8 全部見透かされている
「中学受験では、親のサポートがとても重要です」
進学塾に通っていると当たり前のように耳にするその言葉。
あの頃わたしは、その呪縛にどれほど苦しめられたことだろう。
子供にちゃんと勉強させて、いい成績をとらせるのは親の責任。
時間も教材も生活も、子供が自分で管理できないのなら親がきちんとフォローすべき。
『サポート』の意味をそう受け取ってしまったわたしは、ますます強力にハルキをコントロールしようとした。
なのに当のハルキは、親の言うことなど聞こうともしない。
最初の頃はたびたび強く叱っていた夫も、「あとは本人の問題だよ」と言って、いつしか直接関わろうとしなくなった。
そんなとき、保護者面談のお知らせが来た。
成績がすっかり伸び悩んでいるハルキ。
何を言われるのかと考えるだけで気が重い。
面談の当日、会社を早退したわたしは鉛のような足を引きずり、どんよりとした気分で塾に向かった。
しかし面談室のドアの向こうで待っていたのは、にこにこと人のよさそうな笑顔を浮かべた塾長の姿だった。
厳しく詰め寄られると覚悟していたわたしは、すっかり拍子抜けしてしまった。
「小日向君、おうちでのようすはどうですか?」
ゆったりと語りかける柔らかい口調、うんうんと親身に何度も頷きながらこちらの話に耳を傾けてくれる穏やかな表情。
完全に油断し切ったわたしの口からは、やり場のないハルキへの不満と不安が堰を切ったように流れ出す。
家ではなかなか勉強をしようとせず、ギリギリまで宿題にも手をつけないこと、だらだらゲームをやり続けたりと生活自体もだらしなく、親がいくら言っても聞かないこと等々。
塾長は微笑みを浮かべながら、ただ黙ってそれを聞いている。
「あの……こちらでは、どんな感じでしょう?」
ひと通りまくし立てたあとで、恐る恐る尋ねてみた。
「そうですね、小日向君は、授業中によく発言してくれるお子さんです。といっても、雑談に食いついてきてそのまま脱線して戻ってこない、ということが多いんですけどね……」
塾長の笑顔に苦笑が混じっているのを感じ取り、反射的に頭を下げる。
「……すみません……」
ひたすら恐縮するわたしに、塾長は穏やかな口調で、しかしひとつひとつ慎重に言葉を選びながら丁寧に話し続けた。
「彼は……なんでしょうね、自由気ままに振舞ってはいるんですが、伸び伸びと育てられてきたというのとは、ちょっと違うような印象を受けるんです」
「え?」
ドクン、と心臓が大きく脈を打つ。
「例えばこっちが本気で怒ったりすると、それまでふざけていたのが一瞬ひどく怯えるような、ものすごく委縮するような表情になって、あれ?っと思うことがあるんです」
さーっと血の気が引き、ガラガラと足元が崩れて落ちていくような感覚に襲われた。
全部、見透かされている――。
10年間、思うようにならない子育てに苦しんできた。
生意気でマイペースなハルキはわたしの手に余り、最後はいつも激しく怒りをぶつけることでいうことを聞かせようとした。
こんなやり方は違うと思うのに、どうしていいかわからない。
そんな自分が嫌になり、その苛立ちをハルキに向ける悪循環。
そんなことを繰り返してきたわたしは、ハルキに何らかの不安定さを感じるたびに、自分のせいだと感じて苦しくてたまらなかった。
なのに周囲はいつも「気にしすぎだよ」「ハルキくんはしっかりしてるよ、大丈夫」といたわりに満ちた言葉を口にする。
みんな知らないのだ、わたしがどんな母親か。
手放しでハルキを愛しいと思えたことなどない。
ただ義務感だけで世話をし、正論でわが子を追い詰めた。
それ以外どうしていいか、わからなかった。
塾に行かせたことだって、『成績』というわかりやすい免罪符を手に入れて、すべてを帳消しにしたかっただけだ。
全部ただの思い過ごしだと、ハルキはちゃんと育ってると、自分自身にも周りにも証明して楽になりたかったのだ。
誰も本当のわたしに気づかない。
夫さえ、わたしが何に怯えているのか理解できずにいる。
けれど、この塾長には何もかも見透かされている。
何重にもオブラートに包んだ言葉ではあるけれど、わたしたち親子の間に何かあると見抜いているに違いなかった。
そのことに、なぜかわたしはホッとした。
まるで、逃亡生活の果てにようやくつかまった罪人であるかのように。