イトスギ
僕が彼女て出会って一年が経った。
だけど、
そのとき僕の隣に彼女はいなかった。
僕は彼女と会う以前よりも無気力になっていた。
もう学校には半年以上は行っていない。
家に――自分の部屋に引きこもるように現実から目を背けた。
彼女のいない人生など考えられなくなっていたから……。
だから目を背けた。
いったい誰が想像しただろうか……。
あの時、彼女が僕の目の前から居なくなるなどと。
彼女が居なくなってから、、僕は何かをするのを辞めた。
何かとは何だっただろうか。
もう、昔のことすぎて思い出せない。
だけど興味なんて無かった。
最後に部屋を出たのも何時だったかわからない。
今、僕が何をしているのかも……。
彼女のいなくなった時のことを思い出すと叫びたくなる。
夢で彼女が出てくると嗚咽を出して泣いた。
彼女と出会ったときには、夢と希望に満ちていた。
だけど……だけど、彼女がいなくなってしまった今は絶望だけが残った。
彼女と付き合い始めて一ヶ月――出会ってから二ヶ月。
その年の冬、初めての雪が降った日。
僕は、彼女とはじめてのデートをした。
息を吐くと息が白くなっている。
手がかじかんで寒かった。
コートを着ているのにまるで意味をなしていないようだった。
体が凍えるのを我慢しながら、僕は噴水の近くにある時計台に目を向ける。
時計は9時28分を指していた。
彼女との待ち合わせまでは、あと30分ある。
ちょっと早く来すぎたろうか。
でもあまり気にならなかった。
なぜなら僕が提案したデートだからだ。
それなのに彼女を待たせるのは嫌だった。
緊張で心臓が飛び出しそうだ。
彼女と出会ってからこんなことは何度目だろう。
多分、数えきれない。
でも、そんな緊張が何故か心地よかった。
それだけで彼女と一緒にいる。という理由になるから。
彼女が来るのをただ呆然と待っていると、いつの間に30分たったのか「おーい」と言う声が後方から耳に入る。
振り向くと、彼女が小走りで駆けてきている。
出会って二ヶ月、初めて彼女の私服を見た。
初めて見た私服は綺麗だった。
「ごめんね待った?」と彼女は頬を薄く染めながら僕に聞く。
「大丈夫だよ。僕も今来たとこだからさ」と肩や頭の上に薄く積もった雪を払いながら僕は言う。
横目でちらっと時計台と見たが約束の時間よりも15分早い。
正面の彼女を見ると目が合って、お互いに笑い出す。
彼女もデートを楽しみにしてくれていたのだろうか。
そう思うと嬉しかった。
「じゃ行こうか」と僕が言うと彼女が、
「ちょ、ちょっと待って」と僕を引き止める。
僕は「?」と首を傾げた。
「あ、あのね」と言うと彼女はバックから何かを取り出す。
なんというかモフモフという表現合いそうなものだ。
「これ編んできたの……良かったら使って?」
と、僕に差し出す。
マフラーだった。
予想外の出来事に涙が出そうだ。
僕は「ありがとう」とお礼を言いながら受け取ると、早速首に巻き付けようとした。
彼女のくれたマフラーは一人で使うにはどう考えても長い。
顔まで巻けるんじゃないか、なんてことを思っていると、
「えっとね……実は……ふ、二人で巻けたらなって思ったんだけど……」
彼女は僕の顔を上目遣いで覗き込む。
全身を雷に打たれるような衝撃が駆け巡った。
僕は顔を真っ赤にしながら「じゃ、じゃあ一緒に巻こうか」と顔を横にむける。
彼女も「う、うん」と首を縦に振った。
そして僕らは二人でマフラーを巻く。
二人で巻くとちょうどいい長さだ。
隣にいる彼女から甘酸っぱいようないい匂いがした。
……ちょっと僕変かも……。
それから僕らは、ショッピングモールへ向かった。
途中、何度か手が触れ合って気まずい雰囲気になったりした。
着くまでにくだらないことなど色々な話もした。
――こんな時間がいつまでも続けばいいと思う。
――この世界でずっと彼女といたい。
そう思った。
だが、この世界は僕のそんな淡い希望をアッサリと裏切った。
午後6時46分。
僕らは駅のホームにいた。
彼女は両手に紙袋を持ち、僕の隣で嬉しげに笑っている。
喜んでくれているようで良かった。
僕自身も楽しかった。
――また彼女と来たい。
そんなことを想っていると電光掲示板が音を立てて光る。
「そろそろ来るね」なんて会話をしていると、僕に真っ黒な影が絶えず降り注ぐ光を遮る。
光を遮られた僕は疑問に思って背後に振り向く。
振り向いた目線の先には長身のフードを深く被った男なのか女なのか判らない人物がふらふらとしていた。
フードの隙間から無精髭が見える。
男だったのだろう。
手には日本酒のビンを握っている。
酔っ払っているのだろう。
男がふらつくたびにビンの中の酒がタポンタポンと音を立てる。
ただの酔っぱらいだろうと僕は意識をそちらから切り離し、彼女と黄色い線の手前付近まで近づいた。
途端、背後の男が酒瓶を落とす。
男はビンを拾おうとして足元をまごつかせた。
ついには自分の足で自分の足を踏み転倒しそうになる。
……転倒しそうになる(・・・・・・・・)。
男は倒れる直前に僕の背中を押し、ギリギリのところで倒れず、膝を地に着くだけだった。
背中を押された僕は……いや、背中を押され突き飛ばされた僕は、気がつくと……
黄色い線の外にいた。
思考が追いつかなかった。
慌てて背後を振り返る。
彼女は目を大きく開いて、口も大きく開けて、両手にもった袋を投げ捨てて、僕に手を伸ばす。
何か言ったのだろう。
だけど今の僕にはなんて言っていたのかわからない。
彼女の背後で男は、後悔の顔でも、ましてや悪かったなどという顔はしていなかった。
ただただ、フードを持ち上げ不気味に笑っていた。
