1話「見つけたモノ」
微かに泣き声が聞こえた気がした――――
ここは人里から離れ、七日ほど踏み入った森の中。
そんな場所で声を聞くなど有り得ないと思いながらも、藪を漕いだ。
程なくして僅かに視界が開ける。
「道……? が、有ったのか」
道というにはいささか自然に還り過ぎているが、地面には整地された形跡があり、嘗て人為的に拓かれた場所だという事が見て取れた。
俺は新たな発見を記憶の地図に書き加え、道に沿って視線を巡らせる。
幌馬車だ。大きな車体が道を塞ぐ様にして横転していた。
それは奇妙な程大きく幅広な車輪のついた馬車だった。
おそらくは悪路を想定しての物なのだろう。
繋がれた輓馬も、街で見かける様なスラリとした品種ではなく、荷や馬鍬を引く農耕馬の様な逞しい体つきだった。
しかし、その馬は脚があらぬ角度に折れ曲がり、哀れみを請うような目を俺に向けてくる。
事故かと考えたが、横転しただけにしては盛大に荷物が散乱していた。
足元には、眼下の馬よりも小振りな蹄の跡。
その数はおよそ五・六頭分といったところだろう。
野盗の類だろう。こんな往来の途絶えた場所で襲撃にあうとは、不運な事だ。
コレが撒き餌である可能性も考慮し、襲撃に備え右手の鉈をしっかりと握りなおす。
伐採にも荒事にも役立つ刃渡り四十センチの相棒だ。
左手には、懐に忍ばせていたダガーを逆手に構える。
馬車に近づく足音に気づいたのだろう。
幌の中の啜り泣きが止み、変わりに必死に息を殺す気配が伝わってくる。
別に慈悲や正義感などといった善人じみた感情ではなかった。
一人森へ分け入ったのが、かれこれ十日前。
その孤独な旅路が、僅かばかり己の興味をくすぐったに過ぎなかった。
薄暗い車内を覗き込むと、小刻みに震える塊が有った。
見れば年長者と思しき少女を中心に、六名ほどの子供が身を寄せ合っていた。
少女自身も恐怖に押し潰される寸前であろうに。
それでもすがり付く者達を守らねばという想い故か、少女は幼い瞳で俺を威圧してくる。
子供達は皆、一様に薄汚れた貫頭衣を着ていた。
「奴隷か……」
多くの国において、奴隷は商品として普通に流通している。
奴隷の売買は、国の認可を得た特定の競売所でのみ許可されており、奴隷商人はそこで商品を競りにかけるか、競売所に売却する事になる。
人倫や治安の面から国に管理されている為、それなりに市民権を得た商売と言えるのだが、どんな商売にも悪どい者は居るし、闇取引や個人間の契約など管理しきれるものでもない。
商品が人間という性質上、ひとたび悪質な事件が起これば、人々からの苛烈で陰湿な視線を浴び易く、その目は当事者だけでなく同業者全般に拡大して向けられてしまう。
その為、真っ当に商売している奴隷商人でも、後ろ暗いモノという意識を持つ者は多い。
奴隷商人が奴隷を調達する手段は大別して三つ。
一つ目は、戦争の賠償として敗戦国から支払われた物を、国から払い下げられる場合。
二つ目は、食うに困った親、又は本人により身売りされる場合。
そして最後に、詐欺や恐喝など、人攫いによる場合である。
こんな心寂しい道を通っていることを考えれば、今回はおそらく三番目の手段なのだろう。
しかし、奴隷商人の姿が見当たらない。商品を捨てて逃げたのか?
