70 愛されない理由
ハルキが自分の足で歩き出そうとする一方で、わたしのカウンセリングは見えない壁に突き当たっていた。
どんなときでも厳格に規律を守ろうとする、典型的な優等生の『小さい冬子』。
のびのびと自由気ままで、好奇心旺盛な『ちびふわ』。
そして、怒りと孤独と虚無感を抱え続ける『少年』。
自分の中で、その3つがうまくバランスをとれずにいるのはわかった。
だがそれをどうにかしようとすると、頭にぼんやりと靄がかかる。
阿部は「治療抵抗ですね」と言った。
無意識のうちに先に進むのを嫌がっているのだ、と。
その言葉を裏付けるかのように、しばしば離人感が出現するようになった。
絵の中にすっぽりと入り込んだかのように、すべてが平面に見える。
何もかもが遠く、身体にも現実感がなく、頬に触れているのが自分の手だと感じられない。
透明な膜で世界と隔てられているかのような違和感。
だが、異常さを自覚しつつも、不思議と苦痛は感じなかった。
苦しくないなら、カウンセリングなんて必要ないんじゃないの?
あんたは甘えてるだけじゃないの?
どこからかそんな声が聞こえる。
ああ、これは『小さい冬子』だと、膜のかかった頭で思う。
これまでのわたしの人生で、中心的な役割をしてきた意識。
過ぎた厳しさで自分を追い込みがちな彼女は、どうやってあとのふたりを受けいれていいのかわからないのだ。
ちょうどそんなころ、わが家で祭り見物の話が持ち上がった。
豪華絢爛な山車と盛大な冬の花火がみどころの、国内でも有数の夜祭り。
日頃から世話になっている兄をお歳暮代わりに招待しようと夫が言い出し、チケットを手に入れたのだ。
当日は朝からあいにくのお天気だったが、夕方には晴れるという予報を聞いて、わたしたち4人は意気揚々と山のふもとの町へと向かった。
悪天候のわりに道は空いていて、渋滞にはまることもなく車は走り続けた。
だが、窓を閉め切り暖房を効かせた車内は思いのほか蒸し暑く、次第に空気が重く淀んでいく。
息苦しさを感じ外の景色に目をやるが、窓は一面結露に覆われ、雨粒以外ほとんど何も見えない。
街中を抜けるころには、本格的に具合が悪くなってきた。
ぐったりとシートに体を預けながら、こっそり何度も大きく息を吐き、こみあげてくる生あくびを噛み殺す。
たった2時間の道のりがとてつもなく長く感じられ、いよいよ限界と思ったところでようやく現地に到着した。
透明なビニール傘を開き、水たまりを避けながら車を降りる。
数時間ぶりに吸い込んだ、ひんやりと冷たく新鮮な空気。
それでも重苦しい不快感は、体の奥にずしりと居座ったままだ。
「ちょっと歩くけど、駅前までいけば出し物とかやってるみたいだよ。食べ物屋もあるだろうし」
そう言って兄がさっさと歩き出す。
『ちょっと歩く』という言葉に一瞬不安がよぎったが、すぐにそれを振り払いあとに続いた。
駅に向かう道はたくさんの観光客で賑わっていた。
古い家々が立ち並ぶ狭い路地に、色とりどりの傘がひしめき合う。
濡れたアスファルトから這い上がる冷気と、周囲に渦巻く熱気。
足元の水たまりを避け、人混みにもまれながら歩き続けるうちに、こめかみのあたりがズキズキと痛みはじめた。
振り払ったはずの不安が、再び頭をもたげてくる。
大丈夫、すぐに落ち着く。
そう自分自身に言い聞かせながら、必死に歩を進める。
たが痛みは一向におさまる気配をみせない。
金槌で頭を内側から激しく叩かれているような苦痛に、思わず顔が歪む。
ああ、だめだ。
どうしよう――。
すがるように視線を向けたが、3人はわたしの異変にまったく気づかない。
兄とハルキが並んで話しながら歩くうしろを、夫が笑顔でついて行く。
その光景に、ふと思い出す。
夫は、兄のためにこの祭り見物を計画したのだった。
十数年前、夜逃げ寸前で実家に転がり込んだわたしたちを、当たり前のように受けいれてくれた兄。ようやく暮らしが落ち着いた今、多少なりともこれまでの恩返しがしたいと、夫はよく口にしていた。
それだけではない。ここ数か月完全に家に引きこもっていたハルキのことも、気にかけているはずだった。この楽しいイベントが、行き詰まったハルキの心を動かすきっかけになれば、と。
夫のそんな想いを、わたしのせいで台無しにするわけにはいかない――。
わたしは泣き出しそうな心を必死に抑えつけながら、よろよろとみんなのあとを追いかけた。
とそのとき、わたしの前を歩いていた夫が突然笑顔で振り向いた。
「冬子、今日はやけに静かじゃない?」
冗談交じりの軽い口調。
だが次の瞬間、その表情が凍り付いた。
「どうしたの? 調子悪い?」
ああ、やっと気づいてもらえた……。
涙目になりながら、喘ぐように答える。
「頭痛い……」
「大丈夫? 歩ける?」
大丈夫じゃない。
そう言って、すぐさまその場にうずくまりたかった。
実際、少しでも気を抜けばそのまま倒れてしまいそうだった。
だが、もしそんなことをしたらどうなる?
