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初恋摘出手術

作者: 村崎羯諦

「すいません。彼氏の高校時代の初恋を摘出して欲しいんですが、それって保険って効きます?」

「ええ、恋は病ですからね。きちんと保険は効きますよ」


 私の回答に、彼氏と共に来院してきた女性は安心したように顔を綻ばせた。それから私は医者として、初恋摘出手術についての説明を始める。


「この初恋摘出手術というのは名前の通り、彼の初恋に関する記憶や感情を摘出する手術です。頭にドリルで穴を開けて、海馬と呼ばれる脳の領域のさらに一部分を切り取ってしまいます。ニュースで見たことがあるかもしれませんが、この海馬には初恋の記憶に関係する領域が存在することがわかっていまして、そこを綺麗に切除することで、初恋に関する記憶と感情すべてを消すことができるんです」

「手術が失敗したり、副作用があったりするんでしょうか?」

「もちろん人の手によって行われるものですので、100%成功を保証できるわけではありません。ただ、それほど難しい手術ではありませんので、手術が失敗する確率は1%にも満たないと言われています」


 彼女が横に座っている彼氏にだってさと呟き、彼氏は複雑そうな表情を浮かべた。それから彼女が私の目をじっと見つめ、手術に対する並々ならぬ思いを語り出す。


「彼とは今結婚を真剣に考えているんですが、高校時代の初恋の思い出が忘れられないそうなんです。もちろん最初は理解して受け止めてあげようとしていたんですが……私はその初恋相手への嫉妬で苦しくなるばかりだし、彼氏は彼氏でもう戻れない思い出に縋るだけしかできないしで、お互いにただしんどいだけなんです。だから、二人で話し合って、いっそのこと手術で忘れてしまおうねって決めたんです。先生なら私の気持ちわかってくれますよね?」


 彼女の力強い言葉に私は頷いた。


「お気持ちはわかりました。ですが、実際に手術を受けるのは辻健斗さんですので、同意書へのサインは彼にやっていただく必要があります」


 私がそう言って、彼に手術を希望するか問いかける。彼は少しだけためらった後で、隣にいる彼女に視線をやり、それから覚悟を決めて力強く頷いた。


「正直、今でもあの初恋のことを引きずってる自分に呆れているんです。初恋と言っても、片思いで終わった恋ですし、その気になればその人と連絡を取ることだってできるはずなのにそんな勇気もない……。ただただ苦しい思いを彼女にさせるくらいだったら、手術をして忘れてしまいたいんです」


 わかりました。私は頷き、手術に関する事務的な説明に移った。手術の同意書へのサイン。手術の費用。術後の経過観察や、注意事項など。彼女が見守る中、彼氏は躊躇いからか時折ペンを止まらせながらも、一つずつ手続きを進めていく。


「それでは手術室へ行きましょうか」


 すべての手続きが終わり、私は彼にそう促した。彼女さんには待合室で待ってもらうようにお願いし、看護師とともに手術の準備を進めていく。


「この手術が成功した場合には、辻さんの初恋に関する思い出はすべて失われます。最後に何か言い残したことはありますか?」


 手術台に寝かされた彼に私が問いかける。彼は手術室のライトを焦点の定まっていない目で見つめながら、ぽつりぽつりと語り始める。


「あれは、高校二年生だったんです。今では顔だってぼんやりとしか思い出せないんですが、間違いなくあれは僕の初恋でした。同じ大学を志望していた女の子で、高校の図書室で一緒に勉強をしたり、課外授業後に一緒に帰ったり……。今から見たらそれだけで好きになるなんてって呆れちゃうかもしれませんが、本当にあの子のことが好きでした。でも、結局彼女だけが志望大学に合格して、僕が受験に落ちてしまって……自分の情けない男のプライドのせいで彼女にどうしても連絡ができなくなって、それっきりなんです。もし、あの頃、つまらないプライドを捨てて連絡を取っていたらと今でも思うんです。今更そんなことを後悔しても仕方ないんですが」