……コイツ……
そんなことを思った瞬間。
電車が視界の端に見えるほど眼前に近づいていた。
――死んだ。
――僕の人生は今日、この瞬間に終わった。
そう思った。
次に瞬間に感じたのは痛み。
それと、地面の感触。
――おかしい……跳ねられたのなら地面の感触なんてしないはずだ。
思考は加速する。
そして、一つの可能性に行き着く。
痛みを堪え、目を開く。
すると僕は、駅のホームの上に無様に転がっていて、彼女は……
――先程まで僕のいた黄色い線の外にいた。
「夏美ッ!!」
慌てて僕は彼女の名を叫び、限界まで手を伸ばした。
だけど、彼女には届かなかった。
自分の無力さに腹が立った。
多分、今の僕は酷い顔になっているだろう。
そんな僕の顔を見た彼女は、ひどく辛そうな顔をして、微笑んだ。
そして、
「 」
何かを呟いた。
次の瞬間、
彼女は、勢いの殺しきれていない電車に跳ね飛ばされた。
駅のホームが悲鳴に包まれる。
目がくらむ。目が白と黒に交互に変わる。
なにが起こったのか分からなかった。
分かっていたけど理解したくなかった。
意識が朦朧とする。
となりでは、何かがグチャッと音を立て空から落ちてくる。
訳も分からずそちらを向く。
落ちてきたそれは赤い液体をぶちまける何かだった。
すぐには理解できなかった。
だけど、遅れるようにして落ちてきたマフラーを見て一気に現実に引き戻される。
ここにある何かは夏美だった。
鉄の臭いと彼女の臭いが混ざって僕の鼻腔を刺激する。
全てを無視して僕の脳に殴りかかってきたような激痛に襲われる。
吐き気もする。
いまさらどうなるわけでもないのに、僕は彼女だった何かに手を伸ばす。
冷たかった。
ぴくりとも動かなかった。
手に血がついた。
途端、目に膜が貼ったように視界が歪む。
頬に生暖かい何かが流れ、ホームに滴る。
どうやら僕の目から涙がでているようだ。
僕は彼女だったものに声を出そうとした。
だけど僕の声は聞こえなかった。
元々声なんて出ていなかったのかもしれないし、周りの悲鳴にかき消されたのかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
意識が飛びそうになるのをなんとか持ちこたえ、僕は彼女だった何かから手を離し、背後にいるはずの男に視線を向けた。
男は「ハッハッハッハッ死にやがったよ! 汚ぇ!」とかほざきながら酒をがぶ飲みしている。
僕の中で何かが弾け飛んだ。
気がつくと僕は血の付いた両手を握り締めていた。
そして、男を殴り飛ばしていた。
男は後方に吹っ飛ぶ。
「テメェ……」
僕は、涙を流しながら、血が出るほど歯を噛み締めながら、血が出るほど拳を握り初めながら叫んだ。
「人が死んでるのになんでへらへら笑ってられるんだよ!
どうして夏美が死んだのに笑ってられんだよ!
どうして夏美が死ななくちゃいけなかったんだ!」
男はのそっと起き上がるとつぶやく。
「……人が人を殺すのに理由なんかいるかよ
そもそも俺はお前を狙ったんだぜ?
そこの嬢ちゃんが死んだのはテメェを助けたせいだろ?
だったら嬢ちゃんが死んだのはテメェのせいだ」
男がなんて言っていたのか半分以上頭に入ってこなかった。
ただ僕は、再び男のことを殴った。
殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って
殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って
殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って
殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って
殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って
殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って殴って
殴って殴って 殴って殴って、駅の警備員に止められるまで殴り続けた。
服に男の返り血がついていても気にしない。
ただ……ただこの男だけは絶対に……
――殺す。
そこから先はよく覚えていない。
警備員も殴り飛ばし、男を殴った。
殺意の衝動だけで動いていたはずだ。
しばらくして、男は呻き声すらあげなくなった。
相変わらず辺の悲鳴は消えてはいなかった。
――……五月蝿いな。
気がつくと自分の部屋のベッドに横たわっている。
理解するのにしばらくかかった。
頭の中に流れる記憶。
手に残る血の臭い。
着ている服に染みている赤い何か。
そして僕が握り占めている長いマフラー。
全てが嘘だと信じたかった。
だけど周りの全てが僕を現実へと引きずり出す。
彼女はもういないのだと。
それから警察が僕の部屋に訪れてきた。
暴行罪がどうのって言われた気がするけど分からなかった。
そして、何よりも驚かされたことがある。
僕を突き飛ばし、夏美を殺した男が病院で一命を取り留めたということ。
悔しかった。
夏美を殺したやつが生きているのが悔しかった。
僕は両親や兄弟共々、刑務所へ連れて行かれた。
結果的には無罪放免ではなかったが、執行猶予で釈放だそうだ。
家に帰った僕は、部屋で号泣した。
――もう二度と彼女と会えないのだと。
――もう二度と彼女と話せないのだと。
そして一年後、彼女が死んだ同日同時刻。
僕は、勢いの殺しきれていない電車が眼前に迫る中、
まるで桜の花が散るように、
駅のホームから飛び降りた。