10話「夜風の撹乱」
月明かりに照らされた見晴台。
俺は一人寝転び、晩秋の風に身を晒していた。
旅の支度も残すは燻製作業のみ。
この共同生活が始まって以来、初めてゆったりとした気分で過ごしていた。
いっそ今日はここで寝てしまおうかと目を閉じる。
しかし、やってくるのは微睡ではなく、この五日間の記憶だった。
――――子供達に寄り添われ、こちらを睨む少女の姿が蘇る。
本気で見捨てるつもりだったのだ。
『現実的思考』『合理的判断』それが己の中の正解であり、自分を生かし続けた極意だった。
仕事によっては仲間と共に動く事もあったが、それでも徹頭徹尾『個人』の集まりとしてしか見てこなかった。
だというのに、今の状況は何だ。
それまでの人生を振り返れば、楽しかった事、苦しかった事、探検家としての思い出は沢山ある。
だがそれにも増して色鮮やかに刻み込まれてしまったこの共同生活。
俺の探検家としての足跡は『人生の宝物』から、子供達に聞かせてやりたい『話の種』へと変わりつつあった。
悪くない生活だった……。いや認めるよ、俺はこの生活が楽しかった。
自分の選んだ道に後悔はないが、こんな生き方もあったのだと今にして気づく。
己にとって果たしてどちらが幸せだったのだろうか。
このまま子供達と共に歩む道も、俺にとっての正解なのではないだろうか。
天頂に輝く満月を睨みつけても、答えなど返ってくるはずもない。
堂々巡りになった頭を、嘆息交じりに振り回し、気だるげに体を起こす。
「戻るか……」
誰に聞かせるわけでもなく、つい独りごちる。
こういう所も『一人』が長かった影響かと、思わず苦笑いが漏れた。
――――――!!
やばいな、ここまで気が緩んでいたのか。
月明かりを受けて静かに佇むフィーニアの姿がそこにあった。
俺が気づくのを傍で待っていた様だ。
「悪い、何か用だったか?」
「………………」
フィーニアは少し思案するように目を伏せると、ゆっくりと敬意を込めてお辞儀をした。
「フィーニア?」
真意が分からず、俺はフィーニアの言葉を待つ事しかできなかった。
夜風は今、二人になったその場所を静かに包み込んでいる。
そして彼女は頭を上げ、静かに言葉を紡ぐ。
「感謝……しています。私達を助けてくれた事。今も私達を導いてくれている事」
フィーニアは今日も一日浮かない顔をしていた。
区切りのついたこのひと時が、彼女の元にも何かしらの想いを呼び込んだのだろうか。
「私の力では今日まで生き延びる事ができたかどうか……。グラムさんが現れなければ、きっと私は無策にみんなを連れ出して、そして……」
今頃は子供達と共に野垂れ死んでいたであろうと……。
彼女は訪れなかった未来の可能性に身震いした。
同時に自分の至らなさを痛感している様だった。
「私、みんなの中で一番のお姉さんなんです。だから……頑張りました。最初はみんな言葉も交わさなかったんです。頑張って……頑張って……冗談を言ったり、空回りするような事をしたり。そして、少しずつ話すようになって、笑い合うようになって……。だけど、みんなの目の奥には売られて行く未来は変わらないんだって諦めが消えなくて……」
一息に語られた独白。それは俺と出会う前の子供達との生活。
自分とて彼らと大差のない小さな体だというのに、それでも年上だという意識が、フィーニアを突き動かしたのだった。
彼女らしいとは思いながら、その痛々しさもまた感じ取ってしまった。
「ハンナが一番でしたね、真っ先にグラムさんに懐いたのは。私ホントに驚いたんです。あんな笑顔、私見た事なかったから。だから少し悔しかったです。そうしたら、アキムもノーラもシオンも……。みんな、みんな! 私があげられなかった笑顔を見せるようになって……。私! 私はっ! 何も出来なかった! ただ助けたいって思ていただけで…………!」
フィーニアの目から堰が切られた様に涙が溢れ出す。
そんな彼女に俺は言わずにはいられなかった。
「そんな事はない!!」
そう、そんな事はないのだ。
今はただ、気づいてしまった己の至らなさに目を奪われているだけだ。
それまでのフィーニアの功績がいかに大きかったか、その事実が掻き消える事は決してないのだ。
「俺だって碌な事ができたわけじゃない、運が良かっただけの所もある。強いて言うならお前より少し長生きな分、少しだけ知っている事が多かった、それだけの違いだ」
「そんなの……それが、その違いが大きいんじゃないですか!」
「知らなかった事、失敗した所だけを見るな! お前の全てをお前自身が否定するな!」
「ひっく……んぐ……」
フィーニアはもう嗚咽を漏らすことしかできないでいる……。
「そもそも、コレはお前が結んだんだ。お前が繋がなければ俺はお前達と一緒には居なかった。俺だってお前に感謝しているんだぞ! 俺の気持ちまで否定してくれるな!」
俺はフィーニアを抱きしめ、不安定な心ごと抱き止めようとした
辺りには夜風が奏でる葉擦れの音だけが響き渡る。
どれだけの時間が経っただろうか。フィーニアの嗚咽も既に聞こえない。
だが、頭の中はいつまで経っても混乱が収まらない。
彼女自身を否定するフィーニアに怒っている? 力になってやりたい? 笑わせてやりたい? 愛おしい? なんて面倒な女だ? 今すぐ全てが欲しい?
