記憶するテーブル
こんにちは。
きみは、だれ?
手のひらは、ことばのないことばで、私にそう問いかけた。
すぐに手は離れ、次に感じたのは
糸底。たん、軽く当たったカップがふたつ。熱々の珈琲に満たされた、期待と、わずかな疲れ。
パパ、珈琲入れたよ。声も少しだけ疲れていて眠そうだ。
そして、あたたかいミルクがたっぷり詰まった哺乳瓶。
たっちがじょうずになったね、早く、あの靴を履いておんもに出ようね。
元気で、大きくなってね、そんな想いがいっぱいに詰まった瓶は、まっしろで、はちきれんばかり。
パパ、その上で新聞を拡げないで。
ママがうんざりしたようにいうのが聞こえた。
パパ、テーブルのニスが、なんとなくペトペトするから、新聞を置いたままにすると文字が写ってしまうんだよ。
その日の記事には、こうあった。
公定歩合引き下げ。
バグダッドでテロ、50名余死傷。
何のことかは、わからない。だってわたしはただのテーブルだから。
その日に当たった何かを、そのまま感じとるだけ。
小さな小鉢に、熱々のお鍋。
久しぶりの熱燗。
パパ、昇進おめでとう。ビールのほうがよかった?
ううん、寒いから熱々の酒がうれしいよ。この魚は鱈? 久しぶりだな。
みいちゃん、お魚食べられるかな? ふーふー、さました息がわたしにも当たる。さましているのに、あったかい。
ご飯が乗って、珈琲が乗って、ご飯が、お鍋が、おかずいっぱいのお皿が、ご飯が、おやつが、近所のママさんたちの持ち寄りパーティーのおかずが、ご飯が、珈琲が、紅茶が、パパの晩酌が、そして新聞が
「ほらパパ、また新聞!」
「ごめんごめん」
政権交代。難しい文字がそのまま鏡文字で写る、ママがごしごしと濡れた台拭きでそれをぬぐい、またお鍋と大皿。
そしていつしか、幼稚園のお弁当が。
「みいちゃん、またお豆残したね!」
「だっておまめきらい」
「お豆食べると、かけっこが速くなるんだよ」
うそです。私はテーブルだけどそのくらいはうそだと判るよ。
でもみいちゃんは本気にしたみたい。
「じゃあこれからがんばっておまめもたべりゅ!」
たん、と軽く置かれた珈琲のカップ。これはパパだ。少し、笑ってる。
またご飯、おかずの大皿。取り皿がいくつか。みいちゃんにはプラスチックのお椀とスプーン。
そしてまた、哺乳瓶。
みいちゃんに、弟ができた。
私に乗せられるたくさんの笑顔、いたわり、お互いを慈しむ想い。
赤ちゃんはわんわん泣いているのに、私に乗せられる手はどれも暖かい。
聴こえる思い。どんどん大きくなって、みいちゃんと、パパとママといっしょに遊んでね、と。
何度もなんどもくり返される朝餉、束の間のお昼、おやつ、夕餉、合間の家計簿、メモ帳、みいちゃんの折り紙工作、たっくんのお便り、パパはまた新聞を拡げる。
プラスチックのお椀とスプーン、何度も載せられたバースデーケーキ、ママの手作り。
私はすべてを記憶に刻む。
「上靴をテーブルに乗せないの、たっくん」ママが水色の袋を持ち上げる。
「あっ、ごめんなさい!」
でもぼく、自分であらえるよ、たっくんはママにブラシを貸して、と元気がいい。
夕餉のお皿が、少なくなった。パパは今夜も残業。
ママの腕からため息が伝わる。「今夜は早く帰ってきて、ってあれほど言ったのに」
みいちゃんは字が一杯の宿題を拡げている。
「どうして部屋でやらないの?」
「ここの方が集中するの!」
そんなやりとりが数十回、数百回。
そのうちにだんだんと、教科書や参考書の数が増える。
『大学入試シリーズ傾向と対策』『チャート式数学Ⅰ+A』『システム英単語』
パパはむずかしい顔をして、たっくんの成績表を載せている。
「勉強ができないのは、しかたない。俺だって成績はあんまり良くなかったよ……」
パパはとんとんと、指で先生のことばをつつく。そこには
『落ちつきがなく、しばしばクラス内でもトラブルが……』
口を尖らせているたっくん、膝を小刻みにゆすっているのが、私にも感じられる。
「揺らさないでよ、拓己!」
みいちゃんがイライラして叫ぶ。
「うるせえ」
たっくんの口調もイラついている。だん、と振動が響く。
「ちょっとくらい、デキるからってイバんなよバーカ」
パパの手のひらが私に叩きつけられる。飛んだのは罵声。
「来年は中三だろう? いい加減にしろ!」
「いい加減にしろだって? アンタだってリストラされたクセに」
陶器とガラスの食器が床に落ちる。
粉々の破片と、残ったおかずの里芋が脚に当たった。
這いつくばって拭いているママ、肩が小刻みに震えてる。私はそれを感じるだけ、何も言わずに。
それからも何度か、お皿が載って、お椀が、お箸が、でも
「拓己は?」
さあ、友だちの所じゃない? ママが載せるおかずはパックのまま。値札もついている。30%オフの黄色いシールも。
「おっさんは」
「そういう言い方するんじゃありません。父さんは新しい職場の忘年会だって」
「パートなのに?」
「どこ行くの三沙子」
