第三話(第三十七話)
「なんでこんなことなっちゃったかなぁ……」
ナルザはひとり歩きながら、思わず声に出して嘆く。
確かに全員が皆一緒に仲良くとは言えずとも、この里が平穏だったことに違いはなかった。
その和らぎがたった数日の間に、血と疑心が混迷する魔境へと変わってしまった。
(今何日目だったか……一週間を越えたあたりか……)
誰に会っても不安、怖れが顔に出ている。
儀式のことは刻印を託された十三家以外の家にも既に話が広まっている。他でもない、ナルザ自身がそうなるように最初の手を打った。
しかし、今となってはそれは悪手だったとも思える。想像以上に早く深く、最悪の方向に状況が傾いてしまった。そんな突拍子もない話……と半信半疑だった者たちも現実だと認識し、縮こまっている。里全体が怯えている。
「当然か……」
ナルザは今、ラスタの見舞いに行き、あの母娘から直接話を聞いた帰りだった。
ラスタのウォル家に出向く際、一人での外出は許しが出なかったため、父の次妻である義母の一人に付いて来てもらうことにした。彼女は優れた術の使い手であるだけでなく、体も気もあまり強くない正妻である実母より、家の中での力が強かった。
ナルザとの関係も悪くはなかった。特段仲が良いわけでもないが、双方ともに感情より計算で動く人間であるため、無闇に人と対立することが下策だと分かっていたからだ。ナルザは家の中でも外でも同じくして揉め事を嫌い、出来得る限り多くの人と友好な関係を築いてきた。その結果として高い人望を得た。
それは一重に小さな計算の積み重ねであった。どうやったらより多くの人間に喜んで、笑って、幸せでいてもらえるか。それを追い求める為にあらゆることを計算し、行動し続ける。それがナルザという人間だ。
最初は大人に褒められるのがただ嬉しかった。大人の言うことを聞いてきちんと良い子にしていたら、いっぱい褒めてもらえた。それが嬉しかった。
でもあるとき、ただ大人の言うことを聞いているだけじゃなくても、人から感謝され、喜ばれることの幸せを知った。
気づけば、どうすれば多くの人に喜んでもらえるかを常に考えて動く習慣――いや、もはや習性が備わっていた。それは本当に細かい計算の積み重ねだった。人と接するときの彼女の表情も、その言葉一つ一つもすべてが計算されたものだった。
そして巫術、体術、勉学の全てにおいて万能という天賦の才まで有してしまっていたこともあり、多くの者から高い人望と尊敬、羨望を受けるようになったのは当然の結果だった。
これが今のナルザという人物を形作っている中核であり、すべてだ。
だからこそ、自身の手ではどうしようもないこの状況に相当気が滅入ってた。今まですべてとは言えずとも、大半のことを自分の理想通りに動かしてきた身としては、あまりに堪えた。正解がまるでみえない。人前であれだけ内の感情を露わにしたのはいつ以来だろうか。もう、今すぐにでも全てに目を瞑って、耳を塞いで逃げ出したかった。
そんな心境を道連れに、ナルザは夕暮れ前の帰路を独り、心此処に有らずといった様子でとぼとぼと歩いていた。
一緒に赴いた義母はウォル家の屋敷に置いてきた。成り行きで連れて行った他家の次男坊が、卒倒して動けなくなってしまったせいだ。今ナルザのウェル家で預かっている他家――というかライラのアルマ家の次男坊だ。次男故に独立して自身の家を持つ予定となっており、そろそろ誰を正妻として娶るか決める次期に近づいてきている。
「誰をお嫁さんにするのー?」と誂うととても可愛い彼は、ナルザからみればまだ十分に少年だった。もうすぐ齢十四に差し掛かろうとする成長期真っ盛りなので、身体的にも少年に違いないが。
この里では男子は十五までに嫁を貰い、以後は大人として扱われるのが習わしだ。十四ともなれば正妻の候補は大体決まっているものだ。
ちなみにナルザは知っている。彼が惚れているのはラスタの妹のうちの一人だということを。故に今日の見舞いにも付いてきたがったのだろう。本人はひたすらに隠しているつもりだろうが、周囲にはバレバレである。
(安心しな、たぶん相手さんも満更でもないから。というか、本人にもバレてるからね?)
