雑踏
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街の雑踏に紛れ込む。誰も気にしてない。ダガーナイフを隠し持ち、歩き続ける。ちょうど五十メートル先ぐらいに、ヤツがいた。徐々に近付いていき、やがて背後に駆け寄って、後ろ脇腹を思いっきり刺す。手には血のりが溢れた。べっとりと。そして俺の身柄は取り押さえられる。すぐに辺り一帯が大騒ぎになった。
刺した森孝夫は倒れていて、息はないようだ。やっと念願を果たした。長年ヤツのことを疎ましく思い、いずれ刺すつもりでいたのだ。駆け付けた警官に両脇を固められ、警察署へと連行された。傷害致死罪。単なる勾留じゃ済まないだろう。いずれ起訴されて裁判になる。だが、思っていた。森は姉の仇だと。姉を仲間内で輪姦し、挙句殺したヤツには死んでもらうしかない。
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「心証がよければ、懲役で済むよ」
警察での取り調べで、警官からそう言われた。まあ、別に敵討ちをしたのだから、後悔はないのだが……。だんまりを決め込んでいると、刑事が、
「まあ、分からんこともない。あんたみたいな人間もいるってことをね。被害者がお姉さんを集団レイプした人間たちの主犯格だったことは勘案してもいい」
と言い、重たげに息をついた。
やがて、
「あの雑踏の中で刺して逃げれば、バレないと思ったんです」
と言った後、滔々と自供する。目の前にいる刑事が速記官に記録させながら、俺の罪の全貌を引き出していく。別に躊躇いなく、それに淀みなく話し続けた。取調室内は刑事の吸ったタバコのヤニの臭いが染み付いている。ゆっくりと夏の午後の時間が過ぎていった。逮捕後、起訴されて法廷で裁かれる。被告人としていろんな事情なり、歪んだ人間関係や複雑な事柄が勘案されれば、量刑は軽くなる。
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裁判を経、森殺しで、懲役十年の実刑判決が言い渡され、その年の七月から服役し始めた。もうあんな復讐はしない。そう思い、刑務所で生活し始めた。自分なりに仇を討ったのだ。憎たらしいヤツは、もう死んでいる。それにまた十年後にはあの雑踏に紛れ込むだろう。都市特有の排気ガス臭や、道行く人間の放つデオドラントや香水などの混じった匂い、そして人間のあざとさや思惑などが垣間見える街の光景……、街の空気に慣れ、染まっているのだった。
毎日塀の中で生活する。規則正しいリズムがあった。シャバとは違うのだが、ここでしばらく骨休めだ。大丈夫。心配は要らない。俺の心の奥底にはそんな思いがあった。ずっとここにいるわけじゃない。俺の時間は浪費されてない。一分一秒にも意味がある。そう思い、ずっと刑務所の中で与えられた作業をこなし続けた。時折、早く自由になりたいと思うこともあったのだが、今はじっと耐える時だ。そんなことを感じながら、過ごしていた。
塀の中からも、眩しい夏空が見える。くっきりとしていて、白雲が浮いていた。空の果てには姉がいる。今の俺をどう思うだろう?森を刺し殺したのは、本望だったと褒めてくれるだろうか?それとも……?時折深呼吸し 気持ちを整える。夜間の独房での就寝時など、自身の息遣いさえ聞こえるぐらい、辺りは静かだった。盛夏で一際寝苦しい夜もあったのだが……。
(了)