モンモル村の不届きな黒犬
ボンジュール、ムッシュー。そして、レディー。
時は十八世紀、御フランス。
この青年は、ジャン=フランソワ=トレビアンヌ=サビサヴォン=カッペ=ヴァン=ダミン博士。未だ独身の貴族。独身貴族とはまた違う。動植物の生態系などを研究して、学会で数多くの成果を発表していた。時には優雅にネタを交えながら。何故ならば、紳士たる故に。そう、このジャン=フランソワ=トレビアンヌ=サビサヴォン=カッペ=ヴァン=ダミン博士はエレガントなジェントルメンでもあったのだ。
そして今日はなにをしているのかというと、やや西南西のモンモル村で得体の知れない黒い野犬が夜な夜な出没しては、家畜から村人たちへと被害をもたらしてたいそう困らせていたので、そんな博士にこの不届きな犬を生物学的に見つけ出して生物学的に退治してほしいとの依頼を受けていた。これを聞いた学会は、これをエレガントにジャン=フランソワ=トレビ…………略して、カッペ博士へと紳士的に正式に一任したのである。ムッシュのお好きなようになさると宜しいでしょう、セヴォンと。やがて、己の研究資材を一式持ち出してゆき、カッペ博士はモンモル村へと辿り着き、優雅に馬車から降り立った。
そうして、紳士たる者、道行く村人に微笑みかけてエレガントに挨拶。
「ボンジュール、マッダーム。私は依頼を受けてパリから参りました、ジャン=フランソワ=トレビアンヌ=サビサヴォン=カッペ=ヴァン=ダミン博士です」
「は? パリから来た“かっぺ者”だって?」
「ノンノン」
「まあ、いいやね。何か用を受けて来たのだったら、村の役所に行って手続きしてもらいなさい」
「メルシー、マッダーム」
「その路地から入って、きゃどを右に曲がったところにご立派な建物があるでよ。それが役所じゃて」
この御婦人の親切丁寧な案内に、カッペ博士は優雅に頭を下げたのちに役所に向かった。そうして、役人たちとによる、依頼内容についての事務的でかつ紳士的な対応がされていく。以下、その手続きの過程は、優雅に中略をする。
「これこれしかじか。かくかくしかじか」
「これは頼もしそうです、ムッシュー。せっかくなので、我々からの立会人をつけておきませう。―――セバスチャン」
と呼ばれて優雅に出てきた青年は、カッペ博士の立ち会いと案内役とを兼ねてついた。それから役所を出てセバスチャンの家に招かれて優雅に紅茶を嗜んだのちに、二人は不届きな犬の調査へと赴く。その前に、カッペ博士が玄関先で小さな影を目撃。
「おや、これは黒犬ではないですかムッシュー」
「ノンノン。これは未だ一年と経たない私の家族です」
「ほうほう、成る程。ご家族のお名前は」
「サミュエルと云います」
「メルヴェイユー」
こうして二人は周辺の山々へと足を運び、カッペ博士はセバスチャンに手伝いをお願いして、生物学的に黒い野犬の調査をおこなっていった。周りに落ちている人の物ではないと思われる糞尿に始まり、食べかすから樹木に刻まれた傷痕などを採集して真摯に紳士的に調べていったこと、数週後。これは私が知る限りの犬や狼などとは、また違った生き物ですセヴォンと、セバスチャンに伝えたその翌日、御勧めの助手をつけてもらったカッペ博士。その助手が、スカートの両横をお上品に掴んで、エレガントに頭を下げて御挨拶。
「ボンジュール、ムッシュー。私はこの屋敷に仕えるメイドのヤンファです。何なりとお使い下さいまし」
「これはこれは。何とお美しい且つ頼もしい淑女でしょう。これは断ってしまっては、お互いを辱めてしまいましょうぞ。―――では、御言葉に甘えてお受け致しましょう」
「ありがたき御返事にございますわ、ムッシュー」
というわけで、セバスチャンのメイドを連れて、カッペ博士は不届きな黒犬を生物学的に捕獲アンド退治作戦へと村の周辺へと赴いた。険しい山道のなかでも、カッペ博士はヤンファに対して紳士的な気遣いを見せ、掠り傷のひとつさえも負わないようにさせていったのだセヴォン。このような光景を後ろから見ていたセバスチャンが、なんと微笑ましく且つエレガントなお二方であろうかと、感心し喜びを噛みしめていたのであるトレヴィアン。そうしていく中で、カッペ博士たち三人は、生物学的にそのうえ合理的に罠を仕掛けていった。やがてお天道様がほぼ真上に腰を落ち着かせた頃、ある程度し終えたときに、六ヶ所あるうちのひとつの罠の見える位置に生えている樹木の陰から、紳士淑女の三人は今か今かとようすをうかがっていた。
