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 頭がガンガン割れるように痛い。意識が覚醒するに連れて痛みは次第に大きくなっていく。

 彼女は自分の身に何が起きたのか記憶を頼りに追っていくとそこには彼女よりやや年上位の少年の笑顔があった。

 死、という感覚が目前まで迫りそこでどうやら気絶してしまったらしい。

 瞳をゆっくりと開くとほんのりと明るい光が目の前にあり、その傍らでは主であるロメオ・スプラットが佇んでいた。

 初めに目に入ったのが主の顔だったことでリリスはどこか安心感を覚えたが、次に見たものによってそれは一変した。

 

「主……それは…」

「あぁ気がついたみたいだな」


 捲り上げた袖から見えるロメオの腕には幾重にも包帯が巻かれていた。白い包帯の下からじんわりと赤いシミが広がっていくのを見るとリリスは泣きそうな表情でロメオに寄り添った。


「まさか主……私の所為で……」

「まぁ、そんなところか」


 キツく包帯を縛り上げるとロメオは話を切り出した。


「だが良かったことだ。右腕の怪我一つでお前を失わずに済んだのだから」

「私は主の道具です。主の為に戦い、主の為に死ねるのです。主に守ってもらうようでは私の存在意義はありません」


 哀切そうな顔でリリスは上唇を噛み締めた。己の無力さが情けなくて瞳から涙が滲み出てきた。


「そうだ。お前は道具だ。だからこそ私はお前が必要なんだ」


 差し出された手がリリスの涙を掬い上げ、優しくリリスの頬を撫でる。


「お前が自分を道具と言うのなら私はお前を道具として扱おう。だが持ち主である以上、お前が傷つけられるようならば、私は全力を以てお前を助けよう」


 焚き火の明かりによってロメオの表情が映し出される。

 どこか温かみを持った瞳と慈愛すら感じさせる微笑みは、リリスの内に安寧と感動を与える。


「それが、主としての努めだ」


 短く鼻で笑いロメオは帽子を目深に被る。もし怪我が無いのならリリスは今にもロメオに抱き付いてきそうな形相だった。

 リリスの目尻に溜まった涙が、一筋流れ落ちる。


「私は主に仕えることが出来て幸せです」


 ロメオは満足げに頷くとリリスからそっと手を離す。

 愛おしそうにリリスは声を漏らすがそこは我慢した。


「それで、お前の目で見て彼はどうだった?」


 慌てて涙を拭うと、リリスは即座に気持ちを切り替えた。


「その、彼ですが……強いです、とても。恐らく高度な戦闘の教育を受けていると思います」


 魔王のコレクションの性能を差し引いたとしても、リコの体術はリリスのそれを上回っていたとリリスは直感している。


「それに魔王のコレクションを手にした途端に別人のようでした。動きのキレも段違いで……何より迷いがありませんでした。殺人への」


 最後に目にしたリコの表情を思い出すだけでリリスは身震いした。

 まるで無垢な子供のようにリコはリリスの首を跳ねようとしていたのだ。

 幾度と殺人を繰り返してきたリリスでさえ、命を摘み取る瞬間というものは背筋が凍るような感触がある。


「恐らく魔王のコレクションの影響だろう。コレクションに呑まれる者の話など山程ある」


 まぁいい、と言葉を切りロメオは口角を吊り上げ、続ける。


「次は私が殺ろう。彼は私達の敵だ」


 立ち上がり衣服に付いた砂を払うと天を突くようにそびえ立つダンジョンを眺め、ロメオは不敵に微笑んだ。


「誰にも……私の邪魔はさせない」






 場所は変わり、ガイナスのホテル。従業員は避難命令により誰もいない為、明かりも点いてなかった。

 鍵を壊して部屋に入るとすぐさま洗面所に向かい蛇口を捻る。洗面台に頭を突っ込み、冷たい水に掛かると体温と共にいきり立った闘争心も冷まされていくようだった。

 顔を上げ、水が肌を伝っていくのを感じながら斧槍を背負った少年、リコは目の前の鏡を覗き込んだ。

 我ながら酷い顔だと思う。別人のように髪は乱れ、瞳はどんよりと濁って見える。


「あぁ……最悪」


 魔王のコレクションに呑まれかけていた。ロメオ・スプラットが割って入らなかったらリコのパニッシャーはリリスの首を断っていただろう。

 自分の意志に背くような行動は出来るだけしたくはなかった。同じ殺しだろうとその違いは大きい

 パニッシャー、その能力は『断罪』すなわち敵の罪の重さだけ力を発揮する能力を持つ魔王のコレクションだ。

 相手の罪が重ければ重い程、その力は増していく。

 だが巨大な力を引き出す一方で、所有者の精神には大きな変異をもたらすものもある。パニッシャーを持つ者は皆、罪人への一切の容赦が消え失せてしまうのだ。たとえそれが殺人にまで及ぼうと罪人の罪の重さ次第では躊躇いも持たないだろう。


