内乱のローマ
時は、ローマ内乱の一世紀、シシリーの奴隷反乱、剣奴の反乱が渦巻く激動の時代。これは一人の剣奴の、愛と悲劇の人生の物語である。
雷鳴のごとく轟く歓声と罵声が場内を切り裂く。
「逃げるのかね、サラミス」。
サラミスはがっくりと片膝をつき、そのしなやかで長い髪を黄土色の砂の上に投げ出した。美しい金色の髪は、ざらざらとした砂と混じり合い、まるで土気色に変色していくかのようにピレヌには見えた。
「もし君が今、私と戦わないというのなら、即座に獅子が放たれるだろう。私たちの肉が貪られる様子を最上の快楽としている下劣な連中が、今、あのように狂い、泣き叫んでいるのだ」。
地下に埋められた木製の折の中からも、おそらく数匹の、血に餓えた野獣の咆哮が地鳴りのように二人の足元に振動する。サラミスにとっては、その血に餓えた野獣の咆哮さえ、いまや悲しげな響きとなって、いまだに鼓動し続ける心臓をすりぬける。
「君と戦うことなど、私にはできない。身なし児だった私を拾い、今まで支え、勇気づけ続けてくれたのは君ではないか。君も同じだ。両親を失い、ともに歩んできたこの四半世紀をこのような形で決着させるのが、君の希望だったのか」。
ピレヌは黙して語らない。
「二人で切り抜けよう。今までも同じような試練を二人で切り抜けてきたではないか。数匹の獅子などかたづけるのは、難しいことではない。それに、あの残虐無知な王の罠なども目に見えている。この場外、場内といわず、重層歩兵をみっしりと忍ばせているのだろう。いずれにしても一人ではやりすごすことなどできない。それに、私たちの仲間の剣奴たちも私たちの助けとなるため、必ずどこかに潜んでいてくれているはずだ」。
ピレヌは黙した口を開かざるを得なかった。いや、いずれ伝えねばならぬとも思っていた。サラミスには人を惹きつける天性の魅力と、集団をまとめあげるカリスマ的な力が備わっている。今のままの弱い心では、この先、血の通わぬあの王の蜘蛛のような冷酷で非道な網をくぐり抜ける事はできない。
「仲間は死んだ。ほとんどがね。私の目の前で、口を塞がれ切り刻まれたのだよ。君にだけは見せずにね。それも、あの王の、最後に君に孤独な地獄を見せるための楽しみのためだろう。今戦わなければ、いずれにせよ、二人ともあの王のなせるままなのだよ。立て、サラミス。君が立たぬのなら、今ここで、君の首をはね、私も死のう。最後なら、思う存分今までの私たちの、美しいとはいわずとも、壮絶な戦いの人生をここで奴らに見せつけようではないか」。
サラミスは思った。そうか、私も死のう。そして、死ぬなら闘って。
「剣を交えよ!」ピレヌが叫んだ。
サラミスの反応は速かった。サラミスの強健でしなやかな剣が真一文字にピレヌの横腹の空気を切り裂いた。場内の空気が一瞬静まったその次の瞬間、さらなる狂音が場内を轟かせた。
「よしわかった。共に闘い、共に死のう」。
「そうか、それではいくぞ、サラミス」。
ピレヌの重厚でありながらゆるやかにしなる剣がまっすぐにサラミスに振り下ろされた。ピレヌの剛剣は岩をも砕いたが、サラミスの体に触れることさえできない。サラミスはピレヌの剛剣をかわすたびに思った。先にこの剛剣に打ち砕かれようか。しかし、サラミスの体は逆にいうことをきかない。百戦錬磨の戦いで身についたその体さばきは、無意識のうちに敵から逃れるすべを知っている。
「剣を振れ、サラミス!」ピレヌの怒涛の叫びがサラミスの脳髄を貫く。
サラミスが偽りの剣を振り続けてからいくらが経っただろうか。ピレヌの全身全霊をかけた渾身の一撃が再びサラミスの頭上に振り下ろされた。刹那、サラミスの中の闘いの神が眼を覚ました。
鈍い音と共にピレヌの頑強な両膝がまだ新しい黄土色の地面に埋め込まれた。
ピレヌの右横腹、肝臓あたりに突き刺さったサラミスの長剣の切っ先から、鈍い紅のしたたりがサラミスの指先にまで伝わる。
「こうなるのは初めからわかっていたさ」。ピレヌが呟く。
徐々に青ざめるピレヌの顔をサラミスは、幼子のような顔つきで、伏目がちに覗き込んだ。
「君には、今まで一度たりとも勝つ事はできなかった。君の剣は風。疾風の如く駆け抜けてきた君の姿を、私はうらやましくも思ったことがある。これからは、私の血も肉も大地に生える樹となって穏やかに、その風を感じつづけよう…」。
サラミスが再び我に返る。サラミスの生きた短剣が、サラミス自身の首に鼓動する大動脈めざして鋭くシュンと声をあげた。
「逃げるのかね、サラミス!」
小さな生き物のように小刻みに震えるサラミスの短剣が、それを防いだピレヌの肉厚の手のひらを突き抜けて、皮一枚のところでいまだに息をしている。
「君には愛するシリアがいる。そして、もう一人の最強の剣奴マウリヌスが逃げのびて、今、かろうじて生きのびた仲間とともに、シシリー島で再起を図ろうとしている。彼もそして彼女も君を信じて待っているのだ。王も君をすぐには殺しはしない。この私を倒したのだからね。観客も黙っていないだろう。生きて機を待て」。
サラミスは短剣を引き抜き、すっくと立ち上がり、ゆっくり後ろを振り向き、短剣を再び強く握り締めた。
「まだ分かってくれぬのかね!!」。ピレヌはもはや消えかかった命の限りをふりしぼって、涙と共にサラミスの背中を見た。
「いいや、見えるかね、ピレヌ。あの高みの玉座から私たちを見据える王の顔が」。
サラミスの小さくも呻るような声が、涙に濡れ、真紅に染まったピレヌの身体を通して、場内に低く響き渡った。