「ムッシュー。ひとつお尋ねしてもよろしいかしら」
「気になる事があったら、遠慮なさらず私に聞いてくるとよろしいですよ。ミス・ヤンファ」
「メルシー、ムッシュー。では、あのようなシンプルで尚且つ露骨なトラップで、不届きな黒犬を本当に捕獲アンド退治できますの?」
「ウィ。―――良い質問ですミス・ヤンファ。この罠は、あらゆる所に仕掛けてきた罠よりも、一番計画的かつ合理的な物です。『全く本気に見えないで、実は本気なのだよ』といった相手の裏をかいて計算に計算を重ねた結果、私が導き出した生物学的にも合理的にも殺傷性の高い罠です」
「成る程。メルヴェイユー、ムッシュー」
「こちらこそ。メルシー、ミス・ヤンファ。ジュッテーム」
「ごめんなさい。それはお受け取り出来ません、ムッシュー」
「ウィ」
どさくさに紛れての、カッペ博士が今までの中で唯一勇気を振り絞って出した愛の告白が、ヤンファによって丁重にお断りを申し上げられたのだ。
この『全く本気に見えないで、実は本気なのだよ』な罠とはどこが生物学的にも計算され尽くされているのかと云うと、それは、直径約百二〇ばかりあるこのための特注の“ざる”を支えている一本の細い丸太の下あたりに長めの縄を結びつけて仕掛けていたその真下に、餌を置いているといった至極シンプル且つ露骨なもの。
ヤンファがたまらずに鼻をお上品に隠した。
「おひとつよろしいかしら、博士」
「何事でしょう、ミス・ヤンファ」
「あの餌のお香りは、少しばかり刺激がお強いのではありませんこと?」
「よくぞ訊いてくれました。―――この餌については数週間ほどの時間を要して、この私とお手伝いをしていただいたセバスチャン氏とが黒犬の生態系調査をおこなった結果、仕留めた獲物を少しばかり腐敗させてから食していると解りました。よって、不届きな黒犬を捕らえる為には、このようにお肉をあらかじめ腐らせておいたのです。―――因みに、仕掛けたこの餌の出所を申し上げますと。モンモル村の精肉工場の責任者の方から快く頂いて参りました」
「成る程。たいへんよく解る御説明をありがとうございます、ムッシュー」
「いえいえ、こちらこそ。ミス・ヤンファ」
と、優雅にお言葉を交わしていたその時に、落ち葉を踏みしめてゆく音を聞いた三人は、罠へと目線と意識とを向けた。するとそこには、大きな黒い影が。それは、まさしく、噂の不届きな黒い野犬にほかならなかったのだ。体長は、目測で百七〇前後。狼よりもやや大きいくらいか。眼を赤々と眩く輝かせながら、仕掛けている餌を、実に美味しそうに頂いていた。この姿を見ていたセバスチャンが、お上品に声を押さえて切り出してゆく。
「私もおひとつよろしいですか、博士」
「如何なされました、ムッシュー」
「あのものが、不届きな黒犬なのでしょうか。いえ、今までにこの私は、あのように巨大な野犬などにお目にかかれなかったので。正直、あのものが犬の類いなのかどうか、信じられないのです。あれではまるで、大山猫のようでありましょう」
「ウィ。貴方のそのお気持ちは、大変理解できます。―――しかし、ムッシュー。あれは紛れもなく犬の類いなのです。今まであらゆる場所から採集して検査した末に、あの不届きな黒犬の物と判断したのでございます。貴方と巡った各現場にあった、爪とぎの痕から食べかすや糞尿に至るまで、しまいには樹木の幹にあったマーキングの染みから得られた情報の全てを分析して導き出した結果、類い希なる犬という事実が解ったのです」
「これは御丁寧に、メルシー、ムッシュー」
「どういたしまして、ムッシュー」
というわけで、カッペ博士は手元の縄を引っ張り、かの黒犬の背中を狙って一気に“ざる”を落とした。実に“いい音”を鳴らして縁が当たり、黒犬は勢いあまって地に口先を打ちつけた。これに、ヤンファが思わずひと声を零したが、口元はお上品に手で隠していたのだ。
「まあ、何と鮮やかで尚且つ強力なトラップでしょう。お見事ですわ、ムッシュー」
「メルシー、ミス・ヤンファ」
礼を紳士的に返したのちに、カッペ博士は樹木の影から舞い出て、黒犬の前に優雅に立ちはだかったのだセヴォン。
「さあ、観念したまえムッシュー。君も立派な男を名乗りたいのならば、これ以上に村人たちとその家畜を傷つける事はしないと誓いなさい」
