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批判の是非に関する議論はどこへ向かうべきか

作者: いかぽん

 まずお断りしておきたいのだが、このエッセイは感想欄を開くつもりがない。

 なので、気に入らない主張を目にしたら感想欄でぶっ叩かずには気が済まないという人には、これ以上先は読まないことを推奨する。


 さて本題である。


 前回のエッセイ(『表現の自由と作品を批判する権利について』https://ncode.syosetu.com/n3210ek/)で僕は、批判の是非を議論するにあたっては、「権利」のレベルの議論とその先の議論とをごちゃ混ぜにした議論をするべきではないと述べた。


 本テキストの内容は、前回のエッセイでは展開しなかった、その先の展望の話になる。


 前回のエッセイでは、まず大前提として、すべての読者には「作品を批判する権利」が当然に与えられていると述べた。

 そして、そこを議論のスタート地点にするべきであるとも主張した。

「権利」は当然のものとして与えられているのだから、そこに関しては議論の余地はなく、議論をする価値があるとすればその先──「『権利』はあるけど、じゃあ実際に僕らはどうするのか」という点にある、と述べた。


 だから例えば、「作者には『表現の自由』があるのだから、読者はこれを批判してはならない」などという議論が展開されたとしたら、僕の論法においては、これも当然誤り、論外となる。

 そういった議論を展開すること自体は「表現の自由」の侵害には該当しないが、その議論の内容には妥当性がない、という扱いになる。

 もっと分かりやすく言えば、「それ主張するのはキミの自由だけど、内容は全然正しくないよね」ということになる。


 この点において、そうした意見を批判するエッセイなどとは、主張の方向性は一緒ということになる。

 ただ完全に方向性が一緒なわけではなく、何が変わるのかと言えば、そこから先の話になってくる。




 繰り返しになるが、読者に「批判をする権利」があるのは当然なのだから、批判の是非に関する話をするならば、その先の議論をすることになる。


 そして、その先の議論とは何かといえば、「(批判をする『権利』があるのは当然として)では僕らは批判をするべきなのかどうか」という話だ。




 さてこの辺でもう一つ、注釈を打っておく必要がある。

 このテキストで言うところの「批判」とはどういうもののことを指すのかについて、具体的に言及しておかなければならないだろう。


 僕は「批判(及びそれに類似したもの)」を、主に以下の三種類に分類して考えている。


1.建設的批判

 作品の魅力や作者がやりたいことを肯定的に捉えた上での、作品の改善を志向した批判。


2.否定的批判

 作品の魅力を認めず、作品の内容や要素を否定する一方の批判。攻撃的批判。


3.誹謗中傷・罵詈雑言

 説明いる?


 さて、この三種類に分類して考えたときに、三番目の「誹謗中傷・罵詈雑言」を「あるべき批判」の一環であると主張する論人はまず存在しないだろう。


 誰に聞いても「誹謗中傷・罵詈雑言はダメ、ゼッタイ!」と答えるに決まっているのだから、これに関しては論じる必要はないと思われる。


 したがって、論点となるのは「建設的批判」と「否定的批判」に関してだ。

 言い方を変えれば、これらに関しては「議論が分かれるところ」ということになる。


 ただ、このうちの「建設的批判」に関しても、「建設的批判をするべきではない」と主張する論人はほとんどいないという点で、論じる余地はあまりないように思う。


 作者の中には「僕らが求める『感想』とは褒める感想のことだ」と主張する人もいるが(というか書籍化作家さんレベルでわりと多いが(笑))、べき論レベルで「読者は褒める感想以外を書くべきではない!」などと主張する勇者はさすがに見たことがない。


 なので最も議論が分かれるのは、「否定的批判」の是非に関してであろう。

 ゆえにこのテキストで「批判」と書いた場合、それは主に「否定的批判」のことを指すものと考えてほしい。




 さて、というわけでようやく本題だ。

 僕らは作品に対する「否定的批判」を、するべきや否や。


 読者の「権利」に着目するなら、するべきも何も考える必要はなく、「権利があるんだからやればいいよ」という話になってしまう。

 それで話はお終い。何も議論する余地はない。


 だが僕らが、他者に対する思いやりを持ってより良く生きたいと考えるなら、その先を考えるのも無意味ではない。


 また、「情けは人のためならず」という現実がある。

 この言葉の正しい意味を知っている人ならば、これが「人にかけた情けは巡り巡って自分のためになる」という意味であることを知っているだろう。


 そんなのは綺麗事の理想論だと思う人がいるかもしれないが、そんなことはなく実際にも非常によくある話で、一番ストレートな話としては、「否定的批判を書くと、作者からの返信が攻撃的なものになりやすい」という点がある。


 そんなことがあってはならない、と思う人もいるかもしれないが、まず一つのポイントとしては、あっていいかどうかではなく、現実にあるかどうかの話をしているということ。

 世の中の作者たる生き物がすべからく理想的人格をもっているわけではなく、現実には様々なスタンスを持った作者が混在しているのだから、理想的状態を前提としてべき論を語ると現実は捉えられなくなる。


