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55 置き去りにされた心

 ハルキの生活は、中3になってからもとどまることなく崩れ続けた。夜更かしと遅刻そして五月雨登校は、緩やかにしかし確実に頻度を増していく。


 わたしは持てる限りの寛容さを振り絞り、すべてを受け入れようとした。

 だがその一方で、毎日学校に行くというごく当たり前のことさえできないハルキを、どうしても許せない自分がいた。


「自分で決めていいよ」


 口ではそう言いながら、心の中ではとことん追い詰めその甘さを思い知らせてやりたい衝動が渦巻く。

 親として決して見せてはならないはずのその感情。

 ときにそれは抑えようもなく溢れ出し、わが子を傷つける言葉を吐き散らしてしまう。


 やがてわたしはすべての感情を切り、ロボットのように淡々と日常生活を送るようになった。そうしなければ、マグマのように熱く激しい毒をハルキに向けて噴き出してしまいそうだった。


 表情のないロボット母に、ハルキは切り捨てられたと感じてしまうだろうか、捨てられたと思うだろうか。

 かつてわたしが父に感じていたように。


 子供の頃、父も今のわたしと同じ言葉を口にした。


「お前がよく考えて決めたことなら、何も言わない」


 そして実際に、子供の選択には決して口出しなかった。


 そんな父を、よくできた人だと周囲の人はみな褒めた。

 しかし、なぜかわたしは父に否定されている気がしてならなかった。「ダメだ」とはひとことも言われていないはずなのに。


 それがなぜだか、今ならわかる。


『お前がしていることはおかしい。いい加減に気づけ!』


 鷹揚に思える父の言葉には、そんなふり仮名がついていたのだ。   


 ダブルバインド。

 怒りを理性で押し殺し、本心とは真逆の言葉を口にしていた父。

 言葉を言葉通りにしか受け取れないわたしは、そうとは気づかないままに父が発するもうひとつのメッセージを感じ取り、混乱し傷ついていた。


 いっそのこと、これは許せないと、おまえが考えていることはおかしいと、はっきり言って欲しかった。

 そうしたらきっと、真っ向からぶつかることができたのに。反抗することだって、きっとできたはずなのに。


 結局父は、本心を押し殺し非の打ちどころのない存在として振舞うことで、わたしの心をがんじがらめに縛りつけていったのだ――。






 次の週、わたしはいつものようにカウンセリングに向かった。


 この一週間で心に生じた変化。ハルキへの怒り、生まれて初めて感じた父への怒り。

 それらの話をすると、阿部は怒りを自分に向けること、すなわち自傷行為のことを尋ねてきた。中学時代にリストカットをしていた時期があると、以前話したことがあったのだ。


 そういえば、ちょうどハルキの年だった。わけのわからない生きづらさに悩み、消えてしまいたいと思うようになったのは。


 最初のうちは、家族が寝静まるのを待ってタバコを吸い、剃刀をうっすらと手首にあてる程度だった。

 やがて傷の深さは徐々にエスカレートし、心のどこかで死を意識しながら、大量の鎮痛剤やタバコを口にするようになった。


 しかし、ひと晩じゅう吐き続けたあとでさえ、わたしは決して学校を休まなかった。

 休めば母に責められ、無神経に心を踏みにじられる。

 それくらいなら、どんなに具合が悪くても、何もなかったような顔をして登校するほうがよほどましだと思えたのだ。


 生と死の狭間を揺れながら、一瞬一瞬をかろうじてやり過ごしていた崖っぷちの日々。

 いつ向こう側にいってもおかしくないギリギリのところで爪先立ちながら、それでもわたしの日常は、表面的には何ひとつ崩れることなく繰り返されていた。


「結局、最後まで誰ひとりとして気づかなかったんですよね。親も先生も、クラスメートも……」


 自嘲気味にそう言って、皮肉な笑みを浮かべる。



 と、そのとき突然、喉元に熱いものがこみ上げてきた。


 とっくに忘れていたはずの耐え難いまでの淋しさが、あの頃のような生々しさで胸を衝く。



 わたしは言葉に詰まりながら、かすれる声で呟いていた。


「どこにも居場所がなかった……。

 

 ハルキが、うらやましい。

 学校を休むことができる。

 自分の部屋で、好きなことをやっていられる。


 ……ずるいなぁ……」


 ぽろぽろ、ぽろぽろとこぼれだす熱い涙。


 ああ、あの頃のわたしが泣いている。

 本当は辛かった、淋しかったのだと。


 そしてわたしは理解した。

 ハルキを許せなかったのは、置き去りにされた15歳のわたし。心の奥にずっと閉じ込められていた、あの頃のわたしだったのだと――。


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