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56 母との距離

 カウンセリングで15歳の頃の感情を生々しく思い出して以来、わたしの精神状態はますます不安定になった。


 洗濯機の渦に放り込まれたかのように、バラバラに拡散しそうになる意識。足元の地面は消えてなくなり、どちらが上で前なのか、すっかりわからなくなる。


 思春期の頃から、得体のしれないこの感覚にいつも苦しめられてきた。何もかもが無意味に感じられ、毎日がただ苦痛でたまらない。いっそこのまま意識を消し去りたい、そんな衝動と闘いながら、1秒1秒這うように時をやり過ごしていたあの頃。


 今あらためて、少女のわたしがこの苦痛にひとりで耐えていたのだと思うと、たまらない気持ちになった。


 つらかったね。

 よくひとりでがんばってきたね。


 あの頃のわたしに、心の中でそっと語りかける。



 ハルキに対する異常な怒りは、嘘のように鎮まっていった。学校を休んでだらだらと過ごす姿を見ても、不思議と腹が立たなくなった。


 今のハルキは、きっとあの頃のわたしと同じ。

 前に進めと言われてもどちらが前かさえわからず、いくらがんばろうとしてもどうにも力が出ないのだ。

 そう思うと、だらけた姿が愛しくすら感じられるのだった。


 しかし、ハルキとの関係は落ち着いても、自我が拡散していくような耐え難い苦痛はなくならなかった。

 次のカウンセリングでそのことを訴えると、阿部はこんな質問をしてきた。


「冬子さんは、子供の頃の温かい思い出ってありますか? そのことを思い返すとホッとするような……」


 わたしは改めて自身の幼少期に思いを巡らせた。

 しかしどれほど当時の記憶をほじくり返してみても、家族との心温まるエピソードなどただのひとつも出てこない。


「それでは逆に、どんな光景が浮かんできますか? 実際にあったことでなくても、冬子さんの心に浮かぶイメージでいいので、思いつくまま話してみてください」


 そう言われ頭の中に立ち上がってきた映像は、だだっ広い家の中にいる幼い自分の姿だった。


 家具もなく人の気配もまったく感じられない寒々とした部屋に、わたしだけがぽつんと取り残されている。


 ふと窓の外に目をやると、遠くの井戸で割烹着を着た母がせっせと野菜を洗っていた。

 母はその手を休めることのないまま、こっちを見て笑っている。

 けれどその姿はなぜか望遠レンズをのぞいているかのように小さくて、まるで現実味が感じられなかった。


 そこでイメージを止めたわたしは、小さく唸った。


 まさにこのとおりだ。

 母はいつも、わたしの気持ちから一番遠いところにいた。

 いや、母だけではない。

 父や祖父、同じ町に住んでいた叔父夫婦、そして学校の先生。

 当時身近にいたはずの大人たちはことごとく、どう関わっていいかもわからない遠い存在だった。


 誰に愛されたという記憶もない、わたしはなんと淋しい子供だったのだろう。



 だが、自嘲気味に口元を歪めたそのとき、記憶の底からぼんやりと浮かび上がってくるものがあった。

 それは、毎年田植えや稲刈りの時期だけ幼いわたしたちの面倒を見るため家に来てくれた、近所の老婆の姿だった。


 真っ白な割烹着を身に着け白髪をきっちりお団子に結い、ふっくらとした頬に笑った形のシワが幾重にも柔らかく刻まれていたおばあちゃん。

 近所と言っても普段の付き合いはあまりない家だったから、彼女に会うのはその数日の間だけだったし、大きくなってからは、顔を合わせる機会も思い出すことすらもすっかりなくなっていた。


 それでも、にこにこと笑いながら「冬子ちゃん」と呼びかけてくれた温かい声と優しいまなざしをあらためて思い浮かべてみると、じんわりと幸せな気分に満たされるのだった。


 今思えば、わたしはおそらく彼女のことが『大好き』だったのだと思う。

 家族に対しても抱いたことのないその感情を、幼いわたしはちゃんと自覚することができずにいたけれど。



「そのおばあちゃんのことを思うと、心が温かくなる感じですか?

 それは、大切にしたいですね」


 わたしの話を聞き終わると、阿部はそう言って嬉しそうに目を細め、こう付け加えた。


「できれば、いつでもそのおばあちゃんのことを思い出せるように、連想しやすい何かを目に着く所に置いておくといいですよ」



 わたしは、おばあちゃんのぽっちゃりとした体つきや両手を腰のあたりで組んでゆっくり歩く姿を、フクロウのイメージに重ねた。

 そして寄木細工のフクロウのストラップを買い求め、携帯電話にぶら下げることにした。



 その日からわたしは、負の感情に支配されそうになるたびに、ストラップを見ておばあちゃんのことを思い出すようにした。


 胸の真ん中に、おばあちゃんの柔らかな笑顔のイメージを置く。


 心の中のおばあちゃんは、わたしが何をしても、いや、たとえ何もしなくても、どんなときも同じようにこう言ってくれる。


「いいんだよ、冬子ちゃん。大丈夫だよ」


 その姿とその声をじっくり思い浮かべるだけで、混乱し委縮していた心がほぐれ、気持ちがスッと楽になる気がした。


 そんな経験を何度もするうちに、わたしは次第にこう思うようになった。

 幼い頃からこういう笑顔がいつもそばにあったなら、わたしはきっと当たり前のように『自分には生きているだけで価値がある』と思える人間になっていたに違いない、と。


 おそらく人は、心の中に温かいものを積み重ねることで、生きる力を得ていくに違いない。辛いとき淋しいときに寄り添ってくれた誰かの温もりがしんしんと降り積もり、その人の根っこになっていくのだ。


 その『誰か』が、血を分けた親であってくれたなら――。


 しかし実際は、ほんのわずかな時間しか顔を合わせることのなかったおばあちゃん程度の温もりですら、毎日一緒にいたはずの母はわたしに与えることができなかった。


 わたしに親はいたけれど、心の中にはいなかった。

 幼いわたしの中には、誰も住んでいなかったのだ。


 いつも自分がからっぽで、軸を失ったまま回転している気がしてならなかったのは、こういうわけだったのか。


 そう思うとなんだか無性にくやしくて、そして悲しかった。


 でも、いいんだ。

 本当の親からもらい損ねた自己肯定感を、これからは自分の力で育てていこう。


 ゆっくりと、そして一生をかけて、これまで失い続けてきたものを、この手に取り戻していこう――。

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