第70話 なにもしない男
闇が晴れることはない。二度と私を光が照らすことはない。
それでも、まどろみの中、必死に手を伸ばす。
醒めない悪夢の果てに、たった一つだけ残ったもの。
止めて――! それを奪わないで!
なにもかも失くして、何一つ守れなくて。
どうして生きているのか、それさえも曖昧なこんな世界で。
それだけが、希望だったから。
それだけが、生きる理由だったから。
急速に力が奪われていく。
強烈なまでの喪失体験。
どうしてこんなことになったのか。
そんな無意味な疑問を幾万も繰り返して、現実から目を背け続けてきた。
それでも変化は日に日に表れる。
望まぬ、おぞましい身体の変化。
幾ら否定しても本能がそれが何かを理解していた。
私は何もできず、されるがまま月日だけが過ぎていく。
死ぬことさえ許されず、殺すことさえ許されない。
そして今、最期に縋った決意さえも霧散していく。
愚かな私には、もう何も残っていなかった。
◇◇◇
「待ってくれ。その話が事実だって確証は?」
「その質問に意味はありません。信じるも信じないも貴方達次第です」
聖女の来訪と共に突如ギルドへと持たされた情報は、ハイデルやミゲルを以てしても理解の範疇を逸していた。
中央ギルド本部の応接間にいるのは四人だけだ。人払いも済ませてある。どんな些細な情報でも外に漏らすわけにはいかなかった。防諜には細心の注意を払っている。それでも、事の重要性に自然と緊張が高まっていく。
張り詰めた空気の中、ミロロロロロが重く口を開いた。
「どちらにせよ、真実かどうかはすぐに分かります。ですが、それが分かってから動き始めることは、悪戯に被害を拡大させることだとご理解ください」
「……そうは言ってもなぁ」
渋面でハイデルは唸る。これまで隣で黙って話を聴いていた妙に派手な衣装を着こなしているマリアが口を開く。
「それでクレイスさんは、どうされるんですか?」
「……あの方は、なにもなさいません。いえ、むしろ協力を求めることは不可能でしょう」
ミロロロロロとて半信半疑なことに変わりはない。久しぶりの聖女口調に若干煩わしさを感じながらも、こうして今、この場にいるのはそれだけ火急の事態だからだ。ミロロロロロだけではない。ミラやドリルディアもまたそれぞれ各所に話を付けに行っているはずだ。
事情を知るのは各国の首脳や組織のごく一部になるだろう。だが、何も知らないままでいるよりは意志の疎通もし易いはずだ。クレイスが自分達に伝えたのはそれを見越してのことだろう。ある意味、これこそが温情とも言える。
「ゴールの決まっている戦争だって? また随分と厄介な……」
「力を貸すつもりはないだと。甘えるなと、そういうことか」
クレイスはミロロロロロ達にありのまま事実を伝えた。そして、それが何をもたらすのかも。これから起こり得る戦争。それは到底、戦争と呼べるものではない。たった一人だけの無謀な反逆、或いは現代への挑戦か。本来ならば考慮にも値しない。それを伝えたのがクレイスでなければだが。
相手がどれほどの力を持っているのかも分からない。ミロロロロロもまた話を聞いただけだ。それでも、その男が、それを成すだけの力を持っていることを他ならぬクレイス自身が認めたならば、それは紛れもなく脅威だった。
結局、ヒノカ・エントールの詳細も掴めていない。リミットまでになんとか二人を引き合わせたかったが、恐らくもう間に合わない。そしてこれだけの事態、ミロロロロロも聖女として、そんなことに時間を割いている余裕はなかった。これからかつてなく忙しくなるはずだ。【聖女】としての責務を果たさなければならない。
「これは神託です。戦う相手も、その動機も、勝つ為に必要なことも分かっている。世界を救いたいのならば、私達はそれを忠実に実行せねばなりません」
「この世界を茶番に巻き込むつもりかクソ!」
「クレイス君が一人で相手を倒してくれれば、何も起きずこのまま現状維持で世界は救われる。けれど将来的に滅ぶ、と。なるほど、なんとも困った状況だね」
苦笑するミゲルに不安げなマリア。
クレイスは何もしないとミロロロロロ達に言った。頼ることはできない。考えてみれば当たり前だ。未来を切り開くことをただ一人の個人に依存し頼りきる、この世界がそんなにも脆弱ならば、ただ一人の個人に滅ばされることもまたあり得るだろう。
「やるべきことは山積みです。エルフ族には多少の伝手がありますが、魔族とは敵対し続けてきました。他種族との交渉は完全に未知数です」
「今のままなら難しいだろうね。なんらかの動きが見えてからじゃないと相手が交渉のテーブルに乗ってくれるかどうかも怪しい」
「黄金時代ねぇ。俄かには信じられない話だ」
あらゆる種族が融和し暮らしていた黄金時代。
そんなものが存在していたなど、聞かされた今でも夢物語のように現実感がない。
ましてやその頃から生きていた人間がいるなど、馬鹿げた妄想でしかなかった。それでも間接的ではあるが、ミロロロロロもまた目にしてた。森の中で出会った黒いエルフ。ダークエルフ達は、見たこともないような高度なテクノロジーを有していた。
エルフ族については幾らか知識を持っている。エルフは森の民だ。だが、ダークエルフ達が住んでいたのは森の中に存在する自然の集落ではなく、機工によって整備された街だった。
転移させる際、脱出用にダークエルフ達が準備していたという鋼鉄の機功船を見かけたが、黒金に輝くその威容は、人間種族には存在しえない技術体系だった。
人間が劣っているとは思わない。エルフが劣っているわけでもないはずだ。どんな種族にも得手不得手がある。それぞれが短所を補い、長所を伸ばす。そんな時代があったのならば、今より遥かに優れた文明が存在していたとしてもおかしくはない。
我々、人間はあまりにも他の種族のことを知らなすぎるのかもしれない。そんな漠然とした疑問がよぎる。魔族もまた、人間に仇名す相手だとそう教えられてきた。だが、今になって思う。
――それを教えたのは果たして誰だったのかと?