この言葉に反応をしたのか理解したのか、黒犬が特注の“ざる”を押しのけるなりに頭を持ち上げて、カッペ博士の方へと赤い眼を向けた。そして、直後、黒い顔面の頬肉を僅かながらに小刻みな痙攣を見せたのちに、地についた四肢を進めてゆく。どうやら、癪に障ったらしい。この類い希なる黒い犬なりの、雄としての誇りがあるようだ。やがて、それは、この優雅な紳士であるカッペ博士にも伝わったようであり、後ろからステッキを取り出して構えた。
「杖は紳士の嗜み。常にこの私と一体ながらも、時には、強力な護身の武器として力を発揮するのですムッシュー。―――そして君にも、その立派な誇るべき爪をお持ちだ。よって、同じ武器を掲げた状態で、ここは男同士で男らしく、決闘とゆきましょうムッシュー」
その刹那、黒い影が塊となって地を蹴り、砲弾のごとく空を切ってカッペ博士の横を通り過ぎたと思ったら、樹木から様子を伺っていたセバスチャンめがけてぶち当たったのである。これを予告なしに喰らってしまった青年役人は、吹き飛ばされた遠くで尻餅を突いた。同時に、ヤンファが「きゃっ」と声をあげた。すぐさま「御主人様」と叫んで駆け寄るなりに、頭と上体を抱え起こして、目先で地に根を張っている黒犬を睨みつけてゆく。
「何という事をなさるの。御主人様が、御主人様が……。もう、乙女限界臨界点ですわ! この仇は必ず―――――」
「こら、ヤンファ。私はまだ生きていますよ。早とちりはお止めなさい」
「まあ、私ったら……! ヤダ、お恥ずかしいですわ御主人様。お許しを」
「構いません。そのお気持ちはありがたいです、メルシー、ヤンファ」
そんなこんなセバスチャンとメイドがやり取りを繰り広げていたのを余所に、こちらこちらで、男同士で男らしく一騎打ちを繰り広げていたのだトレヴィアン。
カッペ博士のステッキをすり抜けた黒犬は、素早く切り返して爪をふるうも、ひらりと木の葉が風に扇がれるようにかわされてしまい、空いた背中へと一打を受けた。後ろで着地した黒犬が、博士と向き合うと、今度は地を這うような姿勢をとりその身を低く沈めてゆく。異様なほど鋭利に発達した犬歯を剥いて、赤々と輝く眼をさらに睨みを利かせいった。カッペ博士は博士で、杖を顔の正面に構えて相手を見据えていたのだ。お互いに、真っ向勝負を挑んでいた。やがて、空気が張り詰めきったそのとき、双方の踏み込みがそれを打ち壊した。牙を剥いて迫る黒犬の顔面を、カッペ博士のステッキが正確無比にとらえて、振り下ろされてゆく。この一打が当たった場合、不届きな黒犬の頭蓋骨は縦に割かれてしまう。そう、当たった場合だ。だが、しかし、カッペ博士の手元からステッキが弾け飛んで、その後方の遠くの樹木に当たり乾いた音を鳴らした。
反射的に飛び退いたのちに、己の手をみてみたら、軽い痺れを確認できた。これはいったいどうした事かというと、振り下ろされたステッキが黒い額に触れんかとした寸前で、この黒犬は“後ろ脚で踏みとどまって”身を捻り、次は前脚を地に突けた刹那に後ろ脚を振り上げて、それを手元から蹴り飛ばしたのである。
そういった状況を理解したカッペ博士は、ただちに両拳を顔と胸元の前に構えた。飛びかかってきた黒犬の前脚から身を引いて、脚を振り上げる。鞭のごとき蹴りが、黒い獣を叩きつけて地に転がした。直ちに身を跳ね上げて、カッペ博士の目線までに達した瞬間に、なんとこの黒犬は、後ろ脚で蹴りを連続させたのである。とっさに腕を交差して防いだものの、一撃を胸に受けてしまい、体勢を崩して地に背中をつけてしまったカッペ博士だったが、こちらもすぐさま跳ね起きて踏み込んだ。これはまさに、カッペ博士が会得して尚且つ嗜んでいる、御フランス式ボクシングこと『サバット』と、黒犬の体術との双方の技が交わされてゆく、男をかけた決闘であった。
博士の脚が頭上をかすめ。
黒犬は蹴りで上着を切り裂き。
黒い鼻先を博士の爪先が横切る。
博士の腹を後ろ脚が貫いて。
更にその頭上をかすめた刹那。
カッペ博士はより低く身を沈めるなりに、力の限り地を蹴って跳躍をした。そして、そのままから身を捻って開脚をしたそのときに、遠心力を付加した凄まじい勢いの蹴りが黒犬の首をへし折ったのであるトレヴィアン。何という足技であろうか。
優雅に宙を舞い。
剣と化したその足で斬る。
これぞ、ヴァンダミンアクション。
ヴァンダホーーー!!
その後。
黒犬の亡骸を学会提出のために、学会の面子を立てるために一時的にのみ剥製にして皆の目に触れさせたその翌週で、カッペ博士は丁重に葬ったのであった。
―――Fin―――
最後までお読みしていただき、メルシー。
多分、このような書き物は、もう書けないと思いますセヴォン。多分。
では、またお会い致しましょう。