――――何がお前よりも人生経験が多いだ。 自分の考えさえも収拾が付けられないじゃないか!
フィーニアも落ち着きを取り戻したのか、俺の胸を押して距離をとると、泣き腫らした目で俺を見つめてくる。
顔の紅さは涙のせいだけでは無かったのかもしれない。
そして、フィーニアは両手で服の裾をつかむと、一気に頭上まで持ち上げた。
「お、おい!」
突然の事に戸惑う。
フィーニアは左腕で胸元を、右腕で秘所を隠して俯くが、それも僅かの事。
俺に全てを曝け出し覚悟を決めた目で俺に向き直る。
小振りな胸も、起伏の少ない腰つきも、微かに潤んで光を跳ね返す不毛の秘裂も。
俺にはもう、幼い体つきなどとは全く感じなかった。
有りのままのフィーニアが、美しくそこに在った。
ただひたすらに欲しい! そう思ってしまう肉欲が芽生えてしまう。
「私に返せる物はコレしかないけど、でも、どうか受け取ってください」
ああ、コレなのか。出会った時、何が自分の考えを曲げさせたのか、それが分からなかった。
最初のソレとは少し違う。だが今もその目には弱い自分を捻じ伏せ、立ち向かおうとする力強さが有る、責務を果たそうとする意思を感じる。
その眼差しに彼女の生き様を感じてしまったのだ。
それはとても眩しくて、潰えさせるにはあまりにも惜しいと。
だが同時に今の瞳には、被虐と自棄の光が宿っている。
沈黙する俺を肯定の証と受け取ったのか、フィーニアは俺に覆い被さり服の拘束を解いていく。
只されるがままになりながらも、俺はフィーニアから目が放せない。
違う……、そうじゃない。俺が欲しいものはコレじゃない。
肉欲など、それを上回る感情で既に消え失せてしまった。
俺が向けて欲しい目はそうじゃない。 『対価』など望んでいない!
俺が欲しいのは……!
「やめろっ!!」
自分でも驚くほどの感情が口をついて迸った。
「――――――!?」
その瞬間、フィーニアは体の自由を奪われ、力なく俺の胸に倒れこむ。
隷従契約…………。今では忌々しいものに成り下がったその契りが、俺の命令をフィーニアに強制する。
こんな形で受け取ってはいけない、俺もこいつも必ず後悔する。
フィーニアにも自分自身が分からなくなっているのだ。
だから俺への感謝を、契約の対価を、それが自分に課せられた契約なのだからと、安易な方に逃げたのだ。
そうしてしまえば自分を悩ませるものから解放されると。
「どうして……!? どうしてっ……!!」
畜生! 欲に任せて抱いてしまえたならどんなに楽か。
だけど俺はもう、フィーニアが愛おしいのだ!