「ところでそのクレイス君は何処にいるんだい?」
「高濃度魔力汚染地域です。つまり、私達からはもう呼びに行くことができません」
「八方塞がりか。そもそもアイツはそんなところで何をしてるんだ?」
「分かりません。ですが、一つだけ言えることがあります」
クレイスが高濃度魔力汚染地域から出てこない限り、アプローチを掛けること不可能だ。同じ質問をミロロロロロもクレイスにぶつけたが、要領を得なかった。それでも、それが何を意味しているのかだけは理解できる。
「――我々は既に退路を絶たれています」
◇◇◇
「どうして……このままでは本当に」
「姉上! 安静にしていてください」
「そういうわけにもいかないでしょう」
心配させまいと笑顔を浮かべるが逆効果だったかもしれない。妹のトトリートが悲し気な表情を浮かべる。優しく頭を撫でるが、これからどうすれば良いのか、幾ら考えても答えが見つからない。
病み上がりだが、だからといってジッとしているわけにもいかない。エルフ族にもその情報はもたらされていた。だが、開かれた会合の結果は散々なものだ。ダークエルフの存在も、これから起こり得る争いも何一つ自覚していない。まるで危機感がなかった。
「我々はどうするのですか姉上?」
「……分からないわ。トトちゃん、私達が勝てると思う?」
「不可能です」
トトリートは即答する。クレイスの話は突拍子もないものだったが、それでももし仮にそれが事実だとするならば、絶対に自分達は勝てない。魔獣でさえどうにもならなかった。それを苦もなく消滅させるような存在と同等、或いはそれ以上の化物と戦って勝てるなどイメージすら湧かない。
「それにシェーラ達のことだってもっとどうにか……」
「そうね……」
心痛にトトリトートの表情が沈む。五大老達は非干渉を選んだ。だが、もしこれから起こることが事実なら、それで済むはずがない。にも関わらず、いつだって彼等はそれを選ぶ。まるで危機感がなかった。
魔獣の討伐も族長の責務としてトトリトートが立ち上がったが、彼等は何もしていない。老人が尊とばれるのは、これまで長く生きてきた経験と知見があるからだ。正しい方向に導く、そんな存在だからこそ重宝される。
しかし、それを持ちえない老人がいるとするならば、それは長く生きただけの老害でしかなかった。非干渉を貫き、森に引きこもり、現実から目を逸らすだけなら、いずれ滅びの道を辿ることになるだろう。魔獣との争いを経て、トリトートはそうした想いを強くしていた。
「トトちゃん。もしかしたら私達は大きな決断をせねばならないかもしれません」
◇◇◇
「どうするんだシェーラ?」
「はぁ……。まったく、どうすればいいのかしらね」
ジールに言葉に改めて考え直すが、正解など存在しない。いつだって未来は分からない。だからこそ決断には価値がある。そしてもう二度と自分達は間違うことは許されない。
「今更、アイツ等と協力なんてできないぞ」
「私だってそうよ」
エルフ族にもたらされた情報と同じものを、シェーラ達、ダークエルフもクレイスから聞いていた。これから何が起こるのか、その為に必要なことも。
しかし、その選択をシェーラ達が選ぶ事は心情としてもあまりにも困難だった。あの地獄から救い出してくれたクレイス達、人間達ならいざ知らず、エルフ族と協力して事に当たるなど絶対にできない。少し話しただけでも、シェーラ達にとっては余りにも信用ならない相手だった。誰もがトトリートのように純粋ではないのだから。
「彼は協力しろとは言わなかったよね?」
「あ、あぁ。それはそうだが……」
高濃度魔力汚染地域に閉じ込められていたシェーラ達にとって、その脅威はエルフ族の非ではない。直感が全ては事実なのだと告げていた。ならば、どうすれば良いのか、他種族と協力するようなことも、今の疲弊した自分達では難しい。
「……私達は独自に動くわよ」
「それしかないか」
「これから世界の構図が入れ替わるのだとしたら、復讐するチャンスだって来るかもしれない。今度こそ上手く立ち回ってみせる」
かつて裏切られ切り捨てられた。生きることさえも精一杯で、閉じ込められた地獄で必死に抗ってきた。だからこそ、そんな過ちはもう繰り返さない。ならば、自分達に出来る事は機を見て敏に動くことだけだ。
「悲劇は一度で十分なの。今度こそ私達が勝ってみせる」
それぞれの思惑が交錯する中、着々とその時は迫っていた。




