑色をしていた。
匂いはない。フライパンの熱に煽られ、次第に形と彩色を具現化していくにつれ、一同は口を閉ざし、アイサ同様、何とも言えない表情を作った。
「毒、とか入ってないよね?」
怖ず怖ずとリコが口を開く。率直な否定が無い辺り、誰もが思うことではあるみたいだ。
「まぁ待て。鶏の卵が黄色と白が当たり前なのは人間の世界の話だ。魔界の鶏の卵はもしかしたら緑と紫なのかもしれないぜ?」
ここぞとばかりのフォローを入れるトリート。一理あると言わんばかりにマルコも首を大きく縦に振った。
「そうだな、魔族の中では卵が緑と紫なのは当たり前のことかもしれない」
「じゃあマルコ達が先に食べる?」
また深い沈黙。アイサはふふっと鼻で笑い、一枚目の目玉焼きを焼き上げる。
「なんて冗談。みんなで一緒に食べよ」
「ほんとに食べるの?」
げんなりとした顔でリコが言う。
「食べないと私の苦労が無駄だから」
と、言う間に二枚目を焼き上げ、アイサはそれを小皿に盛ってリコに手渡した。
恐る恐る鼻を近付けて臭いを確認してみると、油の香ばしい匂い以外は特別なものはない。色以外は普通の目玉焼きだ。
意外とイケるか?と心中思いながら暫く目玉焼きを眺めていると、四人分の目玉焼きが焼き上がり、リコは顔を上げた。
全員が浮かない顔をしていた。
「味付けは……いらないか」
指先で目玉焼きをちょいとつまみ上げながらトリートが呟く。その扱いはまるで牛乳を拭き上げた後の雑巾のようだ。
「だがこうしてみると、探求心をそそられないかトリート?」
意外なことにマルコは乗り気だった。顎を指先で擦り、目玉焼きを食い入るように見つめる。
「まだ知らぬ味がそこにあると思えばどうだ?そう思えばなかなかいけそうじゃないか?」
マルコは爽やかに笑う。彼は何処までも前向きなのだろう。雰囲気というか、顔に隠せないぐらいの正のオーラが滲み出ているのを感じた。
「ああ、もしそうなら最高だな。もしの話だがな!」
「じゃあ、食べようか?」
アイサは、平静を装っているように見えるが、小刻みに体を揺らして、彼女の体は卵を口にしたくて、最早辛抱ならない状態のように見えた。
それを察してか、リコもアイサに合わせて口を開く。
「そうだね。早く食べようよ」
意見はだいたい纏まりを持ち、実食を迎える。
皿を抱え、暫くそのグロテスクな色彩のものを見つめた後、ほぼ同時にそれを口の中に滑り込ませた。
暫く無言の時が過ぎる。もぐもぐとただひたすら口を動かす四人にそれといった表情は浮かんでこなかった。
偶に眉を顰めたり、目を泳がせて味の詮索をしたりしている内に、四人の口の動きが固まった。
ゴクリと喉が動き、目玉焼きが食道を通過していくのを感じた辺りで一斉に四人の顔が歪んだ。
「苦あああぁぁッ!!!」
先ずトリートの悲鳴が上がりそこからは誰もが悲惨な声を上げてのたうち回った。
たとえ苦虫を噛み潰してもこうはならない。
口の中に広がる殺人的な苦味が広がり、暫し、四人の壮絶な悲鳴が洞窟の中を駆け巡った。