ウォル邸宅に着くとその次男坊がそわそわしだしたので、想い人のところへ行っていいよと暗に告げたが、「飽くまで御見舞に来たのだから!」といっちょ前のことを言うので、まずは一緒にラスタの部屋を訪った。
そこが選択ミスだったらしい。いや、彼にとっては長い目でみれば有益な経験だったのだろうか。
ラスタは未だ全身包帯だらけで寝台に寝かされていた。本当に頭から足元まで全身のあちこちが包帯だらけで、直接傷口が見えているわけでもないのに酷く痛々しい姿だった。極めつけに、左手をぐるぐるに包帯で巻いているが、あるべきその手先が存在しないライラ――彼の実姉である――が側に寄り添っていた。
その光景はまだ齢十四手前のごく普通の少年には刺激が強すぎたらしい。その場で卒倒して倒れてしまった。
(やはりまだお子様だね……)
まぁ、事件といった事件もないこの平和な里で育ったならしょうがないかもしれない。むしろあまり動じなくなっていた自分が怖くも思える。
ラスタとライラに詫びとお見舞いの言葉を入れて、そして襲撃者のことをいくらか直接訊き出した。本当はもっと詳細に訊きたかったのだが、満身創痍の彼女と長話して疲れさせるわけにもいかない。それにライラが早く出て行けとばかりにじーっと睨んできていたのが気になってしょうがなかった。
(わかったわかった、もう帰るから、そんなお邪魔しないからって)
ライラだって手を切り落とされてまだそう時間が経っていないだろうに……本当に仲の良い……睦まじいことだ。
その後、ラスタの母にも会えたので事情を訊いてみたものの、ちょうど何か遠くのものを見聞きしているところだったようで上の空な返事しか返ってこなかったが、要点は抑えられた。二人の話を合わせると知りたいことは大体わかった。
そして件の次男坊は応接間で長椅子に横になり、おでこに乗せた水で濡れた布巾を目が隠れるぐらいにまで被っていた。
其処で大丈夫? と尋ねていたのはまさに彼の意中の人物。介抱してもらえて結果オーライなのか、未来の義姉(希望)の姿を見て卒倒してしまった上に、本人にも情けない姿を見られてプライドがズタズタなのか。さぁどちらだろう。
うちとしては他家からの預かり子をそのまま置いて帰るわけにもいかず、義母がそのまま付き添うこととなった。ナルザは身の安全を心配はされたが、半ばゴリ押しで一人、帰路についた
まだ昼間だからきっと大丈夫。――等と言い訳をいろいろ並べてはきたが、本当はそれでも不用心である自覚はあった。分かっていた上で、それでも少し、独りで歩きたかったのだ。
「なんでこんなことになっちゃったかなぁ……」
ラスタのウォル家の屋敷を出た頃はまだ陽が高かったはずなのに、気づけばもう夕暮れに差し掛かっていた。陽は既に橙色に染まりつつある。ふらふらと寄り道をしたりぼーっと景色を眺めたりしていたら、いつの間にかこんなに時間が経っていたようだ。
もう自分一人の力では何も、どうにも出来ない。誰かの力を借りようにも誰を当てにすればいいのか分からない。そういえば、今までは大体のことは一人でやってのけていて、誰かの力を借りることがあっても取り組む前から当てをつけていたことが多かった。そんなやり方のつけが今、回ってきたようだ。
「おやー、みんなのナルザさんでもそんな顔するんだねぇ」
物陰から出てきたのは、この里で最も手のつけられない利かん坊、カルナ・イェ・イルの姿だった。
「……なんか用?」
もう沈んだ気分を取り繕うことなく、ナルザは答えた。
現在の子供世代をまとめあげる人望厚いリーダー的存在と、その言うことをまったくきかない不良娘。その関係性以上に彼女たちは仲が悪いかった。いや、仲が悪いというのは少しだけ違う。より正確に言い表すなら、相性が悪かったというべきかもしれない。誰とも友好関係を築こうとするナルザにとって、ある意味たった一人の特別な存在でもあった。
「なーにさ、そんな怖い顔してると作り上げてきたキャラが台無しだぜ」
……なんだか様子がおかしい。
台詞が妙に芝居ががっていて、わざとらしい。単細胞で直情的な彼女らしくない。
「だからなんの用? こんな時に一人で……」
そこまで口にして気づいた。
――こいつ、まさか。
「めんどくせーから直球でいうぞ」
赤毛の大女はこちらを指差して言った。
「その手の刻印、あたしに寄越せ」
……馬鹿だとは思ってはいたが、本当に救いようのない馬鹿だったか。
