灰色の瞳の逆転
薄暗い部屋の片隅で、エレノアは息を潜めていた。
ヴァルドラン家の最奥、窓のない石室。鉄格子が嵌められた扉の向こうから、時折使用人の足音が遠ざかる。
彼女の手は、常に黒い革の手袋に覆われていた。触れたものを腐らせる呪い――生まれた瞬間から宿った、血統の汚れ。
花は枯れ、果実は黒く溶け、動物は触れた瞬間に息絶える。人間に触れれば、皮膚が爛れ、肉が落ちる。
家族は彼女を「穢れ」と呼び、幽閉した。
「役立たずの末娘」などと。エレノアは諦めていた。
だが、ある夜、古い書架の奥から落ちてきた一冊の革表紙の本が、すべてを変えた。
祖先の隠し記録。そこには、こう書かれていた。
『呪いは、ただ腐敗させるものではない。選択的に腐らせることも、逆転させることも可能である。だが、それは己の肉体を賭けた試行錯誤の果てにのみ得られる』
彼女は迷わなかった。
手袋を外し、掌に小さなナイフを当てる。
血が滲み、すぐに黒く変色し始めた。
痛みは激しかった。だが、エレノアは目を閉じ、集中した。
「腐敗を……止める」
最初は失敗した。指先が黒く枯れ、肉が剥がれ落ちた。
それでも、次の夜、また同じことを繰り返した。
三日目、四日目。
五日目の夜、ようやく――腐敗が、途中で止まった。
黒い縁が、ゆっくりと後退していく。
彼女は震える手で鏡を見た。
灰色の瞳が、わずかに光を宿していた。その夜、屋敷に異変が起きた。
父が密かに交わした取引。
「呪いの娘を、政敵の息子に近づけ、触れさせて殺せ」
エレノアはそれを耳にした瞬間、決めた。
逃げる。夜の森は冷たく、足元は泥濘んでいた。
手袋を外した手で木の幹に触れると、樹皮が黒く腐り落ちる。
彼女は走り続けた。
やがて、倒れ込むようにして小さな泉のほとりに辿り着いた。
そこに、一人の少女がいた。
リリア。
王女の側近と名乗った少女は、両目を布で覆い、震えていた。
「呪いで……視力が奪われていくんです。もう、誰も助けてくれない」
エレノアは、初めて誰かに触れようとした。
「私が……試してみる」
リリアは怯えたが、拒まなかった。
エレノアは、少女の瞼に指を添えた。
腐敗が広がる。
リリアが悲鳴を上げた。
エレノアは慌てて手を引いたが、すでに遅かった。
少女の目元が黒く変色し、涙が血のように滲んだ。
「ごめん……ごめんなさい……」
それでも、エレノアは諦めなかった。
森の奥で隠れながら、何度も何度も試した。
自分の指を切り、腐敗を止め、逆転させる。
痛みで気を失い、目覚めてまた繰り返す。
三日目の夜。
ようやく、腐敗が「逆流」した。
黒い染みが後退し、リリアの目元が、ゆっくりと元の色を取り戻していく。
少女は布を外し、涙を浮かべてエレノアを見た。
「……見える。あなたが、見える」
その頃、王都では危機が迫っていた。
王女が、意図的に血統呪いをかけられていた。
触れるものを腐らせる――エレノアと同じ呪い。
宮廷の解呪師たちは匙を投げ、誰も近づけなかった。
リリアが王女に伝え、エレノアの存在が知られた。
「彼女なら……できるかもしれない」
王宮の奥深く。
エレノアは王女の前に立った。
王女の腕はすでに黒く腐り、肉が落ちかけていた。
「あなたは……私と同じ呪いを持っているのね」
王女の声は弱々しかった。
エレノアは頷き、手を差し出した。
「私が、吸収します。私の体で、中和します」
周囲が息を呑んだ。
そんな術など、聞いたこともない。
エレノアは王女の腕に触れた。
腐敗が、爆発的に広がった。
彼女の体中を、黒い染みが駆け巡る。
痛みは、これまでで最も激しかった。
視界が揺れ、膝が折れそうになる。
それでも、彼女は集中した。
「腐敗を……逆転させる」
自分の呪いを、相手の呪いに重ね、
中和する。
吸収する。
灰色の瞳が、燃えるように輝いた。やがて――
王女の腕から、黒い染みが消えていく。
完全に、消えた。
王女は息を吐き、涙を零した。
「……ありがとう」
エレノアは倒れ込んだ。
体は限界だった。
寿命は、さらに削られた。
だが、彼女は静かに微笑んだ。
「これで……いい」
数日後。
王都の片隅に、小さな建物が建てられた。
看板には、こう刻まれていた。
「灰色の解呪所」
エレノアは、そこに立っていた。
手袋は、もう外していた。
灰色の瞳は、穏やかに輝いていた。
リリアが隣に立ち、微笑む。
「これから、たくさん人を助けましょうね」
エレノアは頷いた。
呪いは、弱さではなかった。
ただ、彼女が自分で切り開いた道だった。




