記憶の年輪
祖母が亡くなったという知らせが来たのは、十月に入って最初の土曜日の朝だった。
ひと月ほど前から、あまり体調が良くないという話は聞いていた。母からも「そろそろかも知れない」と言われていたので、電話で知らせを聞いた時も思ったほどの衝撃はなかった。
「わかった、今からそっち向かうね。うん、じゃあ後で」
私は母からの電話を切ると、淡々と身支度を整えて地元に向かって車を走らせた。
子供の頃に一緒に暮らしていたこともある母方の祖母は、九十を過ぎるまで一人で暮らしていた元気なおばあちゃんだった。
私の母は祖母の長女で、仕事と家事の合間にちょくちょく祖母の様子を見に行ってはいたのだが、一年ほど前、流石に一人で置いておくのは不安だと同居を持ちかけたそうだ。ところが、その話は祖母のほうから断られたという。祖母はなにかとこだわりの強い人で、自分の生活スタイルやペースを他人に乱されるのが何より嫌な人だったのだ。
私が小学校三年生の頃。母が離婚し私と妹を連れて実家に戻ることになり、祖父母の家での同居が始まった。
初めのうちは良かったのだけれど、高校生になった私が放課後にアルバイトを始めると「帰りが遅い」と祖母はよく母に文句を言っていたそうだ。若い娘が夜遅く(と言ってもせいぜい九時くらいの話だが)まで出歩いていることが心配でたまらなかったのだろう。
他にも、遅くまでテレビの音がして眠れないとか、妹が好きで聞いていたハードロックが騒がしいとか……祖母の世代では考えられないような若者の生活スタイルがお気に召さなかったのだ。
ついには「もう無理。出て行って」といわれ、母は仕方なくアパートを借りて母子三人の生活を始めたのだった。
それでも、私は祖母が大好きだった。祖母も初孫の私をとても可愛がってくれて、小さい頃はよく手を繋いで散歩に行ったり、デパートに連れて行ってくれたりしたのを覚えている。とにかくおばあちゃん子で、どこに行くにもお供を買って出た。着物で暮らしていた祖母に憧れて、私も大人になってから独学で着付けを覚えたほど、私は祖母の影響を多分に受けて育ったのである。
そんな大事な人が亡くなったというのに、私の心は驚くほど凪いでいた。車の中にはいつもと同じ音楽が流れ、いつもの帰省と何一つ変わらない空気が満ちている。走り慣れた道、見慣れた風景。地元までは一時間ほどのドライブだ。そのまま祖母の家を訪ねれば、祖母が笑顔で迎えてくれるはず。不思議と、私の中にそれを疑う余地は全くなかったのだ。
祖母の家には、近くに住む妹家族がすでに到着していた。
「お姉ちゃん、おかえり」
そう言って私を迎えてくれた妹は、私よりも先に嫁に行き、すでに幼い二人の子供の母親だ。小さい頃は泣き虫で、母曰く「うるさいからこの子は預かりたくない」と祖母に言われていたという。そんな妹が、今や立派に子育てをしているんだから大したものだ。
「ただいま……おばあちゃん、どこ?」
「お通夜が始まるまで、葬儀場の霊安室に安置されるんだって。お母さんと夏美叔母さんが付き添ってる」
「そう……」
さっきまで当たり前のように想像していた祖母の笑顔が、風に吹き消された蝋燭の炎みたいに、ふっと目の前から消えてなくなった気がした。
ここにはもう、おばあちゃんはいない──
僅かな隙間風が吹き込んだ私の胸に、淡墨のような寂しさがじわりと滲んだ。
妹の話では、自宅での通夜や葬儀は何かと大変だからと、すべて葬儀場で済ませることになったそうだ。母とその妹の夏美叔母さんが相談しながら、式の段取りを決めてくれているらしい。
式に参列する親戚は、さほど多くない。私と妹家族、それに夏美叔母さんの子供達三人とその配偶者や子供達。あとは祖母の甥にあたる敏弘おじさんと奥さんの光子おばさんくらいなものだ。
祖母の兄姉はもう皆鬼籍に入っているし、祖父は二十年も前に亡くなっているから、そちらの親戚筋はほとんど付き合いがない。
葬儀は小さな家族葬で十分だ。気心の知れた身内だけで暖かく送ってあげたいと、母も夏美叔母さんも言っていたという。
通夜の始まる時間まで、まだだいぶ時間がある。私は祖父母と一緒に住んでいた家を懐かしく思いながら、あちこちを見て回った。
古い木製の雨戸。そういえば、この戸袋におもちゃを投げ込んで遊んでいたら怒られたっけ。
厳めしい顔をした達磨さんの置物、夜中に見ると怖くて震え上がったなぁ。
あ、そうそう。この押入れで、かくれんぼしたり上の段から飛び降りたり、妹と二人でよく遊んでた。
どこを見ても幼い日の思い出が鮮やかに甦り、思わず笑みが零れた。
あの頃と何一つ変わらないこの家。庭の木も、玄関の飛び石も、全部が遠い日の思い出に溢れている。何年経っても、いつでも幼い頃にタイムスリップできる、ここは私にとってそんな場所だった。
でも主を失った今、きっとこの古い平家は遠くない未来に取り壊されることになるだろう。家だけじゃない。年季の入った家具も、色褪せたカーテンも、いずれは処分され消えていく。それはつまり、ここでの思い出や祖父母の生活の証も失われていくということ。そして最後には、まるで初めから何もなかったかのように全てが無に帰していくのだ。
