68 トンネルの出口
ハルキの不登校は、いわゆるいじめが原因ではなかった。
また、優等生の息切れというのともだいぶ違っていた。
過度のストレスで身体に変調をきたしたとか、がんばりすぎて心のエネルギーがすっかり枯渇したとかいうことでは、おそらくない。
「学校に行く意味を感じない」
「めんどうくさい」
そんな言葉で彼はその理由を語ったけれど、本当のところは自分でもよくわかっていなかったのではないかと思う。
ただ、ずっと後になって「もしあのとき、無理矢理学校に行かせてたら、どうなってたと思う?」と尋ねたとき、彼はニヤリと笑いながら「死んでたな、精神的に」と即答した。
それを聞いて初めて、やはりあれはあれでハルキにとっては限界だったのだと、納得できたように思う。
ただその当時は、本当の意味でそれを受けいれるのはなかなか難しかった。
とりわけ五月雨登校の期間は苦しくて、今日は行くのか行かないのか、何をどこまで許していいのかと、いちいち迷いが生じることにわたしは疲れ果てていた。
だから、ハルキが完全に登校しなくなったときには、これでやっと楽になるとさえ思ったものだ。
しかし、平穏ではあるが先がまったく見えない完全不登校の日々には、また別の苦しみがあった。
登下校の時間にうっかり外に出ようものなら、ハルキと同じ年頃の子どもたちの姿が嫌でも目に入ってしまう。
そのたびに、制服のワイシャツの白さやおそろいの通学鞄や、友達とふざけ合う笑顔に深く胸がえぐられた。
どうして。
どうしてこの当たり前の光景に、あの子だけがいないのだろう。
中学、高校、大学と、できあがったレールの上をさしたる疑問も抱かずにスムーズに進んでいく大勢の子どもたち。
そんなごく普通の流れから、彼はもう完全に切り離されてしまったのだ。
わかっているはずなのに、もういいかげん覚悟を決めたはずなのに、それでもふとした瞬間に、どうしようもないやり切れなさに心がさらわれそうになる。
いつ終わるともしれない真っ暗なトンネルに迷い込んでしまったわたしたち。
それでも、ハルキには行くべき道を自ら選ぶ力があるはずだと、必ず出口に辿り着けるはずだと何度も心に言い聞かせ、自分自身を奮い立たせた。
そう、すべてのことに意味がある。
目には見えず、常識では計り知れなかったとしても、これはきっと今の彼にとって必要な時間。
そうやってかすかな光にすがりつきながら、やがて来るはずのその時を、ただひたすらに待ち続けていた。
ハルキが動き出したのは、季節が秋から冬へと移り変わろうとする頃だった。
「オレ、通信制の高校でも行きながら、バイトとかしようかな~」
その日、遅い朝食をとったあとも部屋に戻らずリビングでうろうろしていたハルキが、唐突にそんな言葉を口にした。
冗談のような軽い口調。
だが、強張った表情からは、ひしひしと不安な気持ちが伝わってくる。
もしここでわたしが対応を間違えば、この子はきっと再び心を閉ざしてしまうに違いない。
そう思ったら、とっさに口にしていた。
「いいんじゃない? やりたいように、やってみたらいいよ」
ハルキは一瞬驚いたように目を見開き、泣きそうに顔を歪ませた。
そして慌てて下を向いたかと思うと、小さな声で「……うん」とつぶやき、安心したようにこれからのことを話し始めたのだった。
「……通信制の手続きって、まだ間に合うかな?」
「うん、大丈夫だと思うよ」
「インターネットだけの授業じゃなくて、週に何日か登校するところがいいって、ネットに書いてあったんだよね。うちの近くにもあるかな……」
この数か月、一歩も外に出ることなく毎日パソコンに向かっていたハルキ。
迫り来る現実から目を背けたくてゲームに逃げ込んでいるのではとひそかに心配していたのだが、そうではなかった。
口にこそ出さなかったけれど、彼なりにいろいろ調べてこれからのことを考えていたに違いない。
彼の中にようやく芽吹いた希望が、少しずつはっきりとした形をなしていく。
永遠に続くかと思われたトンネルの、出口がうっすらと見えた気がした。
ハルキの担任からしばらくぶりに電話がかかってきたのは、ちょうどその日の夕方だった。
修学旅行に行くかどうかを確認したいというので、そのままハルキに代わった。
ハルキは露骨に顔をしかめて子機を受け取り、部屋のドアを閉めてしばらく何かぼそぼそと話しているようだった。
やがてきっぱりとした声がドア越しに聞こえてきた。
「通信制に通ってバイトします」
「いつまでもこのままずるずるしているのもよくないし、今から普通の高校を受験するのは厳しいので……」
「高校卒業までに、大学に行くか就職するか決めようと思ってます」
一切迷いの感じられない力強い受け答えに、息を呑む。
いくつになっても芯のない危なっかしい奴だと、ずっと思い悩んでいたのに。
この先ちゃんとひとりで生きていけるようになるのだろうかと、心配でたまらなかったのに。
君はいつの間にか、ちゃんと自分の足で歩き始めようとしていたんだね。
胸の奥からじわじわと熱いものが広がり、視界をにじませていく。
こみ上げる想いを噛みしめながら、ふと視線をベランダに向けると、シクラメンの濃い緑の葉がかすかに揺れていた。