 そしてもう一つのポイントとしては、「権利」というレベルでは(読者に批判をする権利が与えられているのと同様に)作者にも批判に対して怒る、思ったことを発露する「権利」は与えられているということだ。


 なので、そのような作者の態度があってはならないかどうかと言えば、「権利」レベルでは「あってもいい」ということになる。

 そしてこれは「読者には批判をする『権利』がある」というのとまったく同じレベルの話で、作者はその先の「(『権利』があるのは当然のこととして)じゃあ僕らはどうしていくか」を考えても良い、ということになる。


 なので、「批判」を書くべきかどうかという観点における一つの考え方としては、「感想レスで殴り返されたくなければやめておいたほうがいいんじゃない?」というものがあげられる。

(もちろん、それを踏まえた上で「それでも俺は書く」というのもまた一つの在り方だ)


 ちなみに「建設的批判」を書いたのに攻撃的返信を返してくる作者というのも、僕の体感ではかなりの確率でいると思う。

 これは何故かというと、そもそも「建設的批判」を受け入れるところからすでに、作者の高い人格が問われるからだ。


 これはもうべき論ではなくて、実際に体験してみないと分からないと思う。

 まず作品の瑕疵を指摘されると、本能レベルでカチンと来る(なぜそうなるのかに関しては本能と感情に関する研究が必要なのでここでは言及は避けるが)

 そこを理性で抑え込んで、どうにか作者として対外的にあるべき体裁を保つ、という精神作業になる。

 これができない作者は、カチンと来たまま感情のままに攻撃的返信を返すことになることが予想される。


 ただ逆に言えば、「建設的批判」に関しては、ある程度考え方がしっかりしていている作者さんには、通常好意的に受け取ってもらえると思う。

 特に多くの「褒め(良いところの指摘)」を交えた上での少量の建設的批判であれば、好意的に受け入れてもらえる可能性は高いだろう。

 作品の良いところを認めてくれた読者さんからの批判は、作者にとっては感情レベルで受け入れやすいものになるので、非常に高潔な人格を持たない作者にも、好意的に受け取ってもらいやすいものになる。


 で、この辺でもう一度口を酸っぱくして繰り返しておくと、これは「そうしなければならない」という話をしているわけではない。

 こうしたらこうなりやすいという因果関係の話と、「それが嫌ならやめたほうがいいんじゃない?」という条件限定の提案をしているだけなので、そのあたりは勘違いしないでいただきたい。

 それでも敢えてそうするというのは、個人の考え方としてあってよいはずだ。


 さて一方、「否定的批判」はどうかというと、これは僕の周囲の作者さんを見ていての体感になるが、「否定的批判」を「是非ほしい」と思っている人は、ほぼほぼ皆無である。


「作品を公の場に発表する以上そういうのが来るのは仕方のないことだけど、でもなるべくなら欲しくはないよね」というのが大多数の作者の共通見解であるように思うし、僕もこのスタンスだ。


(ただこれはあくまで僕の体感で、統計を取ったわけではないので確かなものではない。類が友を呼んでいるだけの話かもしれないことは付け加えておく)


 で、そうというのには理由があって、まず「作品の魅力や作者がやりたいこと」を認識できておらず否定的に捉えている読者さんによる指摘というのは、作品の改善にとって役に立たないものが多い。

 その作品の向かうべき方向性が「分かっていない」状態で書くものだから、言及内容がたいてい不適切なのだ。


 もちろん、誤字脱字の指摘であるとか、細かな表現レベルでこう改善したほうがいいのではないか、というのは建設的であることが多い。

 しかしそれ以上の根幹部分に踏み込んだ批判になると、たいてい「分かっていない」だけなのである。


 ものすごく分かりやすい例えを出してみると、ボーイズラブをメインで楽しんでもらう作品に対する批判として、「男同士の恋愛とか気持ち悪いです。男女間の恋愛にしたほうが多くの人に好まれる作品になりますよ」とかいう批判は、別に批判の内容として必ずしも間違っているわけではないが、作者からすれば「はぁ? うるせぇよバーカ。嫌なら見るな」以外に思うことがない、ということだ。

(LGBTに対する人権侵害を行っている、という権利レベルの非難をすることもできるが、本題からはかけ離れるのでその点にはここでは言及しない)


 作品の魅力、作者がやりたいことを肯定しない批判というのは、こういった「分かっていない批判」になりがちである。

 そしてそういった批判は、作者側にとっては不快になるだけ、そういう批判を送ってきた読者さんに対して悪感情を抱くだけなのでお断りしたいということになる。


 ただもう一度繰り返しておくと、これは「だからやってはいけない」という話ではないということだ。

 それを踏まえた上で、僕らはどうしていくか、どうしていきたいかという話になる。


 だからこの議論は、権利や義務といった強制力で縛るべき性質のものではなく、「あなたはどうしたいの」「僕はこうあってほしいんだ」という意見交換をして、それを踏まえた上で僕ら個人個人がそれぞれで、自分のスタンスをどうしていくかを決めていくべき問題だと思うのだ。


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