80 備忘録
正月の帰省からしばらく経った頃、久しぶりにハルキから電話があった。
ようやく研究室の配属が決まり、1週間ほど朝から晩まで詰めっぱなしで先輩からの引継ぎを受けていたという。
さぞかしうんざりしていることだろうと思いきや、なぜか受話器の向こうの声はいつになく生き生きと弾んでいる。
聞けば地道な作業をコツコツと積み重ね自分で立てた仮説を確かめていくプロセスが楽しくて仕方ないらしく、引継ぎも終わり春休みに入ったというのについ研究室に足が向いてしまうのだという。
「なんか俺、こういう研究とか、すごく合ってるわ。
自分で考えて、とりあえずやってみて、うまくいかなかったらまた別のやり方をひとつひとつ試してみて――そういうのが、すっごく面白いんだよね……」
夢見るような声色に、思わず耳を疑った。
本当にこれが、口癖のように『面倒くさい』を連発し、『俺に足りないのは、努力する才能だ!』と豪語していたハルキなのか?
……ああ、そうか。
こいつはもともと、こういう子供だったのか――。
やる気がないわけでも努力が嫌いなわけでもなく、決められた枠の中でに与えられる正解に意味を感じなかっただけなのだ。
あの頃のわたしはそんなことを考える余裕もないままに、幼い彼の自由な心を抑えつけてばかりいた。
しなくてもよかったはずの回り道。
受話器の向こうの声が希望に満ちているほどに、失ったものの大きさをあらためて思い知らされ、きしきしと胸が痛む。
ごめんね、ハルキ。
それでも母は母なりに、長らく背負ってきたものたちと向き合おうとしてきたのだよ。
あの家に連綿と続く負の連鎖を君の手前で断ち切りたいと、みっともなくもがき続けてきたつもりだ。
わかっている、それでもなお堰き止めることのできなかった歪さが、なす術もなく君になだれ込んでしまったこと。
わかっている、それを誰かがどうにかしてやることなどできないと。
君もまた、否応なしに幾ばくかの重荷を背負って生きざるを得ないのだ。
わたしがそうであったように。
ならばせめて、君が幼い日に失い続けてきたものを、わたしたちが与え損ねた諸々を、この先も君自身の手で力強くつかみ取っていくことができますように。
これからの君の人生が、せめてわたしのそれよりは、少しでも生きやすいものでありますように――。
わたしもまたわたし自身の戦いを、これからも続けていくだろう。
ここ数年は、生涯で初めてといっていいほどの平穏な日々を送っている。
それでもわたしの中の小さな冬子は、今もなお些細なできごとで心を乱し、たやすく自分を責め立てるのだ。
いつの間にか『やりたいこと』でなく『やらねばならぬこと』ばかりにキリキリと追い詰められ、気がつくと心が固く締めつけられて日常から色がすっかり抜け落ちている。
そんなとき、わたしはゆっくりと深呼吸をし、わたし自身にそっと声をかけるのだ。
『いいんだよ。
完璧である必要なんて、ないんだよ。
わたしは、わたしらしくいればいい。
ただ、心が求めるものを、信じていけばいい』
そんなやりとりを何度も繰り返しながら、ちっぽけで情けない自分をそれでも愛そうともがきながら――この遅々とした頼りない歩みは、この先も続いていくのだろう。
それで、いいではないか。
そうやって、歪で不完全な自分と、生きていけばいい。
それでもいつか、心が闇に覆われすべてが無意味に思える日が来たら、わたしはきっとこれまで歩んできた道のりの中になんらかの光を見出そうとするだろう。
いつか来るかもしれないその日のために、そしてわたしと同じような苦しみを抱えた誰かのために――ささやかな備忘録を、ここに書き記しておく。
備忘録シリーズは、これで完結となります。
長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。




