第二話(第六話)
「るぅ……」
エリンは縁側で微風に撫でられながら、無意識に呟いた。
二人だけが知っているアルトの愛称。彼とあの花畑で偶然出会ったその日、そして二人きりで遊んだ今までのたくさんの記憶が、光景が、音が、彼女の頭の中をぐるぐると巡っていた。
一昨日、家に帰ってきてからエリンはずっと心ここに在らずといった様子で過ごしていた。普段からぼけっとして何を考えているかわからない娘であったが、輪をかけて酷く、家族や他の家人が声を掛けても常に生返事といった有様だった。
あの日、氷像と化したアルトを見て彼女は何も反応できなかった。目の前の事態を現実と認めることができなかった。
だが、それは確かに現実だった。
その証として、左手の甲には刻印とやらがはっきりと刻まれている。一見、顔料で黒っぽい線を描いたようにも見えなくもないが、いくら擦っても洗っても掠れることすらない。それは皮膚そのものが変色しているような、文字通り刻まれた印のようだった。
(私はどうすれば……)
「エリンー!」
聞き慣れた優しくよく通る声と共に頭をぽんと叩かれ、我に返った。レミ姉さんだった。相も変わらず透けるような金髪が美しく煌めくこのお姉さんは、昨日も様子を見に来てくれていた。
「大丈夫?」
「……たぶん」
何が大丈夫で何が大丈夫でないかもわからず、そうとしか答えられなかった。
私はどうしたい? 私は何をしたらいい? ――何もわからない。
「やっぱり一度に色々と有り過ぎて……自分の中で上手く纏まらないのかな?」
こくりと頷いて肯定した。いつものように、当たり前のようにその心の内は彼女に見透かされていた。下手をすると本人以上に、彼女はエリンのことを分かってくれる。
「でもさ、一つだけはっきりしてることがあるじゃない?」
彼女は優しく、エリンの頭を撫でながら続けた。
「エリンはアルト君のことが好き。この事だけは何があっても変わらない。そうでしょう?」
――うん。
私はアルトのことが好き。初めて出会ったあの日から。
あれは一目惚れって言っていいのかな。何か……今までに出会った誰よりも波長? のようなものがぴったりで、やっと見つけた幸せのような感覚に包まれ、高揚した。それがたぶん恋という感情だということを後に知った。
「――うん、私は彼が好き」
自分自身に確認するように声に出して、言葉にする。
「お嫁さんになりたい?」
「なりたい」
レミの問いに即答した。――そうだ、それだけには迷いはないんだ。
「じゃあ、そのために必要なことは?」
この儀式とやらに自分が勝てば彼の正妻になれる。それに、そもそも儀式を終わらせない限り彼は永遠に氷像のままだ。言葉を交わすことさえ出来ない。あの微笑みも、優しい声も、すべて……!
――なら、とにもかくにもまず彼を解放するために、十四画の刻印とやらを集めなければいけない。――そういうこと?
でも、他人がそれを成してしまうと、その人が彼の正妻になってしまう。
――それは嫌だ……!
「とりあえず、そこまでの手順とか方法とかはすっとばして、最終的にエリンがどうしたいか、どうすべきか、それはわかったかな?」
今度は力強く頷いた。私は彼を解放したい。そして結ばれたい。――その為ならよくわからない儀式だろうが、やってやる。
「じゃあ今はそれでいいじゃない。……確かに事態が突拍子もなくて、今すぐどうしたらいいかは私にもわからない。――だけど君が最後にどうなりたいか、どうしたいか。それだけは迷わないようしっかりと覚えていれば、今は十分だよ」
そう言ってレミ姉さんはまた頭をぽんぽんと優しく叩いてくれた。
――本当にありがとう、レミ姉さん。姉さんのことも大好きだよ。
この先、どのような方向に風が吹くのかなんて、まだ何もわからない。
――でも、決して。
私は決して彼のことを諦めない。