周囲は民家と小さな畑ばかりで、休めそうな場所などない。
容赦なく降りしきる冷たい雨。
観光客であふれかえる狭い路地。
こんなところで動けなくなったら、みんなを困らせるだけだ。
わたしは力を振り絞り「大丈夫」とだけ答えると、絶望的な義務感でふらふらと歩き続けた。
それを見た夫が険しい表情で数メートル先の兄のもとに向かう。
ああ、夫はきっと、わたしの具合が悪いことを伝えに行ってくれたのだ。これでもうがんばらなくていいのだと、朦朧とした意識の中で安堵する。
だが信じられないことに、この状況を知っても兄はほとんど表情を変えず、何事もなかったかのように前を向き、また淡々と歩きはじめたのだった。
……どうして?
わたしは目の前で起こっていることが理解できず、それまでと同じ速さで遠ざかっていく兄の後ろ姿をただ呆然と見つめていた。
わかってる、兄は決して冷酷な人間などではない。ただ、驚くほど合理的にものを考える時があるだけで。
今もおそらく、わたしに優しい言葉をかけるより、少しでも早く休める場所を探そうと考えているに違いない。
もしくは、わたしがここまで切羽詰まった状態だとわかっていないのだ。
わたしは頭の中で思いつく限りの理由を並べ立て、崩れ落ちていく気持ちを必死に立て直そうとした。
だが、言いようのない感情が胸の奥で激しく渦を巻き、抑えることができない。
どこからか、声が聞こえる。
『おまえの痛みや苦しみなどは、取るに足らないものなのだ。
手をさしのべてもらえないのが、何よりの証拠じゃないか』
ああ、そうだ。
きっとその通りなのだ。
そう思った瞬間、心がぎゅっと固く冷たくなるのがわかった。
まるで金縛りにあったかのように、あらゆる思考と感情が自由を奪われていく。
この感じ。
わたしは、これを知っている。
これは――そう、幼い頃からいつも味わってきた感覚だ。
寒々としたあの家のようすが目に浮かぶ。
庭で転んで膝を擦りむいても、お皿を割って指を切っても、風邪をひいて熱を出しても、優しい言葉をかけられることはなかった。
家族は無言で冷ややかな視線を向けるだけ。
まるでわたしの痛みや苦しみなど存在しないかのように。
そうか、これは心配するほどのことではないのだ。
このくらい黙って我慢すべきなのだ。
幼心にそう感じたわたしは、気がつくと甘えることのできない子どもになっていた。
もちろん、言葉でそう言われたわけではない。
大人たちにそんなつもりがなかったことも、今になれば想像がつく。
だが柔らかく傷つきやすい心を持った幼いわたしは、そうやって解釈しなければ自分が愛されない理由がどうしてもわからなかったのだ。
苦しいときに手をさしのべてもらえないのは、たいした苦しみではないから。
優しい言葉をかけてもらえないのは、自分にそんな価値がないから。
そんな歪んだ信念を深く刻み付けることで、冷たく長い時間を生き延びてきた小さい冬子。
今ならわかる。
本当は、「大丈夫か?」って駆け寄ってほしかった。
「しょうがないなあ」って温かく笑ってほしかった。
ぎゅっと抱きしめ、慰めてほしかった。
いつも、いつのときも――。
そのどれもかなわないまま、心を固くし何も求めないことで、それ以上傷つくことのないよう自分自身を守ってきた。
ああ、そうだ。わたしが夫を必要としたのは、あの人はそんなわたしにぐいぐいと踏み込んできてくれたからだ。
彼は、声をあげることもできなくなっていたわたしの心を強引ともいえる情熱でこじ開け、身を乗り出すようにして持てる限りの愛情を注ぎこんでくれた。
それは、幼いわたしがあの家でどうしても手にすることができなかった温もり。
長いこと失い続け、胸の奥で焼け付くように求め続けていたものだったのだ。




