↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

恩人の顔が思い出せません

作者: 黒江秋水
掲載日:2026/10/21

人の顔や名前は忘れても、優しさの温度だけは残っている。

これは、忘れた恩人を探しながら、人の優しさを見つめ直す物語です。

人間の記憶ほど、あてにならないものはない。


私はそれを、身をもって知っている。自分の人生で大切だった人たちの顔を、

ほとんど覚えていないからだ。


誤解しないでほしい。私は薄情な人間ではない。

むしろ逆だ。人から受けた恩は、いつまでも大切にしている。


ただ、一つだけ問題がある。


誰から受けた恩なのか、忘れてしまうのだ。


「それ、恩を忘れてるって言うんじゃないですか?」


会社の後輩、山本が言った。


「違う。記憶を忘れているだけだ」


「同じじゃないですか」


「違う。心は覚えている」


「顔は?」


「忘れた」


「名前は?」


「忘れた」


「場所は?」


「だいたい忘れた」


「何を覚えてるんですか」


私は胸に手を当てた。


「温度だ」


山本は黙った。それから真顔で言った。


「田中さん。病院の先生に相談するなら、今ならまだ間に合うと思います」


失礼な後輩である。しかし、私は本気だった。


小学生の頃、転んで泣いていた私に絆創膏をくれた女の子。

高校生の頃、雨の日に傘を貸してくれた誰か。

社会人になり、仕事で失敗して会社を辞めようと思った日に、

缶コーヒーを置いていった人。


どれも覚えている。正確には、そこにあった温度を覚えている。


絆創膏を貼ってもらったときの安心感。

濡れた手で握った傘の柄の冷たさ。

冬の自動販売機から出てきた缶コーヒーの熱。


ただ、顔だけがない。


四十五歳になったある日、私は決意した。

恩人を探し出して、直接お礼を言おう。


妻にその話をすると、三秒ほど黙ってから言った。


「まず確認したいんだけど。その人たち、あなたのこと覚えてると思う?」


私は少し考えた。


「……たぶん」


「なんで?」


「俺がこれだけ覚えているから」


「でも、顔も名前も忘れてるよね」


妻の言葉は、時々鋭すぎる。


それでも私は「恩人捜索ノート」を作った。


一人目、二十年前に焼き芋をくれたおばあさん。

二人目、傘を貸してくれた人。三人目、缶コーヒーをくれた先輩。

たぶん先輩。


手がかりを書き出してみた。


『女性』『優しかった』『たぶん笑顔』『冬だった気がする』。


妻がノートを覗き込んだ。


「これ、探偵でも無理よ」


「愛があれば探せる」


「愛以前に情報不足」


最初に向かったのは、駅前の商店街だった。

二十年前、焼き芋をもらった場所だ。


昔からある店を何軒か回り、八百屋の店主に尋ねた。


「昔、ここで焼き芋を売っていた優しいおばあさんを、ご存じありませんか」


「優しいおばあさん?」


「はい」


店主は腕を組み、私の顔をまじまじと見た。


「田中さん、でしょう。あなた、昔もそんな感じで人を探してましたよ」


「誰をですか」


「自分を助けてくれた人を」


胸の奥が、少し熱くなった。


「その人のこと、ご存じなんですか」


店主は首を振った。


「いや。ただ、あなたは昔から、人の優しさを探して歩いてる人だった」


結局、おばあさんは見つからなかった。


高校の卒業アルバムも開いてみた。ページをめくるたび、

傘を貸してくれた人かもしれない顔が並んでいる。


「全部同じ顔に見えてる?」


妻が横から覗いた。


「いや。全員いい人に見える」


「あなたらしいね」


妻は笑った。


週明け、今度は会社で缶コーヒーをくれた先輩を探すことにした。

当時お世話になった先輩は三人いる。


昼休み、まず鈴木さんを捕まえた。


「鈴木さん、昔、僕に缶コーヒーをくれたことはありませんか」


「ない」


「即答ですか」


「俺は奢るのが嫌いだ。お前には一度、奢らされた」


「そこは覚えてるんですね」


「恨みは温度じゃなく、金額で残る」


残る二人も首をかしげるばかりだった。

先輩の線は、あっけなく消えた。


その夜、古い机を整理していると、

引き出しの奥から一枚の付箋が出てきた。


『田中さんなら大丈夫ですよ』


見覚えのない字だった。名前はない。


誰が書いたのかも分からない。それなのに、十年も捨てずに取ってあった。


私はしばらく、その文字を眺めていた。


やがて、あの夜のことを思い出した。


十年前。大きなミスをして、会社を辞めようとしていた。

誰にも相談できず、夜の公園のベンチに座っていた。


「田中さん、何してるんですか」


声をかけてきたのは、同じ部署の新人だった。


「人生を考えている」


「難しい顔してますね」


彼は笑い、缶コーヒーを差し出した。


「でも田中さん、いつも誰かを助けてますよ。

だから今度は、誰かが田中さんを助ける番です」


缶の温かさは、今でもはっきり覚えている。


あのとき、私は何か答えただろうか。礼を言ったのか、

それとも黙って受け取っただけだったのか。そこは思い出せない。


ただ、彼が立ち去る前に笑ったことだけは、ぼんやりと覚えていた。


顔は、やはり思い出せなかった。


私はずっと、あの人は先輩だったと思い込んでいた。

けれど、そうではなかった。新人だったのだ。


翌日、私は山本に尋ねた。


「山本。十年前、この部署に新人っていたか」


山本は少し考えた。


「ああ。いましたね」


「誰だ」


「僕です」


私は固まった。


「……お前だったのか」


「やっぱり忘れてました?」


山本は呆れたように笑った。けれど、どこか嬉しそうでもあった。


「でも、覚えてたじゃないですか」


「何を」


「温度を」


私は何も言えなかった。


帰宅すると、妻が聞いた。


「恩人、見つかった?」


「たぶん」


「誰?」


私は少し考えた。


「いっぱい」


「相変わらず曖昧ね」


「でも、本当だ」


妻は何も言わず、食卓の上に置いてあった私の湯飲みを片づけた。


翌朝、私は妻に聞いた。


「昨日、俺なんかいいこと言った?」


妻は即答した。


「全部忘れてるじゃない」


私は苦笑した。やっぱり記憶は信用できない。


出社前、駅の自動販売機で缶コーヒーを二本買った。


一本を、隣の席の新人の机にそっと置く。名前は、まだ覚えきれていない。


新人は、きっと不思議に思うだろう。なぜ自分の机に缶コーヒーが置かれているのか。


それでもいい。


私は自分の席に戻った。


缶は、まだ温かかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。