「今夜はいらない、友だちと食べてきたから」
残ったのは、ママのため息だけ。
みいちゃんは大学に進学して、おうちからいなくなった。
たまに届くラインを、私はスマホごしに読みとる。
そっけない文面に、みいちゃんのそれなりの思いやり。
「父さんや拓己に振り回されない方が、いいよ。ママも楽しく暮らせば?」
ママはパックの総菜をつまんでいる。軽く置かれたグラスには、濃いめのウィスキー水割り。
「私がいなければ、ふたりとも帰る場所がなくなるでしょ? 三沙子だって」
肘が当たる。すっかり痩せた肘。両手をしっかりと組み合わせ。
「お願いします、神様、お願いします、すぐに、拓己が見つかりますように。どうかどうか、無事でありますように」
少し前から、帰ってこない拓己。
パパを待つのも疲れ、ママはそのままテーブルにつっぷして眠る。いつでも受けられるように携帯を脇に置いて。
久しぶりに、パパとママ、肩を寄せ合って座っている。二人の腕はテーブルに乗って、その先には
「よかった」
ママのつぶやきを、聞いていないようで聞いている、たっくんの腕。久しぶりに出されたたっくんのお茶碗。
ほかほかのご飯が山盛り。さっき買ってきたばかりのキムチ。それだけなんだけど、あっという間に、それらはたっくんの胃袋に収まっていく。
「拓己」
パパの声はすっかり弱々しい。それでも、安堵の気持ちは隠せない。
「うるせー、説教なんて聞きあきたんだよ、クソボケどもめ」
私には分かった。たっくん、本当に、ほんとうにほっとしている。
帰って来られてよかった。このテーブルでまた、ご飯が食べられて本当によかった。
私には聞こえた。たっくんの、ありがとうの囁きが。
かんざし、櫛、帯どめ、次から次へと置かれては、またママの手に。
みいちゃん、成人式なんだ。
おめでとう。ママの手はそう言って、次に南天の飾りを取り上げた。
たっくん、高校退学届け。警察での調書写し。そして、バイト情報誌がいくつか。
たっくんは、一生懸命何かを探そうとしている。めくったページの隅がいくつも折ってあって。
父さん、少ない稼ぎだってがんばってしがみついている。
母さんだって、俺たちのためにいつもおいしいご飯を作って待っている。
今度は俺が何か、してやらなければ。
早く、早く一人前になって、稼ぎたい。
また細い腕、そして、白髪の多くなったママの頭が載っている。うとうとしていたようだ。
「拓己」
自分の声にびっくりして、目がさめた。
たっくん、焦り過ぎたんだ。新聞記事には、名前はなかったけど、それは確かにたっくんの起こした事件だった。
みいちゃんの婚姻届、写しが載っている。
だいじょうぶ、素敵な人と一緒になれた。でも、私とはすっかり遠くなってしまったね。
でも私はママの思いをそのまま写す。
その場所で新しいテーブルに、新しい記録を刻んでね。
たっくん、久しぶりに私に手をついた。その手の甲に、そっと載ったのはパパの手。
「間に合わなくて残念だった」
ママは少し前から、私に触れなくなっていた。
病院の入院申請。治療予定表、手術同意書。
そして、ママはもう帰ってこない、ふたりの手はそう語る。
「拓己」パパの声は震えている。たっくんは黙ったまま。
でも、どちらの思いも深くふかく、ママに寄り添っていた。
出来合いのおかず、ご飯はパパが炊いて、たっくんがおかずを買ってくる。
ふたりは今では、息の合った同居人だ。
給与明細、二人分。少しずつ貯めて、迷惑をかけた人たちに、返すから。
たっくんはただ淡々と、そう言って、パパは、オレも手伝うから、と笑う。
安売りの広告がくっついて、パパがごしごしとそれを拭きとる。
「拓己、○○ストアで玉子買ってきてくれ」
「おっけー」
それから何度もささやかなる食卓が続いて、いつしか、時は過ぎ。
私に新しい手が触れる。小ささ、つたない、あたたかな手。
「きみはだれ?」
手は問いかける。私は逆に問いかけた。
「あなたは?」
だれかが叫ぶのが聞こえた。
「加奈、見てよ、剛志が立ってるよ!」
たっくんの声。今ではすっかり、パパらしくなっている。
まだまだ、どこかおぼつかないのは、赤ちゃんとあまり変わりないけど。
「ねえパパ」
かなちゃん、少し前から増えた、新しい家族。新しいママ。
「テーブルの上に、新聞を拡げないでね。お父さんも言ってたけど、印刷がくっついちゃうからね」
「やっべえ」
あわてて新聞を持ち上げる音。暖かい笑い声がひびく。
「久しぶりに帰ったら、相変わらずだね拓己は」
「うっせえな、オマエこそ相変わらずだな」
「アネキに対してその口は何だかなー」
でも、このテーブル。何だか懐かしいな。
珈琲カップをそっと置いたみいちゃんの手が、優しく私を撫でる。その手につかまる小さな手、みいちゃんはその手をとって、腕をとって、抱き上げた。
ちょっとつよくん、重たくなったねー。
みいちゃんの声にまた笑い声がはじけて。
『そして記憶は、繋がっていく』
了