22、恐怖を振り払って
彼我の距離、約十メートルを、星は五歩で駆け、タナトスと肉薄する。
星の顔には力強い表情。対してタナトスの顔には、当たり前だが余裕の表情が浮かぶ。
星は気合いを込めて右拳をタナトスの顔面めがけて振るった。
タナトスは、首を軽く振るだけでそれを避ける。
ドッ、と星の腹部にタナトスの拳が突き刺さる。そのまま十メートル先の木に背中からぶつかる。咄嗟に身体を丸めて衝撃を和らげたので、大事には至っていない。が、
「がはっ」
と、吐血する。
「ふん、その程度か」
タナトスは実力を半分はおろか十分の一すら出していない。
カノンすら怯えさせる者が実力を発揮すれば、星など一瞬で殺せる。それは星も最初から承知している。
だが今は、何としてでもカノンを守る。星は、そのためなら自分がどうなってもいいとさえ、なぜか思えた。当たり前の恐怖すら感じない。死を恐れない、ある意味蛮勇ともいえる星。
「おおおおおぉぉぉぉぉ!」
常人にとっては極めて激しいであろう痛みを無視し、再びタナトスに立ち向かう。
無論、結果は同じ。
「なんだ、本当にただの雑魚か。まあいいだろう。遊んでやる」
星は、自身が倒れ伏す地面に手を突いて立ち上がり、息を吐く。
「はぁ、はぁ、はぁ」
タナトスにとってはこれは遊び。星を殺そうと思えばいつでも殺せるのだ。
生かすも殺すも、タナトスの気分次第。生殺与奪の権利は今、タナトスの掌にある。
馬鹿正直にタナトスの正面から突っ込む星。
返り討ち。
三度目の正直が起こる程、現実は甘くない。
何度も何度もタナトスに一矢報いようと突撃する星。その攻撃は当たるどころか、かすりすらしない。
タナトスの顔も、次第に苦々しいものに変わっていく。
「……ふんっ、興が冷めたよ。ということで、そろそろ殺してやろう」
意識も空ろにボロボロになって地面に倒れる星を見下ろしながら言うタナトス。
「仕舞いだ」
タナトスは、星の顔の真上に足を固定する。
そこで星の意識は途絶えた。
そして──
時間は少々遡る。
カノンは、星がタナトスにいたぶられる様を傍観していた。
本来なら、自分が戦う筈だった。
そう、本来なら。
指が、身体が震え、剣を持つどころか、ろくに動けない。今直ぐに星の元に駆けつけて、彼の代わりに戦いたい。だが、忌まわしい過去の記憶が身体を縛り付ける。
ディオネの元で身も心も強くなったのに、こんな時に限って何もできない。
「私は、どうしてこんなにも弱いのかな」
自らの心の脆弱さに、自嘲気味に呟く。
その間にも星は着々と痛め付けられている。
と、
『人の心とはそういうものだ。どんなに強い心の持ち主も、同じくらいの弱さを抱えている』
まるで脳に直接語りかけているかのような、身体の内側に籠る声。
無論カノンは驚いたが、脳に直接声が語りかけてきたことに、ではない。語りかけてきた声それ自体に驚いていた。
「……ディオネ?」
その声は紛れもなく、カノンの師であるディオネのものだった。
以前もこうして頭の中に直接語りかけるディオネの声を聞いたことがあるような気がしたが、思い出せない。
カノンは乱れた思考を少しでも抑え、ディオネの気配を探す。が、位置を特定することができない。そもそも、近くにいるとも限らない。十年前の予言でアグライアはウェリアルの人間全ての頭の中に直接語りかけた。同じ大賢者であるアグライアにできてディオネにできない、ということもないだろう。
ディオネは再びカノンに語りかける。
『だから、弱くたっていいんだ』
それにカノンは、心の中で返す。
『でも、私はもう大切な人を失いたくない。この手で守りぬきたい』
『本当か?』
『え?』
ディオネの言葉に思わず疑問形で反応してしまう。
『本当に大切な人なら、過去の恐怖さえも振り払って守る筈だ』
先程と言っていることが矛盾していることに、ディオネは内心で苦笑する。だが、これも可愛い愛弟子のためだと割り振る。
もしも本当に危なくなったら自分が出よう、と、とある場所で考える。
そして、カノンを挑発するように言う。
『それとも、お前は過去の恐怖に未だに囚われたまま、みすみすあの少年が殺されるのを見ているのか?』
『それはっ――』
『カノン、お前なら、その恐怖を打ち破る程の強さを持っている筈だ。師である私が保証する』
カノンの言葉を遮って、ディオネは優しく言った。
『ディオネ……』
(九年前、私が絶望に打ちひしがれていた頃も、あなたはこんなことを言ってくれたっけ)
カノンは、心穏やかになると同時に、魂に火が灯った。身体が動く。指の震えも治まった。
『ありがとう』
そして、剣を抜く間も惜しみ、爆発的な威力で地面を蹴る。
ちょうどタナトスが星の顔を踏みつぶそうとしている所だった。
「星君は、私が守ってみせる!」
そして――
そして、まさにタナトスの足が星の顔を踏みつぶそうとする瞬間。
ドッ、と、カノンの雷撃を纏ったパンチがタナトスの顔面に炸裂する。
「グフッ!」
タナトスは一声呻き、砲弾のように吹き飛ぶ。しかし偽物のようにそのまま無様に転がることはなく、一回転してから地面に着地する。
その顔は焦げたように煙を上げ、原型を留めていない。
カノンは、星が気絶していてよかった、と思った。あのタナトスの顔は、常人が見るべきものではない。
が、いきなりタナトスの顔から、ザラッ、という音がし、瞬時に素の顔に戻った。
「!?」
思わず驚いてしまうカノン。それにタナトスは平然と返す。
「何を驚く必要がある。死んだ木こりが創造の粉を飲み力を得たことは知っているだろう。同じことだ。創造の粉の持ち主であるこの俺がそれをしていない筈がなかろう」
まあ、素体の能力によって粉の効力は大きく変わるから、厳密には違うんだがな、と付け加える。
「だがさっきのは効いた。あの男は後で殺せばいいから、お前から先に殺してやる」
「……」
カノンはただ、タナトスを見据える。その瞳には恐怖はもう一切ない。星をボロボロになるまでいたぶったタナトスと、そうなるまで何もできなかった自分自身に対する怒りだけだ。
ひらり、と葉が舞った。
大した音もなく、地面に落ちる。それが合図になった。
常人を遥かに逸脱する身体能力を持つ二人は、相手に向かって駆けた。音すら超える速さで。
ここに、カノンとタナトスの戦いが幕を開けた。