『どうして彼等を逃がしたんだ?』


 ふと頭の中にかすれた非人間的な声が響きわたる。


『彼女は殺人犯だ。何を迷う必要があった?』


「うるさい」


『君が殺し損ねた所為でまた彼女の手で人が死ぬ』


「うるさいっての」


『君の所為だ。そう、君の所為』


「黙れ」


 無意識の内に出した拳が自身を映し出す鏡を突き破っていた。同時に頭の中の声も鳴り止んだ。

 短い呼吸を繰り返し、荒くなった息を鎮めていく内にリコの中で一つの言葉が浮かび上がった。


「『必要なのは強い意志』だったかな……」


 嘗ての古い仲間の言葉を思い出し、リコはふっと微笑を漏らす。


「大丈夫、僕はまだ僕でいられてる」


 自分を励ますようにリコはぐっと拳を握り締めた。

 すると腹が空腹を訴えるように呻き声をあげているのにリコ本人は漸く気がついた。

 思い返してみれば今日だけで二つの戦闘。アイサには失礼だが割に合わない食事量だ。

 尚も鳴り止まない腹を押さえるとリコは早急に調理室へと向かった。




 電気は通っていなかったが幸い食品自体は残ったままだった。

 冷凍食品というのは安価な上、最低限の手間で安定した味を提供してくれる。故にリコはそれらのものを重宝している。

 惣菜の入ったパックをフライパンに放り込み火魔法を行使、待つこと五分。あっという間に晩食の出来上がりだ。

 適当な椅子を見つけると腰掛けて早速頂くことにする。

 牛肉のコロッケはややパサついていて、味もやや辛かったが文句は言えないところだ。

 フォークに刺して、次々に口へ運ぶ。


 腹を満たしながらもリコはダンジョンのことを考えていた。

 一度ダンジョンに足を踏み入れてしまった後では引き返すことも出来ない為、万全の準備はしておきたい。

 ロメオ・スプラットの話だとロメオは一度中層まで行ったらしい。そうなると下層の魔族達は大抵ロメオ達によって倒されている上何体かは外に出てきている。

 魔族が再生する周期的に遭遇率は低そうだ。

 問題は上層に待ち受ける魔族、そしてロメオ一行だ。

 大半のダンジョンは下層、中層、上層に分かれて上に上がるに連れ魔族の強さも比例して上がっていく。上層の最奥部に待ち受けるのがそのダンジョンのボスであり、魔王のコレクションを守護している番人ともいえる。

 ボスを倒し、魔王のコレクションを手に入れれば無事にダンジョンクリアとなり、ダンジョン内の生存者は皆、外に出されダンジョンは消滅する。

 ただ、そう上手くいくわけもなく、力及ばない冒険者は魔族になぶり殺しにされるか、下層に引きこもって誰かがダンジョンをクリアしてくれるのをただ待つしかない。

 そうならない為にも準備万端な上でダンジョン攻略に臨むべきなのだ。


 そうしてる内に皿が空になってしまい、新たな冷凍食品を取り出してフライパンに入れる。

 取り出したのは若鶏の唐揚げピリ辛ソース和え、冷凍食品では唐揚げ本来の食感が出せない為のソースだろうがリコとしては寧ろ好みの方だ。

 頃合いを見てそれを取り出し、皿に盛る。湯気が一杯に漏れだし香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

 リコはゴクリと垂れそうになった涎を飲み込み、それを口一杯に頬張った。

 噛む度に溢れる肉汁とピリッと舌を刺激するソースが実に調和を保っている。

 次々に鶏肉にフォークを突き刺すと、たっぷりソースと絡めて口の中に放り込んでいき、あっという間に皿の上のものを平らげてしまった。


 食事を終えてすっかり空腹を満たしたリコを次に待っていたのは疲労感と満腹感からくる猛烈な睡魔だった。

 ふらりと立ち上がり、先程の部屋まで戻ると、倒れ込むようにしてベッドに体を預ける。

 ふかふかとした毛布に包まれると、うとうとと目蓋が重くなっていく。


「少しだけ………すぐに起きるよ………」


 自身に言い聞かせるように何度か小さく頷くと、ベッドにうずくまるようにして、リコの意識はふっと落ちていった。










 (かまびす)しい騒音と共にリコの肩が前後に揺さぶられる。

リコは難儀しながらも眼を開くと、一人のボロ切れを体に巻いた大柄な男がリコの顔を覗き込んでいた。

 「はて?」とリコは首を傾げる。状況の整理が追いつかなかった。何せつい先程までホテルで一人、熟睡してたところが、今はひたひたと雫の滴り落ちる薄暗い岩肌の洞窟内へと場所を移していたのだから。