そんなの、悲しすぎる──
庭に面した広い縁側で、ガラスの向こうに広がる初秋の庭を見つめて立ち尽くしていた時、背後から名前を呼ばれて振り返った。
「菜月ちゃん、久しぶりだね」
「敏弘おじさん──」
久々に会う敏弘おじさんは、以前会った時よりもかなり歳をとったように見えた。髪は真っ白になり、顔に刻まれた皺も深くなったように思う。それでも、八十を間近にした今でも背筋はしゃんと伸び、黒い礼服をきちんと着こなすあたり、さすが会社を営む現役の経営者らしい風格を漂わせていた。
「おじさん、お忙しいのに来てくださってありがとうございます」
「いや、叔母さんには随分と世話になったからね。最後のお別れをさせてもらいにきたよ」
敏弘おじさんは、そう言って寂しそうに微笑んだ。
「菜月ちゃんはおばあちゃん子だったから、辛いだろうね」
そう言われて一瞬答えに困った。辛くないというのは嘘になるが、まだ受け入れられていないせいなのか、どこか冷めた自分に正直戸惑っていた。
「それが……まだ全然実感が湧かないんです。そのうち、ただいま、なんて言ってこの家に帰ってくるんじゃないかって気がして。だって、この家の何もかもが、何も変わっていなくて。前に来た時と、今日と、何も変わらないのに、おばあちゃんだけが居なくなっているなんて、信じられないんです」
「──そうだよねえ。菜月ちゃんは死に目に会ったわけじゃないし、仕方ないよね」
敏弘おじさんはそう言って私の隣に並ぶと、目を細めて窓の外に視線を向けた。
「でも、人が亡くなるって、結局そういうことなんだよね。その人がこの世から居なくなっても、世界は何事もなかったかのように存在し続けて、日常は当たり前に続いていく。突然何かが、劇的に変わるわけではないんだ」
「ええ、それは……分かります。けど、それって、なんだかちょっと寂しいですよね」
おじさんは「そうかもね」と言って少し笑った。
「だけど、そのおかげで残された人はまた立ち上がって前へ進むことができるんだよ。悲しみのために一時的に足を止めたとしても、自分を取り巻く世界が変わらずに動いているからこそ、また顔を上げて一歩踏み出すことができる。周りまで一緒に悲しみに沈んでしまったら、どこにも這い上がれなくなってしまうだろう?」
敏弘おじさんの話は、近しい人の死に触れた経験があまり無い私でも、なんとなく理解できた。きっとおじさんも、今まで何度もそうして悲しみを乗り越えてきたんだろう。
変わらないものがあるからこそ、人は苦しみや悲しみを越えていける。
でも、そうだとしたら、変わらざるを得ないものに対する悲しみは、どうしたら良いのだろう──
「おじさん。この家、もし誰も住むことがなくなったら、いつかはきっと処分されちゃうんですよね。そうなったら、今私が見ている景色も感じる匂いも、全部この世から消えて無くなってしまう。大切な思い出も、おばあちゃん達の生きた証も全て消えてしまうような気がして、それがすごく悲しいんです」
どこまでも優しい眼差しを湛えた敏弘おじさんは、私の背中をとんとん、と宥めるようにそっと叩いた。
「ねえ、菜月ちゃん。ちょっと考えてみてごらん。過去というのは、膨大な秒数の『今』が積み重なって出来たものだよね。たった今、菜月ちゃんが現在だと思っている時間は、過ぎ去った時点で過去になる。てことは未来も、過去と今が積み重なって出来ていくってことになるだろう?」
私は、おじさんの顔をじっと見て頷いた。
「だから、今がある限り過去は決して消えないし、この一瞬に抱く感情や想い、聞こえた音、匂いまでも、全てが君の記憶の中に積み重なって、生きている限りずっと、未来に残っていくんだ。まるで年輪みたいなものだね」
決して消えない、記憶の年輪──
「菜月ちゃんの思い出は、たくさんの『今』が積み重なって出来たものだ。消えたら悲しいと思うってことは、きっとその時々がとても素敵な時間だったってことだよね。この家でその時間を共に過ごした叔母さんも、きっと幸せな『今』を感じていた筈だ。それを君の記憶の年輪に刻み込んでくれたのなら、この家も彼女の生きた証も、決して消えることはないよ」
気付けば、私の頬を涙が伝っていた。
「おじさん。私、おばあちゃんと一緒にこの家で暮らした日々が大好きでした。おばあちゃんのことも、この家のことも、私の記憶の年輪にしっかり刻み込まれてる」
そしてそれは、私が生きている限り、絶対に消えたりしない──
「いつか、私も誰かの年輪に刻んでもらえるように、素敵な今を重ねていけるかしら」
涙を拭う私の背中に、おじさんの陽だまりのような手の温もりがじんわりと伝わった。
「菜月ちゃんなら、きっと大丈夫。だって、叔母さんの姿を間近で見ながら、大きくなったんだもんね」
「はい」と頷く私に、おじさんは優しく微笑んで頷き返してくれた。
そう、きっと大丈夫。私はおばあちゃんからたくさんの記憶を受け継いだのだから。
そして、今のこの瞬間も、私の中の記憶の年輪に、深く刻まれていくことだろう。




