恩人の顔が思い出せません
人の顔や名前は忘れても、優しさの温度だけは残っている。
これは、忘れた恩人を探しながら、人の優しさを見つめ直す物語です。
人間の記憶ほど、あてにならないものはない。
私はそれを、身をもって知っている。自分の人生で大切だった人たちの顔を、
ほとんど覚えていないからだ。
誤解しないでほしい。私は薄情な人間ではない。
むしろ逆だ。人から受けた恩は、いつまでも大切にしている。
ただ、一つだけ問題がある。
誰から受けた恩なのか、忘れてしまうのだ。
「それ、恩を忘れてるって言うんじゃないですか?」
会社の後輩、山本が言った。
「違う。記憶を忘れているだけだ」
「同じじゃないですか」
「違う。心は覚えている」
「顔は?」
「忘れた」
「名前は?」
「忘れた」
「場所は?」
「だいたい忘れた」
「何を覚えてるんですか」
私は胸に手を当てた。
「温度だ」
山本は黙った。それから真顔で言った。
「田中さん。病院の先生に相談するなら、今ならまだ間に合うと思います」
失礼な後輩である。しかし、私は本気だった。
小学生の頃、転んで泣いていた私に絆創膏をくれた女の子。
高校生の頃、雨の日に傘を貸してくれた誰か。
社会人になり、仕事で失敗して会社を辞めようと思った日に、
缶コーヒーを置いていった人。
どれも覚えている。正確には、そこにあった温度を覚えている。
絆創膏を貼ってもらったときの安心感。
濡れた手で握った傘の柄の冷たさ。
冬の自動販売機から出てきた缶コーヒーの熱。
ただ、顔だけがない。
四十五歳になったある日、私は決意した。
恩人を探し出して、直接お礼を言おう。
妻にその話をすると、三秒ほど黙ってから言った。
「まず確認したいんだけど。その人たち、あなたのこと覚えてると思う?」
私は少し考えた。
「……たぶん」
「なんで?」
「俺がこれだけ覚えているから」
「でも、顔も名前も忘れてるよね」
妻の言葉は、時々鋭すぎる。
それでも私は「恩人捜索ノート」を作った。
一人目、二十年前に焼き芋をくれたおばあさん。
二人目、傘を貸してくれた人。三人目、缶コーヒーをくれた先輩。
たぶん先輩。
手がかりを書き出してみた。
『女性』『優しかった』『たぶん笑顔』『冬だった気がする』。
妻がノートを覗き込んだ。
「これ、探偵でも無理よ」
「愛があれば探せる」
「愛以前に情報不足」
最初に向かったのは、駅前の商店街だった。
二十年前、焼き芋をもらった場所だ。
昔からある店を何軒か回り、八百屋の店主に尋ねた。
「昔、ここで焼き芋を売っていた優しいおばあさんを、ご存じありませんか」
「優しいおばあさん?」
「はい」
店主は腕を組み、私の顔をまじまじと見た。
「田中さん、でしょう。あなた、昔もそんな感じで人を探してましたよ」
「誰をですか」
「自分を助けてくれた人を」
胸の奥が、少し熱くなった。
「その人のこと、ご存じなんですか」
店主は首を振った。
「いや。ただ、あなたは昔から、人の優しさを探して歩いてる人だった」
結局、おばあさんは見つからなかった。
高校の卒業アルバムも開いてみた。ページをめくるたび、
傘を貸してくれた人かもしれない顔が並んでいる。
「全部同じ顔に見えてる?」
妻が横から覗いた。
「いや。全員いい人に見える」
「あなたらしいね」
妻は笑った。
週明け、今度は会社で缶コーヒーをくれた先輩を探すことにした。
当時お世話になった先輩は三人いる。
昼休み、まず鈴木さんを捕まえた。
「鈴木さん、昔、僕に缶コーヒーをくれたことはありませんか」
「ない」
「即答ですか」
「俺は奢るのが嫌いだ。お前には一度、奢らされた」
「そこは覚えてるんですね」
「恨みは温度じゃなく、金額で残る」
残る二人も首をかしげるばかりだった。
先輩の線は、あっけなく消えた。
その夜、古い机を整理していると、
引き出しの奥から一枚の付箋が出てきた。
『田中さんなら大丈夫ですよ』
見覚えのない字だった。名前はない。
誰が書いたのかも分からない。それなのに、十年も捨てずに取ってあった。
私はしばらく、その文字を眺めていた。
やがて、あの夜のことを思い出した。
十年前。大きなミスをして、会社を辞めようとしていた。
誰にも相談できず、夜の公園のベンチに座っていた。
「田中さん、何してるんですか」
声をかけてきたのは、同じ部署の新人だった。
「人生を考えている」
「難しい顔してますね」
彼は笑い、缶コーヒーを差し出した。
「でも田中さん、いつも誰かを助けてますよ。
だから今度は、誰かが田中さんを助ける番です」
缶の温かさは、今でもはっきり覚えている。
あのとき、私は何か答えただろうか。礼を言ったのか、
それとも黙って受け取っただけだったのか。そこは思い出せない。
ただ、彼が立ち去る前に笑ったことだけは、ぼんやりと覚えていた。
顔は、やはり思い出せなかった。
私はずっと、あの人は先輩だったと思い込んでいた。
けれど、そうではなかった。新人だったのだ。
翌日、私は山本に尋ねた。
「山本。十年前、この部署に新人っていたか」
山本は少し考えた。
「ああ。いましたね」
「誰だ」
「僕です」
私は固まった。
「……お前だったのか」
「やっぱり忘れてました?」
山本は呆れたように笑った。けれど、どこか嬉しそうでもあった。
「でも、覚えてたじゃないですか」
「何を」
「温度を」
私は何も言えなかった。
帰宅すると、妻が聞いた。
「恩人、見つかった?」
「たぶん」
「誰?」
私は少し考えた。
「いっぱい」
「相変わらず曖昧ね」
「でも、本当だ」
妻は何も言わず、食卓の上に置いてあった私の湯飲みを片づけた。
翌朝、私は妻に聞いた。
「昨日、俺なんかいいこと言った?」
妻は即答した。
「全部忘れてるじゃない」
私は苦笑した。やっぱり記憶は信用できない。
出社前、駅の自動販売機で缶コーヒーを二本買った。
一本を、隣の席の新人の机にそっと置く。名前は、まだ覚えきれていない。
新人は、きっと不思議に思うだろう。なぜ自分の机に缶コーヒーが置かれているのか。
それでもいい。
私は自分の席に戻った。
缶は、まだ温かかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