「いつまで寝ぼけているつもりだ!?」


 男の鬼気迫る恫喝の声にリコは意識を覚醒させる。


「えっ?あっ……此処は?」


「ダンジョンの中だよ。気絶して記憶が飛んじまったか?」


 またもやリコは首を傾げた。目の前の男にどこか懐かしさを感じたからだ。

 短髪に纏めた茶髪、やや頬は痩せこけているが、その麻のボロ切れの間から見える胸板は金属板のようで、その筋肉は一般の成人男性を悠に凌ぐだろう。


 周りを見回せば、男の仲間と思わしき者が数人、胡座を掻いて息を着いていた。どうやらだいぶ疲弊しているようでやはりその顔は痩せこけていて、生気を感じられない者すらいる。


「だいぶ仲間も減っちまったが、此処まで来ればゴールは近そうだ」


 男は犬歯を剥き出しに豪胆に笑う。他の者にない、はつらつとした元気がその男にはあった。


「お前も良く頑張ったなぁ。リコ、もうすぐ俺達は自由の身さ」


 そうだ。自分はこの男をよく知っている。自由のなかった頃の自分の唯一の親友だった。


「……ランス」


 そう、男の名はランス。まだ幼少時の自分の面倒を見てくれていた友達にして父親のような男だ。


「あぁどうした?」


 そう、これは過去の映像。だからこれから先の自分の言葉も、これから起こる事も、このダンジョンの結末も全て知っている。


「此処から出れたらみんな自由なの?」


「あぁそうさ。糞みたいな生活からおさらばして、うめぇ飯に酒だ!」

「じ、じゃあさランス、一つお願いがあるんだ…」

「あんだ?言ってみろよ」

「もし無事に出れたら、みんなで一緒に暮らそう」


 それはほんの些細な少年の願いだった。ランスはけらけらと笑い、リコの頭を力強く撫でた。


「言われるまでもねぇ。俺達ゃ家族みてぇなもんだ」


 心の底から嬉しかったのをよく覚えてる。

 だが、次の瞬間、大地を震わせるような衝撃が一行を襲った。けたたましい地響きがあがり、波打つように大地がうねる。

 リコはもちろん、ランスも他の仲間達も平衡感覚を失い、立っていられなかった。

 やがて揺れは収まり、リコとその仲間達もひとまずは落ち着きを取り戻し、安堵の息を吐こうとした。

 だが、直後にそれは訪れた。

 洞窟の入口から光が消え失せ、薄暗い闇が一行を覆う。奇怪な現象にリコはどぎまぎとした感情に苛まれ、洞窟の入口に目をやった。そして、リコの身体は恐怖に呑まれた。

 巨大な目玉がぎょろりと此方を品定めするように覗いていたのだ。

 その黒眼はしきりにぐるぐると洞窟内を眺め回し、狙いをリコに見定めた。

 巨大なピンク色のイボ立った触腕が恐ろしい速度で飛来する。

 避ける暇すらなかった。あるいは恐怖に包まれて身動き出来なかったのかもしれない。

 触腕はリコの左腕を絡め捕る。万力に締め付けられたような鈍痛。ギリギリと肉が軋み、まだ幼かったリコはたまらず悲鳴を撒き散らす。


「リコッ」


 ランスも呆気に取られて咄嗟の判断が遅れてしまっていた。必死に触腕を剥がそうと力を込めるが触腕は意に介さず、リコを己の下へと引き込もうと触腕を引っ込めていく。リコの顔が絶望も恐怖に歪み、瞳に大粒の涙が溢れだした。


