第一話(第十五話)
「るぅ……」
エリンはアルトと出会った思い出の花畑でひとり、へたりと地べたに座り込んでいた。一面には彩り豊かな春の花ではなく、涼やかな風に揺れる秋の草花が敷き詰められている。
昨日「死」の話をしてからエリンはずっと胸が苦しくて仕方がなかった。
――人が死ぬ、二度と会えなくなる、触れることも、声を交わすことも全て叶わなくなる。
今まで酷く鈍感だった喪失の感情に対して、氷像と化したアルトを介して一度に、一気に理解が進んでしまった。堤が切れた川の水のように溢れ出した感情は簡単に自分の中で咀嚼できるものではなく、飲み下せない濁流だった。
――結果、ふらふらとひとりで屋敷を抜け出しアルトとの思い出の場所に来てしまった。
ここに来たら何かが分かる……とまではいかずとも、何かしら感情の整理でもつくかと期待していた。
しかし、楽しい思い出の中の彼の笑みと氷牢に囚われ時の止まった、微動だにしない顔が頭の中に交互に、幾度も繰り返し重なり映し出されるだけだった。
結局何も整理できず答えも出せぬまま、ただいつものようにぼーっと無為に時を過ごしていった。
(何をしているんだろう、私……)
気づけばもう陽は西の山の陰に差し掛かろうとしていた。この里は東西北を高い山に囲まれている。東西の山のおかげで日の出は遅く、日の入りは早い。夕陽が山の稜線に触れてしまえば暗くなるまではあっという間だ。
(もう帰らないと……夜の山は恐ろしい)
……それと、こっそり抜け出して居なくなってしまったことがばれて騒ぎになっているかもしれない。帰ったらちゃんと謝らないと。
しかし、そのまま直帰することは彼女には許されなかった。立ち上がろうと腰を少し浮かせた刹那。
「避けて!」
その声とほぼ同時に凄まじい光と衝撃がすぐ近くで炸裂し、衝撃で彼女の躰は地べたに転がるように、打ち付けられた。
(何が起きたの……?)
振り向くと再び光と光が――いや、違う、雷が宙で弾け衝撃が一帯を飲み込んだ。澄んだ山の空気が唸り声を上げるように、震える。
(そうだ、最初の光もあれは雷光だ。雷と雷がぶつかって打ち消し合ってる……?)
「エリン、早く逃げて!」
姿を見ずとも分かった。その声は決して聞き違えようのない、レミ姉さんのものだった。
(逃げる……? 私が? 何から?)
思案する暇さえ与えず、水平に撃ち放たれた雷がすぐ側の樹に直撃してその幹を焼き、穿った。大きく身を抉られ自重を支えきれなくなった樹木はメリメリと音を立て、倒れ始める。
(今、私は誰かに雷で襲われている……?)
声の聞こえた方向――レミの方を見ると、茂み中で立ち上がり、いつでもすぐに雷の槍を放てる構えをとったまま、じっとどこか一点を睨みつけていた。その視線の先を辿ると、太い樹の幹の傍らで真っ黒な「影」が夕陽に照らされていた。
よく見るとそれは全身を黒い布で包むように纏った、エリンと同じぐらいの背丈の人のようだった。顔にあたる部分だけは、ちらりと面のようなものが覗き見えた。
(誰、あれ……私どうすればいいの?)
そもそも私はなんで襲われているんだろう。
……あぁそうか、刻印のせい?
ということは、あの黒衣の誰かは刻印持ちの内の誰かで……私に本気の雷をぶつけてきてるって……それはつまり、私を殺してでも刻印を奪い取ろうとしてるの?
――こういう時、私はどうすればいいんだろう。
――逃げる? それとも戦う?
私も風と雷を使えるから、雷相手なら渡り合えるんじゃないだろうか。今は刻印で力も上がっているし――って駄目だ。相手も刻印持ちなら変わらないじゃない。
それにそもそも人との戦い方なんて分からない。人に対して巫術で戦うことなんて、考えたこともないのだから。
(きっと誰もがそのはず……なんだけどなぁ……)
それ以上考えている時間はなかった。黒衣の襲撃者は横に向けて腕で大きく宙を払い、自身の前方に雷の力を圧縮した球をいくつも浮かべ、さらに右手を上に掲げ、振り下ろすとともに一斉に、全て撃ち放った。これはきっとレミでも全て撃ち落とすことは敵わない。数が多過ぎる。
「後ろへ飛んで!」
雷球が放たれる寸前にレミがそう叫んだのが聞こえた。エリンは瞬時に自身の躰に風を纏い、後ろへ大きく飛び退こうとした。――ものの、跳ぼうとしたところで足を木の根に取られ、見事に後ろから転倒した。直後エリンのすぐ頭上――今の体勢で言えば眼前を雷球が通過し、幾本もの木々を掠め、その幹を焼いた。
「エリン!!」
レミが絶叫する。エリンは文字通り目と鼻の先を雷の塊が通過した衝撃で耳が痛くてしょうがなかったが、辛うじてレミの声は届いた。
「大丈夫」
大声でそう口に出してレミに伝えようとしたが、それは言葉にならなかった。
(あれ?どうして声が出ないの?)