今この状況で、タイミングで、よりによって私にその喧嘩を売る意味がわかっているのだろうか。呆れてものも言えないところだが、ここは黙しているわけにもいかない。
「――一応確認するぞ。その言葉の意味を分かっているのか?」
「もちろんだ。あたしがあんたを潰す、それだけだろ?」
どうしようもなかった。カルナ・イェ・イルとは私が思っていたよりもよっぽど馬鹿な人間だったようだ。
「……念のため説明しておく。まず私にはもう一画しか刻印がない。そして残りの一画は任意で譲渡することも、屈服させて奪い取ることもできない。――で、あんたはその最後の一画をどうやって奪う気だい?」
最初に説明されたルールではそうだった。最後の一画を譲ることができないのは確かだった。これは実際に試した。
だが、伏せられていただけで、最後の一画を奪う方法が二つ存在した。
一つは奪う対象を殺害する。もう一つはラスタが昨夜の実戦で偶然成功したばかりの方法だが……どの道奪いたい相手を深く傷つける必要があるようだし他にも条件があるかもしれない。
「決まってる。ラスタがやったみたいにあんたを痛めつけて刻印を傷つける。それかその左手もろとも切り落とす、もしくは……」
彼女は一呼吸入れてから言い放った。
「殺す」
強い語調でそう言い切った彼女だったが、その手は僅かに震えていた。
(あぁそうか、こいつ怖いだけなんだ)
本人は気づいていないようだが、その表情に余裕は全く見えなかった。強い緊張と恐怖を隠しきれていない。こんなのカナミでなくとも分かる。
家に引き篭もっていても、怖れ怯えが振り払えないことに我慢できなくなって飛び出してきた、というところだろうか。それはただ思考を停止しただけの蛮勇だ。実際に今、いざ行動に移そうとするとその恐怖を隠し通せていない。
そこまで察してしまうと、彼女が哀れで、だけれどちょっと可愛らしいとも思えてしまった。図体の割になんて繊細なことか。
とはいえ、こちらもはいそうですと殺されるわけにもいかない。
「……で、私をどうするんだい?」
「とりあえず……あたしの炎で黙らせる」
(やはりいきなり殺すとは言えないんだな)
そう思うと、ついうっかり気が緩んでクスッと笑いを溢してしまった。失態だった。
「バ、バカにしてんのかぁ!」
ズドドドドドドドォン
連続して複数の爆発音が辺りに響く。
(怒らせちゃったか)
空気中の塵やらなんやらを無理やりに発火させ、次々に爆発させる力技。出鱈目な火力の爆発が連続して襲い来る。咄嗟に周囲を冷却したが相殺が追いつかない。
「そんな氷もどきで防がれてたまるか!」
カルナはアハハハと悪役のように高笑いしている。
カルナは火しか適性を持っていないが、それだけにとても特化している。正確に言うならば、特化どころか「過多」している。
一方ナルザは火と凍の両極の使い手。バランスをとるのが難しい熱と冷の力をその才能と努力で器用に使いこなしている。
故に、技ではナルザが勝るが、力のゴリ押しではカルナに分がある。
それに加えてナルザは既に刻印が一画しかないのに対して、カルナにはまだ二画あった。いくら技術では分があるとは言え、何の備えもないところに画数で負ける一極使いの相手は厳しい。
(まずったなぁ……)
最悪殺されるかもしれない不利な状況だというのに、ナルザはどこか他人めいた感覚でいた。焦りも恐怖もなく、ただ俯瞰していた。自身の命の行く末を。
(あー、でも私がいなくなったらあいつら泣くだろうなぁ……)
特にあの子とか。きっと私の亡骸の前で泣きじゃくって目を腫らして。
――それは嫌だな。
顔を上げキッとカルナを睨み視線を合わせると、一瞬彼女が怯んだ。
(そんなに私の顔は、眼は怖かったかい)
「臆病者は臆病者らしく……お家に篭ってな!」
一瞬で二人の周囲の気温が下がる。凍の術とはすなわち熱を奪う、冷却する力だ。瞬間的に冷却された空気の、その内包する水蒸気が霧へと化す。
「うざいんだよ!」
カルナは自身を中心に塵という塵を全て熱して炎とし、爆ぜさせ、霧ごと周囲の空気を吹き飛ばしす。
「どうだこれが火力の差だ!」
そう誇らしげに豪語した彼女に向かって、ナルザは氷の刃で斬りかかった。
霧を作った直後、地面の含む水分を抜き取るように凍らせて、素早く生成した小さな刃。咄嗟に作った程度のものなので鋭さも強度もなく、当たっても大した傷を負わせることはできない。せいぜい引っ掻き傷ぐらいだろうか。
