79 発射台
ハルキが家を出てから、3年あまりが過ぎた。
ひとり暮らしにはすっかり慣れたと言いつつも相変わらず自己管理は苦手なようで、この3年、サークルの飲み会で泥酔し翌日の講義をサボったとか、仕送りを使いすぎ10日間を数百円で過ごしたとかいうエピソードには事欠かない。
お金の管理は特にルーズで、2年生の終わりごろからは、たびたび家賃や光熱費を滞納し「バイトして返すから」と前借りを繰り返すようになった。
さすがにこれは、まずいのではないか?
不安になったわたしは夫に相談し、とりあえずこの正月の帰省でじっくり話をしてもらうことにした。
夫もハルキもアルコールには強く、最近ではハルキが帰ってくるたびに仲良く酒を酌み交わしている。
今回もおせちと山盛りの唐揚げを前にまずは缶ビールで喉を潤し、他愛ない話題で盛り上がった。
あのアパートは恐ろしく寒いとか、夏は羽虫が大量発生するとか言いながら笑い合っているうちにビールは空になり、すかさず透明なグラスに冷酒が注がれる。
そこからさらに杯を重ね、ふたりともすっかりいい気分になったところで、夫がさくっと本題に切り込んだ。
「ハルキさ、仕送りけっこう使い込んでるらしいじゃない。そこのところ、自分ではどう思ってるの?」
夫の口調は穏やかで、責めるような響きはない。
だがハルキはその瞬間、すっかり緩んでいた表情をさっと曇らせ、バツが悪そうに頬をひきつらせた。
「いや、それね……わかってるんだけど、ホントに俺の弱いところっていうか……申し訳ないとは、思ってる」
そうモゴモゴと口ごもりながら、目を伏せる。
その反応は、わたしにとってはまったく予想外のものだった。
『あのー、お母さま。大変申し訳ないんですが、明日までにガス代払わないと止められちゃうみたいで……出していただくわけにはいかないでしょうか?』
いつも受話器から聞こえてくるのは、おどけたような明るい声。
本気か冗談かよくわからないその物言いを耳にするたびに、こいつはなんと気楽にお金を要求してくるのだろうと、内心苦々しく思っていた。
だがそれは、わたしの思い違いだったのかもしれない――。
その予想を裏づけるかのように、目の前のハルキがかすかに震える声で青ざめた言葉を絞り出す。
「俺……手元にお金があると、どうしても使っちゃうんだよね。気が大きくなって、歯止めが利かなくなるっていうか……これじゃいけないって思うんだけど、そのときになると、まだこれだけあるから大丈夫だって、自分を許しちゃう。
父さんはさ、じいちゃんが作った借金をずっと返してきただろ? それに比べて、俺は何やってるんだろうって……自分が情けなくなって、すごく落ち込む……」
うつむいたまま透明なグラスの水滴を何度も指でなぞる横顔は、ほとんど泣きそうにさえ見えた。
「そうだな……お金のことって、すごく惨めな気持ちになるよな」
「うん。あれはほんとに、たまらない。そのたびに……自分クソだなって思う」
そういって顔を歪め、吐き出すようにつぶやいた。
ハルキはちゃんとわかっているのだ。自分の弱さも、情けなさも。
そしてそれらに、きちんと打ちのめされている――。
夫もそれを感じたのだろう、ゆっくりとうなずきながら、こう告げた。
「人間はみんな弱いからな。
でも、少なくともおまえは自分の弱さと向き合おうとしてる。
自分がクソだということを、ほかの誰かのせいにしたり、言い訳をしたりせずにね。
それはたぶん――ハルキ自身が思っている以上に、大切なことだよ」
思いもかけない夫の言葉に、ハルキの鼻先がつんと赤くなる。
「まあ、ハルキなんてまだまだだな。
俺の学生時代は、もっと滅茶苦茶だった。
奨学金入るとパチンコして、友達に授業の代返頼んでバイトばっかりやってたからな。
それでも単位とれたんだから、テキトーな学校だったんだよなぁ」
夫はそう言って、嬉しそうに目を細めた。
結局ハルキからの申し出で、家賃や光熱費の引き落としと生活費のふたつの口座に分けて仕送りをすることになった。
これなら使っていい金額がちゃんと把握できると、ハルキはようやくホッとした表情を浮かべた。
お金の問題が片付いたところで、さらにグラスを傾けながら夫が尋ねる。
「で、卒業後はどうするつもりなんだ?」
「たぶん……院を目指すと思う」
ためらいがちなハルキの返事。
『大学院への進学を考えている』と初めて彼が口にしたのは、2年生の夏休みだった。
『今の時点で特に研究したいことがあるっていうわけではないんだけど、それも悪くないかなと思って……』
みんなで居酒屋に行った帰りのごく軽いやりとりだったが、酒の勢いも手伝い夫はそれをあっさり受け入れた。
『もし本気でやりたいことがあるなら、学費は俺がなんとかしてやる』
夫の言葉に、ハルキは嬉々として叫んだ。
『本当だな? 言質取ったからな!』
そんなやりとりをしてから、すでに1年あまりが経っていた。
だが今に至るまでハルキからのはっきりとした意思表示はなく、周囲が就活を始めるこの時期になっても心を決めかねているように見えた。
夫もそれを気にしていたのだろう、こんな言葉で背中を押した。
「俺は、いわゆる『いい会社』に入ってほしいとか、そんなことはまったく思ってないからな。おまえは自分が本当にやりたいことをやればいい」
すると、ハルキはニヤリと笑ってこう言い切った。
「わかってる。ただ今の成績だと入りたい研究室に配属してもらえるかどうかが微妙なところで、それで迷ってるだけ。
そもそも、中学受験までして入った学校をやめるのを許してくれた親がね、この期に及んで世間体を気にするなんて、まったく思ってないから!」
その揺るぎない目の光に、じわじわと胸が熱くなっていく。
ああ、そうか。
わたしたちがしてきたことは、やはり間違ってはいなかったのだ。
ありのままのハルキを受け止める、それだけを思い定めて過ごした暗く長い日々は、決して無駄ではなかった。
大切なものは、ちゃんとハルキに届いている。
そしてそれは、彼が彼らしく生きていくための確かな力となっている。
それだけで――もう、充分だ。




