あやしの夜
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おおっと、こーらくん。まだ残っていたのか。ぼちぼち下校時間だから、帰りなさい。
そりゃ日が伸びて、この時間帯でも夕方って気はしづらくなったさ。でも、そろそろ日差しも赤くなりだしている。こうなってからはあっという間に暗くなるから、危なくなるよ。
なあに、通り魔とか不審者だけの問題じゃないさ。この学校そのものだって、安全とはいえなくなるんだからね……。
ふふ、そう振ると怖がるより興味を持つのが、こーらくんらしいっちゃ、こーらくんらしいか。じゃあ先生が昔に体験した、ちょっぴり不思議な話をしようか。
実は先生も強くはいえないが、児童だったとき学校に遅くまで残ることが多かった。
当時は屋上へ自由に出入りができてね。その貯水槽の上に腰掛けながら、夕日が沈んでいくのを見るのが好きだった。そしてこーらくんのように、教員がたにたしなめられていたっけね。
で、先生の学校における心がけの中に、「10円玉の入ったお守り袋を、肌身離さず持っておくべし」というものがある。
携帯電話の普及した今じゃピンとこないかもだが、あのころは公衆電話がたくさんあってね。10円玉はその電話料ということさ。何かしらのトラブルに見舞われた時、家の人と連絡が取れるようにね。
先生も最初はそうだと思っていたんだけど、かつて学校を卒業した先輩である兄ちゃんの話では、別の使い道があるらしいとのこと。
それがあまりにシュールだったから、その時になるまですっかり忘れていたんだけどね。
やがて迎えた年度末。先生は家に帰ってしばらくしてから、忘れ物に気がついてしまう。
たしか鍵盤ハーモニカだったな。学校が早く終わるのをいいことに、すぐさま校舎を飛び出した先生は、これの存在をほっぽらかしたまんまだった。母親に指摘されて、はじめて気がついたくらいだよ。
それでしぶしぶ、学校まで取りに戻ったのさ。
――教員がたも、気がついたなら連絡してくれりゃあいいのに。
そんなことをぶつくさいいながら、閉じていた校門をひょいと乗り越えた。
職員室には明かりが灯っていたものの、先生は気取られないように、昇降口の戸をそっと開ける。そのまま靴を持ってかがみながら、足早に廊下を駆け抜けた。
本来なら待機している教員の誰かに、断ってから入るべきだったろう。だが、職員室に声をかけていくのって、ものすごく勇気がいることじゃないか?
たいていは怒られるために赴く場所であって、ぜんぜんいい印象がない。ばか正直に用件を述べたところで、お小言がくっついてくるに決まっている。
だったらこっそり用を済ませ、あたかも何事もなかったかのように撤収するのが、カシコイやり方というものだ。
先生の教室は校舎の2階にある。西と東にひとつずつある階段のうち、東側を上がってすぐのところだ。
お目当ての鍵盤ハーモニカは、ご丁寧に先生の机のわきに置かれたままだった。帰りの学活のとき、これだけ机の上に乗せられず床に鎮座していたんだ。誰も手を出さなかったのは幸いだったが、これならこれで、ますます連絡のひとつもよこしてほしい気もしたよ。
とにかく任務は達成。すみやかにその場を去ろうとした時だ。
先生の耳に飛び込んできたのは、幼い子供の泣き声。ひっく、ひっくとしゃくりあげる音が、こことは反対。校舎の西の方からかすかに聞こえてくる。
こんな時間に、自分以外の子供が? と思いつつ、廊下に出かけた先生だが、びくりと身体を飛び上がらせて、すぐに教室内へ戻ってしまう。
先ほどまで、両腕に鳥肌が立つ冷たさだった空気が、とてつもなく熱い。エアコンの空調とかそんなレベルじゃなく、沸騰したヤカンを直接肌に押し当てられたかと思ったよ。
