夕焼け
教室から飛び出して逃げ込んだ廊下は春の陽射しで暖かいはずなのにどこか冷ややかな感じがした。そんな廊下を歩いているうちにいつの間にか涙は乾いていた。そして、すっかり常連となった部屋のドアノブを回して中へ入る。私に気が付き、長い足とともに回転イスがクルリと回った。綺麗な顔が振り返り私を見て微笑む。その一連の動きで変に落ち着けるくらいに保健室の先生には安心感と、大人の魅力があった。
「小暮さん。いらっしゃい。ハーブティー飲む?」
その言葉に頷き、いつも座っているイスに座る。
どうやら今日はラッキーなことに先約はいないらしい。まあさすがに初日から保健室に来る人なんていないだろう。
「はい、オレンジピールのハーブティー。安眠効果
と悩み不安を癒す効果があるの。飲んで?」
「ありがとうございます…。」
カップを鼻に近付けると、それだけでオレンジの爽やかな香りが辺り全体を包み込んだ。本当はもう少し香りを楽しみたかったが、味蕾が私を急かした。
「…いただきます。」
「はい。どうぞ。」
ふーっと息を吹きかけて冷ましながら一口含む。それだけで、全身に甘酸っぱくてどこか少しほろ苦い風味が広がった。張っていた心がほどけてゆっくり癒されていく気がした。
「あ…美味しいです。」
「本当?良かったー。私も飲もっと。」
この先生はどこか学生のように若いところがあるな、なんて考えていると保健室のドアが開いた。振り返ると少し焦ってきたような若滝先生がいた。保健室の先生が察したように私の真ん前の席を先生に勧める。
「どうもー。」
「いいえ。先生ハーブティー飲む?」
「それ、本当に効くんすか?」
「心が綺麗ならね。」
「適当に言ってるでしょ。」
「ばれた?はい、どうぞ?」
「じゃあ…ありがとうございます。」
そのやりとりを最後に何とも言えない空気が保健室に流れた。担任とは言えども何だかんだ春先からの付き合いだ。若滝先生もいきなりこんな状況になったのだから、どうすれば角が立たないか考えて声のかけ方が分からないのだろう。
「小暮さん。どうだった?新天地。」
見かねたように保健室の先生が私に聞いた。
「…何とも…。」
言葉にはならず、何とも言えない顔しかできない。
「そっかー…。」
「小暮。朝悪かった。」
「え…先生は何も悪くないです。」
「そっか。…あいつらは噂で聞いた話のままお前を
見てる。ここから説明していかなきゃいけない。
本当に辛いと思う。耐えられるか?」
言うのは阻まれたが正直に答えられるのだとしたら、この質問への答えはノーだ。でも、その答えを出してはいけない。ノーと言ったところで私は変われない。
「…嫌です。あの状況から逃げ出してここに
来たから…また逃げるのは嫌です。」
端から見たら強がりの戯れ言だろうけど、私にすれば覚悟の一言だった。ずっと考えていた。どうすればあの頃に戻れるのか、どうすればこんなに苦しまないか。その問いに答えはない。戻れない。ただそれだけのことなのに未だに毎日枕を濡らす。そんな自分も理不尽な世界も全部が嫌いだった。だから私は今絶対に変わらなきゃならないのだ。
「…お前格好良いな。」
涙を浮かばせた私に先生はそう言った。
「泣くな。小暮。」
泣くなと言う先生は初めてだった。今までの先生には散々泣けと言われてきた。若滝先生は色々な面で今までの先生とは違った。
「小暮。負けんなよ。」
「はい…頑張ります。」
本当に頑張れるかは別として若滝先生にはそう言わせる力強さがあった。
「おう。じゃ、俺戻るわ。」
そう言うと若滝先生は保健室をあとにした。
「格好付けちゃって。ねえ?」
笑いながら保健室の先生はベッドを貸してくれた。
どのくらい眠っていたのか。先生に起こされた頃にはすっかり夕方だった。
「具合は?平気?」
「はい。」
「そう。ぐっすり眠れたみたいで良かった。」
「すみません。こんな夕方まで。」
「全然良いのよ。いつでもどうぞ?
