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63 少年

 カーテンの奥にじっと隠れていた女の子。

 果たしてそれが本当にインナーチャイルドと呼ばれるものなのか、それともわたしが心の中で勝手に作り上げた幻影に過ぎないのかは、わからない。

 ただ、最初のうち靄がかかったようにぼんやりしていたそのイメージは、時とともにはっきりとした姿で立ち上がるようになっていった。


 ふわふわのくせ毛を揺らしながら生き生きと輝く瞳で夢に現れた彼女を、わたしは『ちびふわ』と呼んだ。

 ちびふわは、好奇心旺盛で怖いもの知らずだ。

 それは、世間体も常識も相手の気持ちも関係なしに、心の赴くまま生きようとする子どもの心。現実では表に出ることのなかった、もうひとりのわたし。


 だがようやく姿を現した彼女を、わたしは手放しで受け入れることができなかった。

 自分の一部のはずなのに、ずっと大事に守ってきたものなのに、こんなにも胸がざわつくのはなぜだろう。


『もっときちんとしなきゃダメ、そんなだからみんなに嫌な顔されるんだよ』


 どこからか聞こえる、苛立ちを含んだ硬い声。

 ふと見ると、おかっぱ頭の幼いわたしが忌々しげにちびふわを睨みつけている。


『あんたはいつも考えなしで、何をしでかすかわからない。

 いいかげん気づきなよ、それじゃダメなの。

 ちゃんといい子にしてないと嫌われるよ』


 ああ、そうか。

 わたしはいつもそうやって自分の中のちびふわを抑えつけていたのか。


 のびのびと振る舞えば自分勝手だと否定され、我慢せずやりたいことをやろうとすればワガママだと詰られる。

『欲望を満たすのは悪いこと』だと刷り込まれてきた小さな冬子にとって、心のままに生きようとするちびふわはどうしても受け入れがたい存在だったのだ。


 ねえ、小さなわたし。

 あの家の空気がいつも冷たく張り詰めていたのは、あなたがダメな子だからじゃないんだよ。

 お父さんの重苦しい表情も、ヒステリックなお母さんの小言も、大人同士の怒鳴り合いも、根無し草のような心許なさも、このまま消えてしまいたいと願うほどの耐えがたい淋しさも、何ひとつあなたのせいではなかったんだよ。


 あれは子どものあなたには、どうしようもないことだった。

 だからもうちびふわを抑えつけなくていい、ありのままの心で生きていいんだよ。


 だが幼い冬子はやはり身を固くしちびふわを睨みつけたたままで、わたしはそれ以上どうやって反目し合うふたつの心を近づけていいかわからなかった。



 それからひと月ほどが過ぎた頃、ある夢を見た。

 夢の中のわたしは中学生で、家にはもうひとり同じ年頃の少年が暮らしている。

 ある週末、友達と街に出かけたわたしはショッピングモールでたまたま彼を見かけ、あまりにやせて顔色が悪いのが気になり声をかけた。

 間近で見ると少年の顔は能面のように硬く青白く、ぞっとするほど冷たく暗いまなざしをしている。


『この子はおかしい、何かやらかすに違いない』


 そう直感したわたしは大急ぎで店を出て、空を飛んでその場から立ち去った。


 無我夢中で飛び続けているうちに、背後がひどく騒がしくなってきた。

 どうやら彼が人を刺したらしい。

 わたしは間一髪逃げおおせたことに安堵する。

 だが同時に、彼の異変に気づきながら何もせず逃げ出した自分を責め苛んだ。


 家に帰ると、もうみんな事件のことを知っていた。

 母はしたり顔で「お金を渡してやれば、あんなことしなかったんだ」と言う。

 その瞬間にどうしようもない悲しみと怒りが湧き上がり、「そういう問題じゃない!」と母に食ってかかる。



 目が覚めてからも、しばらくの間は激しい動悸がおさまらなかった。


 あの少年は十代のわたし。

 感情を凍らせることでかろうじて生きていた。

 誰を傷つけても何をしても、かまわないと思っていた。


 母とは何度も言い争いをした。


『一番大切なものはお金じゃない』


 そんなわたしの言葉を、母は綺麗事だといって取り合おうとしなかった。

 お金がなければ結局は何もできないじゃないか、と。

 そしてわたしが進学するときも、体を壊して働けなくなったときも、勝ち誇ったようにこう言った。


「ほれ見ろ、やっぱりお金がないとダメだろう?」


 母がずっと苦労してきたのは知っている。

 こつこつ100円の野菜を売り歩いて小銭を貯めて、わたしたちにかかるお金を工面してくれたのもわかっている。

 それが母なりの精一杯の愛情だったということも。


 けれどもクラスの中でいつも一番みすぼらしい格好をして、「あいつの家は一日百円で生活してる」といじめられて、それでもわたしが何より欲しかったのは、やっぱりお金じゃなかったんだ。


 ただ、わたしの気持ちを温かく受け止めてほしかった。

 わたしが何を感じているのか、知ろうとしてほしかった。


『一番大切なのは心だよ』ってわたしがあんなにも言い続けたのは、わたしの心をちゃんと見てよって言いたかったからだ。


 でも結局、何ひとつわかってはもらえなかった。



 ずっとあとになってから、自慢気に母は言った。


「お前らには、不自由させたことはない」


 自由って、何?

 わたしの心は、いつも飢えて不自由だったよ?



 ねえ、お母さん。

 わたしは、餌を与えていれば育っていく家畜じゃない。


 あの少年は、やはりわたしだ。

 あまりに心が空腹で、飢え死にしそうだったあの頃のわたし。

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