土のうを背にする兵士のように、座り込みながら教室の戸に隠れる先生。不思議と、この戸を隔てた教室の内側は、涼しげな空気を保っていたんだ。
この状態に、先生の頭の中で兄ちゃんから聞いたばかりの言葉がよぎる。
「うちの学校はな。夜の間、太陽の通り道になることがあるんだ」
泣き声はしゃくりあげるものから、えーん、えーんとはっきりとした声へと変わる。
とたん、先生が背中を預ける戸もあっという間に熱くなって、肌がちりちりと叫びをあげる。もっと奥へ逃げざるを得なくなった。
「めったにあることじゃない。だが、通る時はひどいぞ。えんえん、わんわん泣きながら、廊下を駆け抜けていく。
その時は、ずっと遠くにいるうちからサウナ以上の熱さが立ち込めてな。じっとしてたら灰も残らん。そんな時には、太陽のご機嫌をとってやるんだ」
先生は教卓の前までじりじりと後ずさりしつつ、首から下げているお守り袋を手に取った。中には10円玉が3枚入っている。
「夕焼けが赤いのはな、太陽のほっぺが赤いからなんだ。たいていは泣かされたからだな。
誰に泣かされるのかは知らん。でもそいつが夜の間も続くかで、明日の天気が変わる。朝焼けの後に雨が降りやすいといわれるのはな。火照ったほっぺを冷やそうと、太陽が汗をかきたがるからなのさ。
でもな、お金をあげればご機嫌が戻る。それがたとえ10円でもだ。なんとも現金だよな。
もし夜に学校へいくことがあって、太陽と出くわしそうになったらな。アメをやるつもりで、10円玉を分けてやりな」
増してくる泣き声の中、もどかしく袋の口を開けた先生は10円玉を一枚取り出す。そして少し口を開けたままの教室のドアに向かってひょいっと。お賽銭するように下から投げたんだ。
変化ははっきりと現れた。一番廊下よりの机付近を通ったところから、10円玉は湯気を吐き始める。更に廊下へ近づくにつれ、その輪郭もどろりと崩れていく。まさに溶けゆくチョコレート。
もはや耳を塞ぎたくなるほど大きくなっていた泣き声が、少し弱くなる。でも10円玉自体は、廊下にたどり着く前にすっかり溶けきって、消えてしまったんだ。
――また泣き出されたら、まずい!
慌てて先生は、残りの2枚にも同じことをやらせる。そして彼らは見事に、1枚目の二の舞、三の舞を演じてくれた。
もう泣き声はしない。代わりに聞こえてくるのは、「あぶあぶ」と、意味を成さない喃語。それを発する主は姿を見せないまま、確かに先生のいる教室の前を通り過ぎ、東の向こうへ去っていったんだ。
先生が投げた10円玉3枚は、どこにも転がっていなかった。あの消えていった姿は、見間違いじゃなかったんだ。
鍵盤ハーモニカを持ちながらも、「本当に太陽が通ったんだろうかと」西へ足を向けかけた先生だが、すぐに思いとどまった。
数歩も進まないうちに、廊下が熱したフライパンのごとき状態になっていたからだ。あの熱さ、あのざらつき、誤って触ったあぶり鉄板にそっくりだった。
反射的に足を引っ込めた先生は、すぐさま階段へ駆け出したよ。それでも職員室を警戒した隠密姿勢は欠かさない。
翌朝。まれに見る長い朝焼けは、日の出から数時間経った登校時間まで続いた。赤く照らされる姿が、児童たちの後期の目にさらされながらも、校舎はその口に遠慮なく彼らを招き入れていく。
あいかわらず、10円は見つからなかった。先生が逃げを打った廊下も、鍵盤ハーモニカを回収した教室も、特におかしいところはなかったよ。
窓からも差し込んでくる赤みに、今日は天気が大崩れするんじゃないかと心配する子もいたけど、どうにか無事に過ごすことができたよ。
その日も見事な夕焼けを迎える。結局、太陽が赤くない光であったのは、わずか数時間だけだったのさ