「ランス……助けて………」


「当たり前だぁ!!」


 状況は最悪だった。リコの体力もそう長くは保たない。それでもリコの精神的な支柱でもあったランスが弱音を吐くわけにはいかなかった。


「全員で帰るんだ!!邪魔すんじゃねぇッ」


 ランスの筋肉が隆起する。

 残り少ない魔力を解放。ここ一番の膂力で触腕を引き剥がしに掛かる。

 仲間達も加勢し、触腕にしがみつきリコを連れて行かせまいと奮起する。


「おうよ!ランスの言うとおり!」

「全員でここを出るんだよ!」

「お呼びじゃないんだよ化け物が!!」


 触腕は弾力に富み、人間の腕力でどうこう出来るものではなかったが、ただ一人、魔力の扱いに長けたランスの膂力によって、触腕が軋みをあげ始めた。


「絶対に助ける。絶対だ!」


 渾身の力でランスは触腕を両腕で締め上げる。

 洞窟の外の怪物もたまらず奇声を発し、暴れ狂っているようでまた地響きが鳴り、洞窟の天井が今にも落ちてきそうな不安を覚える。

 しかし、暴れる余り触腕に力が回らなかった化け物は触腕の拘束は一時的に緩まった。


「今だァ!」


 ランスの合図で一斉にリコが引っ張り出される。

 触腕は一時退却と言わんばかりにズルズルと尾を引くように洞窟を這い出ていった。

 衰弱したリコの中にあったは清々しい程の解放感と、痛みの余韻、そして仲間への感謝の気持ちだ。


「……ありがとうランス…………僕、もう駄目かと、思ったよ……」


 リコは苦笑し、四肢に力を入れ起き上がろうとした。そこで違和感が訪れた。


「はは……ごめんランス、身体に……力が入らないみたいなんだ。手を、貸して、もらえる?」


 触腕に締め付けられた身体は一時麻痺していた。だからリコは気付いていなかった。

 ランスは目を伏せて、仲間達も顔面蒼白にしてリコを憐れむように見下ろしている。


「どうしたの、みんな?どうして―――――」


 感覚が戻ってきて言葉が途切れる。「あぁ、そうか…」と呟き、リコは乾いた笑みを漏らした。


「なんでだろう……左腕の感覚がないんだ……左腕の、感覚が、ないんだ」


 左の肩口から焼けるような痛みがこみ上げてくる。

 自分の左腕がどうなっているのか。それを見る勇気はリコにはなかった。

 意識が揺らぐ。また痛みが遠のいていく。身体の血が凍るような、どこか心地の良い感触。

 自然と目蓋が落ちていく。今なら直ぐにでも眠ってしまえそうなぐらい気持ちがいい。


「少し……少し、休むよ。迷惑ばかりで、ほんとに、ごめんね、ランス……」


 意識がどこまでも、どこまでも、深く、深く、落ちていく。暗闇に包まれる。リコの意識を蝕むように黒い闇がリコの頭の中に入り込み――――リコは意識を手離した。







 雀のさえずりとさんさんと照る陽光が目覚ましの代わりとなり、リコはゆっくりと目蓋を持ち上げ、体を起こした。

 むにゃむにゃ、とまだ寝足りないようで何度もうとうとと頭を垂れている。

 暫くうなだれていると、ダンジョン攻略のことが頭をよぎりカッと目を見開いた。


「……うん、いい朝だ」


 まだ意識は完全に覚醒していないようで、何度も目を擦りながらベッドから這い出てきた。

 思った以上に眠り込んでしまったようで満足に体を動かすのにはまだ時間が掛かるだろう。体中汗でベタついていて、肌に張り付く衣服がとても気持ち悪い。

 リコは首を巡らせるとバスルームに目を停めた。

 ダンジョンに臨む手前、心身共に万全を尽くしたいと思うのは当然のことだ。

 空の浴槽を熱い湯で満たすとリコは衣服を脱ぎ捨て、裸になった。

 足先からそっと差し込むように体を湯に浸していくと、じんわりとした温もりが表皮を覆い、体の芯まで柔らかな温かさを持たせてくれる。

 ゆっくりと体を沈めていき、肩まで浸かると、それはまるで女神の抱擁とでも賞すべきか、自身を悩ませるあらゆる障害をほんの一時だけだが忘れさせてくれる。開放してくれる。

 リコは背中を湯船に預けると両腕をピンと張り、大きく伸びをした。体全体が一瞬強張り、次の瞬間脱力してだらりと落ちる。小さく飛沫が舞うっては頭に被さり、髪を伝って湯船に帰っていく。


「風呂なんていつぶりかな……」


 思い返せば、もう何日も野宿が続いてきていた。ダンジョン攻略とは正に一攫千金。難易度もそれぞれ異なり手に入る魔王のコレクションや財宝の質や量も様々だ。リコがかなり前に入ったダンジョンでは死ぬ思いまでしてクリアしたにも関わらず、魔王のコレクションは大した物でもなく、財宝も雀の涙程しかなかった。