「いっそ、体を差し出せと命じて下さい! 命令してもらえれば私……。 私、もうどうしていいのか分からないです……」
「俺は!! 俺は、お前が……好きなんだよ……」
「なおさら……分からないですっ!」
力なく俺に覆い被さる小さな体を抱きしめ、願わずにはいられなかった。
隷従契約を解除して、ただ普通にフィーニアとの関係を築きたいと。
どんな形であれ、契約や強制のある関係では心のどこかにシコリを残してしまう。
そんなのは嫌だ……
俺はフィーニアの泣き声が寝息に変わるまで、心の内を語り愛しい人の髪を撫で続けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
独白で泣き濡れた一夜が開けた――――。
俺は意を決して契約の解除方法をフィーニアに訊ねた。
フィーニアは見捨てられると思ったのか、少し狼狽したが、「契約書で済むならそちらに変更したい」と言う俺の申し出に安堵した。
隷従契約は重すぎる……。
だが、彼女の答えはノーだった。
隷従契約は祖母が教えてくれた物だが、解除方法までは知らないらしい。
どうやら、解約する為には街で奴隷商人を捕まえて聞くしかなさそうだ。
フィーニアとの関係が少なくともそこまでは続くと確認できた事に俺はどこか安堵した。
これからの方針が一つ見えたな……。
問答が終わると二人の間に沈黙が流れる。
フィーニアを見つめると、泣き腫らして目元が赤くなっていた。
「あ……あまり見ないで下さい、恥ずかしいです。あんなに取り乱してしまうなんて思わなかった……」
そこで俺も昨夜のことを思い出し、赤面した。
俺、あの時なんて言ったっけ……。
『好き』とか『愛おしい』とかそんな言葉を連呼したような気がする。
やばい、これは恥ずかしい!
「いや、こっちこそ何だ……悪かった」
「グラムさんは何も悪くないです! 私が一人で変に考え込んだだけで……」
彼女の責任感の強さを考えれば『自分も貢献しなくては』と強迫観念に駆られてもなんら不思議ではない。
それなのに俺は無神経に押し付けたり、独りよがりに物事を進めてしまった。
その結果、彼女の心を押し潰してしまっていたのだ。
「俺も悪いんだって。お前の事、気遣ってやれなかったし!」
「そんなこと無いですっ!」
「おまっ……強情だな!」
「そういう性格ですのでっ!」
二人とも譲る気は無いという気勢で向き合う!
発端は相手を想っての発言だったはずなのに、その相手をやり込めようと向きになっていた。
その事実に気づいて思わず二人して噴出してしまった。
「「ぷっ、あははははっ!」」
こんな仕様もない口喧嘩をしてしまう程度にしか、二十六歳と十六歳の間には差なんて無かった。
「俺なんてこんなモンさ。お前が思ってくれる程大層な人間じゃないよ」
「いいえ、今までずっと見てきましたから、これからも頼りにしてます」
ほのかに微笑みながら、向けてくれる信頼が心地いい。
「たぶん、お前と同じ気持ちだったんだと思う。契約した以上は俺が何とかしなくてはって、全部一人でやろうとしてた。結果、お前の事を見落としていた。一人だとやっぱりどこか抜けてしまうんだ、それが本当によく分かった」
そこで、俺は改まってフィーニアに伝えた。
「だからさ、フィーニア。契約とか関係無しに、一緒に子供達を支えてくれないか? 誰かが助けるんじゃない、皆で頑張ろう」
「…………」
フィーニアは少し驚いた顔をしたが、自分が支えになれる部分もあると感じてくれたのか、昨日までの曇った表情など吹き飛ばし、笑顔で応えてくれた
「はいっ!」
そこからは本当に他愛の無い雑談をした。
それまでギクシャクしていた物は何だったのかという程、スラスラと言葉が出てくる。
この生活を始めてまた一つ、俺の中に新しい何かが刻まれていくのを感じていた。
他の子達も目を覚まして来たので、俺達は軽く朝食を摂っだ。
その場で明日出発する事を再度伝え、今日はよく休む様に言っておいた。
そして俺は最後の仕事として、建物の一角を幌布の余りで覆い、馬肉を燻した。
生木に近い状態のものも混じっていたせいで、煙が凄い事になっていたが、この際贅沢はいえない。三時間ほど燻したら完成だ。
立ち上る煙を眺めながら、穏やかに時間が流れていく……。
ピィ――ロロロォォォ――――! ピィ――ロロロォォォ――――!
突然、鳶の鳴き声に似せた笛の音が二回鳴り響く!
それは俺が教えた警戒の合図。水汲みに行ったアキムか!?
俺は皆に隠れるように厳命すると、弓を肩に掛け、獣の様に姿勢を低くして沢の方へ疾走する。
居た――――――!!
なるべく音を立てない様に藪の中から様子を伺う。
馬車の傍に四名、沢の方を覗き込む者が一名、道の手前と奥で警戒する者が二名。
総勢七名だ。 そして、髭面の男が声を発する。
「御頭、ガキ共が居ませんぜ」
積荷が何だったかを知っている――――、野盗共が戻ってきたのだ!