案外その辺に死体が転がっているのかもしれないな。
散乱する荷物、強引にこじ開けられた木箱を見れば、金目の物など粗方持ち去られてしまったと分かる。
奴隷とて十分に価値のある資産なのだが、野盗にとってみれば畑違いの商品だったのだろう。
販路にも困るだろうし、そもそも輸送する手間や手段が問題になる。
なにせ馬車を分捕ろうにも肝心の馬がアレではな。
彼女たちが無事……とは言えないが、少なくとも危害を加えられず捨て置かれたのは、放って置けば野垂れ死ぬのに、わざわざ武器を傷めたり、こびり付いた血や脂の手入れをするのが面倒だったのだろう。
まあ、よくある有る話だ。
「すまん、邪魔したな……」
野盗の様に強奪する気はないが、すでに所有者の居なくなった『おこぼれ』があるなら、有効活用しようとは思った。
しかし、奴隷とはいえ生き残りが居るのでは、そういう訳にもいかない。
俺は疑問と好奇心を充足させただけで良しとし、その場を立ち去ろうとする。
「ま……、待って!」
と呼び止めたのは、威圧の眼差しを向けていた年長の少女であった。
彼女にしてみれば、突然現れた俺を『野盗の仲間』ではと、警戒するのは当然の事。
しかし、俺が離れる素振りを見せると、今度は森に放置される恐怖が再来した様で、不意に口をついて出てしまったらしい。
己の発した言葉に、当の少女自身が驚いている様子だった。
その言葉には俺を信頼したとか、駆け引きや計算などといった物は微塵も無く『そうしなければ生きられない』と、本能が勝手に紡ぎだしてしまった物だった。
振り返ると少女と目が合う。
混乱という二文字を如実に体現するかの様に、目が泳ぎ何かを口にしようと唇を動かす。
しかし、待てども一向に言葉として出てこない。
「何だ?」
俺は痺れを切らし、続きの言葉を催促する
気だるげに問う俺に気圧されたのか、顔を引きつらせて生唾を飲み込んだ。
そして一度、目を伏して俯いた後、少女は再びこう言った。
「待って……ください」
少女の目からは既に威圧の光が消え失せ、不安と懇願の入り混じった物へと変わっていた。
「た……助けて下さい、お願い……します」
緊張で張り付く喉から無理やり絞り出した、そんな掠れた声だった。
繰り返しになるが、ここは大人の足でも七日は掛かる森の奥地である。
この心寂しい道がどこかの村に繋がっている可能性もあるが、そんな事を俺が知るはずもなく、不確実性に賭けるのはリスクが高い。
そして少女達は皆子供だ。頼みの馬車は横転し、馬の足は折れている。
その上、野盗に荒らされてろくに物資も残っていない。
普通に考えれば詰みだ。
天命だと諦めて『お迎え』が来るのを待つしかないだろう。
自分の要求が如何に困難な物であるか、少女とて理解しているのではなかろうか。
だからこそ、たとえ無茶でも少女は縋るしかなかった。
今、この俺を逃したら、自分達には死ぬ運命しか残されていないと。
だが……。
「残念だが、それは無理な――――――」
「さ、差し上げますっ!!」
少女の必死さが先走る。
そのせいで主語の抜けた申し出が、俺の返答を遮った。
「私はまだ……誰とも契約していません! 私を……差し上げます! それでどうか、お願いしますっ!」
思わず気だるげな吐息が鼻から漏れてしまう。
健全な成人男性で金貨二十枚。
特殊な技能の習熟などにより価格は大きく変動するが、それが奴隷の相場だ。
そして、それは一般市民の年収とほぼ同額である。
薄暗い車内、しかも子供たちに纏わり付かれているせいでハッキリとは見えないが、この少女はサバを読んでも十四歳かそこらだろう。
幼さを残す体では、男を取らすにしても物好きの範疇になりかねず、需要の面でいささかの不安がある。
良くて金貨十三枚程といった所か。
だが、なかなかの資産価値ではある。
そんな資産が向こうから舞い込んでくるのだ、美味い話だ。
ここが人里であるならば、の話だが。
そこに畑があれば、農奴として働かせ収穫を得る事もできよう。
色町なら、性奴隷として財貨を稼がせるのも良いだろう。
だが、今この場所にそんなものは無い。
奴隷を換金しようにも、売る相手が居ない。
