69 義務教育
翌日、担任からあらためて電話があった。
『卒業後のことについてはわかりましたが、現在は義務教育期間なので、まったく来ないというのは問題ですよ?』
蔑むような口調から、言外のメッセージがひしひしと伝わってくる。
『病気でもないのにこんなにも休ませるなんて、どうかしてる。
彼はただの怠け者なんだから、甘やかさないで無理にでも登校させるのが親の務めだろ?』と。
義務教育?
義務って、誰の、何に対する義務?
子どもが持っているのは、学校に行く「義務」ではなくて「権利」だ。
子どもがその権利を行使できるよう環境を整えるのが、親の義務。
だがそれは、決して「学校に行きたくない子どもに登校を強いて強制的に教育を受けさせる義務」ではない。
ハルキは自分の意志で「もう行かない」と決めたのだ。
わたしは、頭の中に次々とわきあがるその反論をぐっと呑み込んだ。
そんな理屈が通じる相手でないことは、今までのやりとりで充分すぎるほどわかってる。
学校にとってわたしの主張などただの屁理屈でしかない。
なぜなら、他の生徒たちはみなちゃんと学校に来ているのだから。
おかしいのはみんなと違うハルキなのだ。
わかってる。
それが社会の厳しさであり、ある意味正論なのだということも。
だがそれを一方的に押しつけられるたび、踏みにじられたような気持ちになるのはなぜだろう。
学校だけではない。
わたしは夫からも、しばしば似たような圧力を感じることがあった。
夫はいつも、ハルキは好きなように生きればいい、と言う。
奴の人生だ、どういう道を選んでもいいと。
事実、通信制の高校を進路に選んだことも、学校に行かないことも、一切文句を言わずに受け入れてくれている。
でも時折感じてしまうのだ、その言葉の裏に潜む冷たさを。
「人間、しんどいことをがんばってやるから、喜びがあるんだ。
それから逃げている奴は、本当の喜びは得られない。
奴は先生たちから口うるさく言われることを嫌がってたけど、ずっと後になれば、あの時言ってもらってよかった、と思うんだよ。
それをああやって楽なほう楽なほうに逃げてたら、必ず後悔するようになる。
ま、言っても仕方がないし、奴の人生だ。
どん底までいって、自分でとことん思い知るしかない。
ただ、あのままずっと逃げ続けなければいいけどな」
この言葉を聞いたとき、わたしは夫が決して今のハルキの状態を肯定的に見ているわけではないことをはっきり悟った。
担任と話すときと同じように、心が冷え冷えと凍りついていく。
以前夫と山登りの話をしたことがある。
夫は、早く頂上に着けるよう最短コースを選ぶのが当たり前だろう、と何の迷いもなく言った。
あちこちの風景や道端の草花をたくさん見ながらゆっくりと自分のペースで登りたいというわたしの発想は、まったく理解できない、と。
おそらくそれは、ハルキに対しても同じなのだ。
手っ取り早くゴールにたどり着ける道が目の前に用意されているのに、なぜわざわざそこからはずれようとするのかが、夫にはわからない。
早くゴールに着いたからといって、それが何だというのだろう。
そのことに価値を見いだす者もいれば、そうでない者もいる。
どちらかだけが正しいわけではないし、がんばることだけが素晴らしい生き方だとは思えない。
だが夫にとって、ハルキはただの怠け者。
目の前の苦労から逃げて、結局は遠回りをする愚か者なのだ。
もしかしたら、社会の厳しさを教えようとする父親としての愛情かもしれない。
だがそれは、いつもわたしを苦しくさせる。
おまえは本当は間違ってるけど、言ってもわからないから、許してやってる。
わたしの両親も、わたしのことをそんな風に思っていたのだと思う。
そしてそう感じてしまうことが、子どものわたしにはとても辛く寂しかった。
不本意な子どもだけれども、受け入れてやるよ。
でもお前のやってることは本当はおかしいんだ、早くそれに気付けよ。
そんなメッセージを感じ取るたび、心がねじれていった。
このままのボクじゃダメなんだろ?
お情けで許されてるだけなんだろ?
それなら、いらない。
そんな愛なら、もういらないよ。
わたしの中の少年が叫ぶ。
ならばせめて、わたしだけはハルキの味方でいよう。
ありのままのハルキをまるごと肯定することだけを考えよう。
近づいてくる冬の足音を聞きながら、あらためて強く心に誓った。