 その結果、資金難に陥ってしまい宿屋に泊まる賃金の確保すら難しくなってしまい今に至る。食糧が尽き、そこらで行き倒れていた所に救いの手を差し出してくれたのは他でもない、アイサだった。


「大丈夫かなぁアイサ」


 早ければ既にダンジョンの内部にいるだろうがなにせ彼女はダンジョンに足を踏み入れるのは初めてだ。仲間が複数いるとはいえ幾分心配な要素はある。

 それに彼女の目的は十中八九、魔王のコレクションだろう。


「あんなもの持ってたって、碌な事ないんだよアイサ」


 悲しげに目を細めて天井を仰ぐ。湯気が立ち込め、天井にたどり着いては水滴となってまた落ちてくる。

 相変わらず湯は温かく、体の疲れを取り除いてくれるようだった。このまま眠ってしまえればさも幸せだろうが、いつまでも悠長にしてはいられない。

 体を起こし湯船を出る。湯が体から剥がれるように落ちていき、残りの着いた水をバスタオルで拭き取った。

服は少し煤けていたが綻びもなければ破れているところもなし。この赤のボーダーの入ったコートはリコの一張羅ともいえるものだった。

 ある時期から一人旅を始めて金銭に余裕のないリコには服に掛ける金はなかった。しかしリコがそうしなかったのは何よりこのコートが心底気に入っているからだ。

 身嗜みを整え、下着の上からコートを着込み、パニッシャーを手に取る。一瞬ドクンと心臓が高く波打つがすぐに収まる。

 必需品を一式背嚢(バックパック)に入れ、身支度を終えるとリコは部屋を出た。気分はとても良い、気持ちは軽く穏やかだ。

 少し足りないかもしれないが、一宿一飯の代金を置き、ホテルを出た。

 天を貫くように建つダンジョンはその方角を見やるだけでその存在を確認出来る。

 するとリコは「おや?」とダンジョンの方を注視した。ダンジョンの傍らでか細い黒煙がふらふらと断続的に上がっている。


「んー……魔族か?」


 空気中から漂う魔力の残滓(ざんし)はダンジョンに生息する魔族のそれに近い。


「ちょっと…急ぐか」


 妙な胸騒ぎがしたからか、リコはグッと両脚に力を込め、大きく跳躍した。風を切り、ぐんぐんとダンジョンとの距離を縮める内に鼻の奥に硝煙のツンとした臭いと鉄臭い血の臭いが飛び込んでくる。

 先日のロメオとの対面を思い出し、「勘弁してくれよ」と風にかき消されてしまいそうなくらい小さな声で呟いた。

 一度、足を地に着けると、石畳の地面が剥げる程の脚力でリコは更に加速する。

 体が張り裂けそうなぐらいの風圧に見舞われるが、それも長くは続かない。強烈なスピードで瞬く間にダンジョンの手前まで辿り着くと足を地に擦りつけてブレーキを掛ける。

 勢いに押されよろめくがそこらの立ち木に手を着き倒れずに済んだ。

 大きく息を吐き、呼吸を整えながら周囲を警戒しながら歩いていくと、やがてダンジョンの入口と幾つかの影が見えてくる。

 心のどこかで予測出来ていたお陰かその光景を目の当たりにしてもどうにか平静でいられた。

 そこには幾多の魔族の死骸が転がっていた。蛇の姿をした魔族や半魚人の姿をした魔族の全てが死骸となっていて、その傍らでは同じく死骸の人間達が武器を手にしたまま倒れていた。

 恐らく冒険者達がダンジョンに入った後に出現した魔族達と交戦したのようだ。逃げていればガイナスの街は魔族に荒らされ尽くしただろう。そうさせないべくこの聖騎士団の者達は戦い抜いた。自分の命と引き換えに街を魔族から守ったのだ。逃げようと思えばいつだって逃げれた筈だ。そうしなかったのは彼等の使命感からか、今となっては知る術はない。

 リコは聖騎士団達を見下ろしながら胸に手を当てる。彼等は尊敬に値する人間だった。


「あなた達やグラン騎士団長にもっと早く出会えたなら、僕の人生も変わってたかもね……」


 胸の前で十字を切り、リコは顔を上げた。立ち止まってばかりもいられない。

 これから始まるのだから。未開の地、ダンジョンの攻略が、そして倒すべき敵がその中にいるのだから。

次回からダンジョン攻略に入ります。

今後ともよろしくお願いいたします。

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