 そうですか。私は彼の語りにじっと耳を傾け、ゆっくりと頷いた。麻酔科医によって麻酔注射が打たれる。彼の瞼が完全に閉じるのを確認する。それから、私は深呼吸をし、手術の開始を告げた。






*****






「手術が失敗って……一体、どういうことなんですか!? 99%成功するって言ったじゃないですか!」


 血相を変えて病室へ入ってきた彼女を看護師たちが必死に宥める。私は頭を包帯で巻かれ、ベッドに寝かされた彼と彼女を交互に見つめ、大変申し訳ありませんと深く頭を下げた。彼女は動揺で狼狽えながらも、彼は一体どうなってしまったんですか?と尋ねてくる。


「事前にお伝えした通り……初恋の思い出を忘れることはできず、逆に今では症状が悪化してしまっています」

「どういうことですか?」

「つまり、今の辻健斗さんは初恋のことしか考えられない状態になってしまったということです」

「そんな!!」


 彼女が声をあげ、それからその場で泣き崩れた。そのまま看護師に付き添われながら、彼女が病室を出ていく。私と看護師、そして、術後の彼は黙って見送ることしかできなかった。


 私は彼に向かって頭を下げ、手術の失敗を再び謝罪した。彼はどこか放心状態で、運が悪かっただけなんで気にしないでくださいと答えるだけだった。


「もうこうなってしまった以上、彼女とは別れるしかないと思います。それに、ひょっとしたらこれは僕への一種のお告げなのかもしれません」

「お告げ?」

「手術を受けようとしてもこの初恋は消せなかった。つまり、これは僕の人生にとって忘れるべきではない思い出ということなのかもしれない」


 それから彼は顔だけをこっちに向け、私の目を見て語った。


「むしろこの手術が失敗したことで決心がつきました。もう一度、あの頃の気持ちと向き合ってみたいと思います」


 そうですか。私は相槌を打ち、それからもう一度手術に失敗したことを詫びて頭を下げた。それから彼のアフターケアを看護師に任せ、一人病室を後にするのだった。





*****





 それから一週間後。手術失敗については無事に示談が成立した。手術の失敗に関する報告書を書きながら、私はふうっとため息をつく。すると、気を利かせた看護師がお疲れ様ですと声をかけてきて、そっと温かいお茶を机の上に置いてくれた。


「まあ、何事も100%成功なんてありませんからね。あんまり気を落とさないでください」


 ありがとうございます。私は彼女にお礼を言いながら、入れてくれたお茶に口をつけた。


「でもまあ……」


 看護師は手を顎に置きながら、感慨深く言葉を続けた。


「今まで一度だって手術を失敗させたことのない、()()先生が失敗するなんて、私たち看護師たちも驚いてますよ。ただ、若いうちにこういった失敗を経験しておくことは、長いキャリアを考えると逆によかったのかもしれませんね」


 私は看護師の気遣いにお礼を言って、力無く微笑む()()をした。それから事務的な話を二言三言話してから、看護師は部屋から出ていった。私は看護師が部屋から離れていったことを確認してから、もう一度彼のカルテを画面に表示する。今まで数え切れないほどの初恋を摘出してきた。また、こういう仕事をしているからか、初恋は摘出するものだという考えを持つ人が大多数だ。だからこそ、私自身がまだ初恋を摘出していないと話すと、周りの人はみんな驚いた表情を浮かべるし、今までもいっそのこと摘出してしまおうかと考えたこともあった。


「でも、初恋を摘出しなくて本当に良かった……」


 私は彼のカルテを見ながら、思わず本音がこぼれ出してしまう。そして、そのタイミングで私の携帯に電話がかかってくる。私は画面に浮かんだ名前を確認し、そっと微笑んだ。そして、ゆっくりと焦らした後で電話に出て、念の為誰にも聞かれないように窓際に行く。


 緊張して少しだけ上擦った声。そして、あの頃と変わらない、優しくて親愛に満ちた声。私は抑え切れない愛しさをぐっと抑え込みながら、電話の向こうにいる彼に返事を返すのだった。


「もちろん覚えてるよ。健斗くんのこと、忘れるわけないじゃんか。でも、一体どうしたの? 十年ぶりに電話なんかかけてきて」

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