如何に資産価値が高かろうが、活かしようもなく、換金もできない資産など、ガラクタと代わりがないのだ。
大体、そんなに割りのいい商品なら、野盗どもが置いていくはずが無いだろうに。
そもそも、奴隷は買ったらそれで終わりじゃない。
金貨二十枚とはあくまでも初期費用だ。
当然、所有者は奴隷が命令を遂行できる様に、十分な衣食と住環境を与え、健康管理にも気をつけなければならない。
つまり、維持費が掛かるのだ。
となれば、それを負担する以上の財貨を稼ぎ出すか、潤沢な資金を持つ貴族でなければ、奴隷を持つ意味など無いのだ。
ましてこの場に残された者達たちは皆子供だ。
それは買った後で、使い物になるまで育てなくてはいけない『未完成の商品』だという事だ。
どう好意的に見ても、現状では只のお荷物でしかない。
などと、わざわざ説明してやる必要も義理も無いのだが……。
コレも一人旅の反動なのか、口に脂が乗ってしまったようだ。
「――――という訳だ、正直割に合わん。何よりもコレだけの人数を抱えては共倒れになりかねん。諦めろ」
己の価値では俺を動かせなかった事に、少女は歯噛みした。
「お前一人なら連れ帰ってやれるが、それで手を打つなら乗ってやるぞ?」
「嫌ですっ!」
「そうか、残念だ。縁が無かったな」
そう言い残し踵を返すと、少女も慌てて馬車を飛び出した。
「りょ、料理ができますっ! 洗濯もっ!」
「そういう話じゃないんだがな」
『割に合わない』という言葉を受けてのことだろう。
自分の価値さえ認めさせれば事態は変わると。
そうして必死にアピールを始めた少女に、思わず苦笑してしまった。
「それならっ……か、体を! 貴方を……満足させます!」
「普通、女奴隷なら真っ先にソレを提示するんじゃないか? そんな生娘っぷりで、どんな業前を披露できるんだ?」
少女は軽々しく散らす物ではないと信じていたが、この時ばかりは自らの純潔を恨んだ。
少女の慎ましやかな双丘が、劣情を誘うには力不足であった事にも。
だが、諦めてしまったら後ろで見守る子供達の運命がそこで終わってしまう。
その想いだけを支えにして、少女の価値の提示は続いた。
「算術っ! 読み書きができますっ!」
「おおっ! ソレは価値が高いぞ! 次に来た奴に教えてやれ!」
奴隷の識字率は低い。その為、読み書きが出来る者は非常に貴重だ。
それは奴隷の主な供給元が農民層である為だ。
農民にとっては野良仕事さえできれば問題がなく、せいぜい釣り銭勘定ができれば生きていける為、子供に教育を受けさせようという親は少ない。
しかし、形振り構わぬ気勢で搾り出した少女の言葉が、一体どこまで信用できるというのか。
真剣に取り合おうとせず、歩き去っていく俺の態度に、少女のきつく結んだ目から涙が溢れる。
発する声は俺との距離を埋めようと、叫び声に変わっていた。
「共用語! ロマヌ語! セルシア語っ! それからっ! それからっ……」
少女の口から余りにも意外な単語が飛び出した。
お陰で思わず振り返ってしまった。
もしも彼女の言う事が真実で、それだけの言語に精通しているのなら大した才女だ。
いや、そこじゃない。
セルシア語――――今からおよそ八十年程前に滅んだ国、セルシア。
閉鎖的な民族で他国との交わりは極めて稀だったが、そこから僅かに漏れ出る技術でさえ、世界平均の三歩は先を行く水準だったという。
その為、国土や都市は小さいものの、技術大国として名を馳せていた。
その中枢は極楽浄土も斯くやという発展ぶりだったという。
その最後は、空から巨大な火の玉が降り注いで焼き尽くしただの、陽炎のように一夜で掻き消えただの、国ごと流砂に飲まれただのと、どれも眉唾な話が伝わっているが、真相を知るものはいない。
そんな、忘れ去られてしまった国の言語を一体どこで……。
歩みを止めて凝視する俺に気づいたのか、少女は荒い呼吸を整えると再び叫んだ。
「読めますっ! 書けますっ!」
キッと強い瞳でこちらを見据える少女に、俺は問い返した。
『お前の名前は!?』
「フィーニア!!」
セルシア語で問いかける俺に、少女は即座に返してみせた。