私、教室に荷物取りに行ってくるわね?」
「あ…。」
自分で行きますと言いかけたが途中で言葉が詰まった。出来た傷はそんなにすぐ癒えるものではなく、教室に行くのは憚はばかられた。
「お願い…します。」
「うん。任せて?」
せめてものお礼にと、使ったベッドや、カーテンを綺麗に整える。保健室の窓から見える夕焼けはどこか切なくて、無力感と孤独感を見せ付けるかの如く寂しい色をしていた。その夕焼けを見つめていると先生が帰ってきた。
「よいしょ。小暮さん。荷物これで良い?」
「はい。すみません!ありがとうございます。」
「いいえ。一人で帰れそう?」
「はい。大丈夫です。」
「そう。それじゃあ気を付けてね?」
「はい。さよなら。」
「さようなら。」
保健室を出ると、部活生の声が聞こえる。その声や廊下に飾られている美術部の絵を見て羨ましく感じてしまう。そもそも部活として活躍できたことが。そして、好きなことが続けられることが。多分私はもう絵を描くことは出来ないだろうと、理由もなくそんな気がしていた。これ以上余計なことは何も考えないように廊下を少しだけ速く歩いて玄関に向かった。早歩きを終え、靴箱に近付くと人影が見えた。恐る恐る近付くと相手もこちらに気が付いた。
「あ、小暮ちゃん!」
「え…。西宮…くん…。」
ジャージ姿の西宮くんが靴箱に寄り掛かり座っていた。
「え、何して…。」
「んー?小暮ちゃん待ってたんだよ。
良かったまだ居て。」
「…?」
「はいこれ。」
西宮くんはそう言いながら私が朝貸したペンを差し出した。
「態々返さなくて良かったのに…。」
「人から借りたものは返すのが常識でしょ?」
なかなか受け取らない私の手を西宮くんがそっと触る。私の手の平を開いて、そこにペンを置いて逆の手で包ませた。
「はい。ありがとう。」
「…いいえ。」
出来る限り目を合わさないようにした。そんな私の顔を西宮くんが覗き込む。
「何で目合わせないの?」
責めた言い方ではなく、優しい言い方だった。けど、分かって欲しい。私のせいでこんなに優しい人を傷付けることはしたくなかった。西宮くんとは仲良くなりたかった。でも、仲良くなれば確実に迷惑が掛かる。西宮くんまで避けられる。あることないこと言われてしまう。それだけはごめんだ。
「…小暮ちゃん。」
西宮くんはこれからどうするのか本当は朝からずっと怖かった。でも、次の瞬間。西宮くんは私の手をぎゅっと握って私の目を真っ直ぐに見た。不思議とその手を離そうと思わなかった。西宮くんのことは怖いと思わなかった。そのくらい温かかった。
「…俺と小暮ちゃんは同じ世界にちゃんといるよ。」
「…え?」
「俺が決めたからそうなの!」
西宮くんはそう言うと弾けそうな笑顔でそう言った。
「…。」
言葉にならなかった。どこへ行っても信じても貰えなかった。誰に言っても分かろうとしてくれなかった。なのにこの人は全く疑わない。驚くくらいに真っ直ぐな目で私を見つめている。
「横がいないと結構寂しいんだよー?」
「…。」
「だから来週は最後までいてね。」
「…うん。」
『1年C組西宮一途職員室若滝まで。
来なかった場合は外周にしまーす。』
「やっべ。ごめん行かなきゃ!」
西宮くんは少し走るとすぐに止まってこちらを向いた。
「またね!」
片手を軽く上げながら走り去る姿はまるで少女漫画の主人公のように飄々として、眩しかった。
「…また…ね。」
その背中に向けた言葉はきっと西宮くんには届いていないけれど、それでも何だか嬉しかった。心が弾む感じがした。靴を履き替えて歩き出し玄関を出ると、私を待っていた夕焼けはさっき保健室から見たものとは全然違った。どこか優しくて、寂しさなんか微塵も感じさせない暖かな夕焼けだった。また来週も来ようと思えた。そして、握られていた手は自分でも焦るくらいに熱かった。