だが、十分だった。予想外の攻撃に虚を突かれたカルナは反射的に後ろに飛び退いたその先でバランスを崩し、そのまま後ろから地べたに倒れ転がった。
「てめぇ!」
片膝を付き立ち上がろうとしながら睨みつけてきた彼女に氷の短刀を投げつけ、直撃する寸前に自ら熱して溶かした。一瞬で溶けた氷がカルナの眼前を蒸気となって曇らす。
「くそがぁ!!」
そう吐き捨てて放たれた直情的な火球を避け、再び小さな氷塊を作って投げつけ、当たる前に溶かす。
「てめ!」
それを幾度か繰り返す。容易く軌道の読める火球を躱しつつ、氷塊を投げつけては溶かして蒸気を浴びせる。正面からだけではなく敢えて狙いを外して左右、後ろ、足元……様々な方向から幾度も蒸気を浴びせる。
「いい加減にしやがれぇ!!」
我慢の限界がきたカルナはそう叫んで、自身を中心に炎の壁を大きな一本の円柱のように形作った。そしてできた炎壁を、円周の外に向かって押し出すように、自身の領域を広げるように周囲全方位に侵攻させ、ナルザに向かって迫りゆく。
迫る炎の壁。面の攻撃だ。これを回避することはできない。
――回避できなければ逸らせばいい。
ナルザは自身の足元から上に向かって上昇気流を伴い勢いよく燃え上がる炎の壁を作った。そしてその炎の壁に接触したカルナの炎を下から上に流れる勢いに乗せて上方に巻き上げる。
それだけではない。巻き上げた先でさらに自身の炎を球状に形作り維持し、そこにカルナの炎を巻き込み吸収し、その制御を奪い取る。
「なっ……」
「私の炎ではどう足掻いてもあんたには力負けする」
ナルザはニヤリと口元に笑みを浮かべた。
「だったらあんたの炎をそのまま利用してやればいいのさ」
頭上近くに特大の炎球を掲げる。余裕ぶって見せているが、実際は制御にかなりの神経を要した。ちょっと気を緩めれば自身に襲いかかるか、空中に爆散するかしてしまいそうだ。
「己が炎で……その身を焼け」
炎球を眼前に降ろし、正面から真っ直ぐに撃ち放った。
(……あいつのとる行動は一つしかないだろう)
「ざけんなぁ!!」
そう叫んでカルナは右掌に掴むように咄嗟に火球を作り出し、腕ごと前方に押し出すように構えた。
押し出された火球は勢いを増し猛火となり、ナルザの炎球を受け止める。
「負けっかよォ!!」
根性だった。カルナはその精神力すべてを炎を練り上げることに集中させた。
いくらナルザがカルナ自身の炎を利用したとはいえ、一画対二画の直接対決だ。元々素質でも火力の勝るカルナがそう簡単に押し負けることはなかった。
「見たか!」
見事炎球を打ち消し、まるで勝利したかのような笑みを浮かべたカルナの顔をナルザの回し蹴りが直撃した。
「ぐほっ……」
カルナは言葉にならない声をあげ、その大きな躰は宙を舞い、地面に打ち付けられた。
「体術では私のほうが上だったね」
別に巫術での勝利に拘る必要などなかった。戦闘不能に追い込めれば何でも良かった。ナルザは巫術、運動、勉学全てに優れた万能の秀才だ。単純な腕力だけならカルナのほうが上だったろうが、技術に関して負けないのは体術も同じだった。
「さて……」
地べたに身体を投げ出したまま動かないカルナの近くまで寄って、上から見下ろす。
「見逃してもいいんだが……また暴れられたら厄介だ。命までは取らないが、その刻印だけもらっていくよ」
ラスタから聞いた話の通りなら、完全に戦闘不能になっている目の前の大女からは、直接表面を傷付けるだけで刻印が奪い取れるはずだ。おそらく最後の一画までを根刮ぎ。
空中の水蒸気を集めて小さな氷を作り、さらに地面に手をついて水分を集めて足しにして、短刀状の氷を形作る。先程より丁寧に作ったそれは中々に鋭い刃を備えていた。
「少し痛いだろうが我慢しな」
そう言ってカルナの意外と薄い肌色に切っ先を当てようとしたとき。
何かがナルザの脇腹に突き刺さった。
「ぐっ……」
不意な激痛でバランスを崩し、そのまま地べたに、カルナのすぐ横にうつ伏せに倒れ込んだ。
痛みに堪えて傷口に手を当てようとすると、冷たい何かに触れた。
(――そうだ、こいつがいるなら、「あの子」がいないわけがないんだ)
ナルザはもう、痛みに抗うことを止め、力なく完全に地べたに身体を預けた。
――まぁ。
もういいや。
何か硬いもので頭を殴られ、ナルザの意識は途絶えた。