とにかく起き上がろうとした。
――でも、動けない。
手も足も動かない。
たぶん、怪我はしていないし雷で痺れたりもしていないはずなのに。身体の感覚は耳がまだちょっと痛い以外は正常なはずだ。
(なら、何故動けないの?)
――そのまま彼女の思考は停止し、木々の枝葉の合間にちらつく夕空を眺めて呆けてしまった。
「エリン! 大丈夫!?」
すぐ近くからレミの声が聞こえてハッと我に返った。
(そうだ、私、襲われてたんだ……)
少しの間、意識が飛んでいた気がした。すぐに立ち上がろうとしたが、地面に手をつくことすらできなかった。腕にも足にも力が入らない。
「大丈夫? 怪我とかしてない!?」
抱き起こしてくれたレミに今にも泣きそうな顔で問いかけられた。
(大丈夫だよレミ姉さん――なんで姉さんのほうが泣きそうになってるの?)
「力が……なんか入らないけど大丈夫。怪我もしてないと思う」
もしかしたら草木で引っ掻いた過擦り傷程度はあるかもしれないが、あの雷撃による直接の怪我は何もしていないはずだ。身体の感覚が正常ならどこも問題ないはずだ。
「よかった……」
両腕で思いきり抱きしめられた。――レミ姉さんはやはり泣いていた。
「レミ姉さん、大丈夫、私は大丈夫だから……」
「貴女死ぬところだったのよ!?」
レミの怒るような涙声でようやく、今度こそ状況を正しく理解した。
――そっか、私もうちょっとで「死ぬ」ところだったんだ……。
あの時たまたま足を木の根に取られることなく、そのまま真後ろに向けて真っ直ぐに跳んでいたら、逆にあれが直撃していたかもしれない。転んだのも、ちょっとずれていたら当たっていたかもしれない。
(本当に……今、五体満足に生きているのは、運が良かったからなんだ)
そうか、だからレミ姉さんは泣いているんだ。私が死にかけた心痛と、今ちゃんと生きている安堵で。
「だって、だって貴女が居なくなったら、私は、私は……」
――私が死ぬ。
それはどういうことなんだろう。
ただひとつ分かるのは、レミ姉さんが泣くということ。他にも家族や知り合いに泣いてくれる人はどれ程いるのだろうか。他人の死については少しは理解を進められたつもりだった。けれど、自分が死んだ場合のことはまだ考えたこともなかった。
(――でも、とりあえずは)
レミ姉さんが泣くなら死んじゃ駄目だよね。
しばらくの間、レミはずっとエリンを抱きしめた状態で泣いていた。ようやく少し収まってきたところで、今度はエリンのほうから問いかけた。
「レミ姉さん、あの黒い人は……?」
「わからない。私がエリンに気を取られている間に何処かへ消えてた。エリンに駆け寄るまで周囲に気をつけてはいたけど、やっぱり奴はもう何処にもいなかった」
「あの人……真っ黒な布で全身隠して……やっぱり刻印貰った人なのかな……」
あの日呼び出され刻印を託された十二人。エリンに術を使って襲撃する目的は、その手に刻まれた印しか考えられない。否応なしにもレミ以外の他の十人の顔がエリンの脳裏を駆け巡る。
「……いや、たぶん違う」
「え?」
「落ち着いて、あの十二人のうち雷術が使えるのは私と貴女と……残りはサリャとハレだけよ」
――サリャは既に死んだ。殺された。そしてハレはあの中で最年少な上に、まだ育ち盛りとはいえ背丈がかなり小さいほうだ。あの黒衣の人物の体格はさすがにもう少し大きく見えた。
「遠目だから確証は持てないけど、ハレよりかは背丈は大きくみえた。そして何よりハレはナルザに一画譲ったからもう手元には一画しか刻印を持っていない。さっきの奴の雷の威力は……正直私をかなり上回っていたと思う」
じゃあ、一体あれは何者なのか。雷単一持ちのレミの力はこの里の雷使いの中でも頂点に近い。同年代の子らではとても太刀打ちできない。
「それより、とりあえず今は帰ろう。もう暗くなっちゃうよ」
「――ごめん、こんな所に一人でふらっと来たりして……本当にごめんなさい」
死人が出た、人が殺されたというのに本当に不用心だった。ただただ謝るしかなかった。家に帰ったら家族にも、それこそ土下座をするぐらいのつもりで謝ろう。
「うん、そうだね……。だからもう……お願い、これから全部終わるまで……一歩も家から外に出ないで」
――え?
一歩も?




