53 苦しみのかたち
「――まあ、わたしも、あの頃はいろいろあったんだけどね」
いつの間にか自分の想いにすっかり入り込んでいたわたしは、かすかに皮肉な響きを帯びたミサの言葉でようやく我に返った。
「え? いろいろって?」
そう問いかけると、口元は笑ったままのミサの瞳に、ほんの一瞬暗い影がさした。
「今だから言うけどさ……うちの父親、アル中だったんだ」
わたしは思わず絶句して、彼女の顔を見返した。
「まともに働かないし、酔っぱらうと暴力振るうし。
母親も精神的におかしくなっちゃってさ、小学生ぐらいからいつもわたしがご飯作ったり弟の面倒みたりしてたんだ。
あの頃はホント、毎日が戦争みたいだったよ」
話の内容に不釣り合いな明るい声で、ミサはアハハと笑う。
「全然、気づかなかった……」
わたしがそう口にした瞬間、ミサの瞳にこれまで見たことのない勝気な光がよぎった。
「だって、必死で隠してたもん。
意地でも友達には知られたくなかったから」
その語調の激しさに彼女のプライドが垣間見え、それ以上わたしは何も言えなくなった。
聞けば、それは中学の頃だけでは終わらなかったという。
高校を卒業し、結婚して家を出てからも、お酒で正気を失った父親と心を病んだ母親は何かにつけミサを頼ってきた。
仕事を持ち幼い子供もいるというのに、彼女はそのたびに何時間もかけて実家に駆けつけ、親の面倒を見続けていたのだ。
やがて長年の無理がたたって、ミサ自身も大病を患った。
しかしそれでも、必死に病と闘いながら仕事を続け、3人の子供を立派に育て上げたという。
数年前に父親が亡くなり子供も独立してやっと落ち着いたから、これからは自分の好きなことをやるんだ。まずは書道で師範資格を取ろうと思って。
そう言って作品の写真を嬉しそうに見せてくれたミサ。
――ああ、この子には、とてもかなわない……。
不幸は人と比べるものではないかもしれない。
それでも、過酷な運命を背負いながらも笑顔を絶やさず乗り越えてきた彼女のことを考えると、甘っちょろい自分が許せなくなった。
その日の食べ物に困ったことも、酔って暴れる親に怯えたこともないくせに。今だって理解のある夫に支えられ、いったい何が不満だというのか。
彼女に比べれば、所詮おまえの苦労など、たいしたものではない。
その証拠に今だって、息子の不登校を嘆きながらもちゃんと普通の暮らしをしているではないか。
おまえは苦しんでなんかいない、ただ甘えているだけだ。実体のない悩みに酔っているに過ぎないのだ。
もっともっと苦労しなければ、誰よりも不幸でなければ、弱音を吐く権利などない。
その声は、ミサと別れてからも頭の中でどんどん大きく膨れ上がり、わたしの心を身動きができないほど固く縛り上げていった。
次のカウンセリングで、わたしは頭の中で果てしなく回り続ける自責の念を、絞り出すように阿部に吐き出した。
「どうしても考えてしまうんです、わたしなんかがカウンセリングを受けて、本当にいいんでしょうか?」
「……それは、どういう意味ですか?」
「今のわたしは、悩んでいるといっても、日常生活が破綻しているわけではないですよね。必要最低限の家事はやれるし、ある程度の人付き合いだってできています。
もし本当に精神的な限界だというなら、普通の生活などできなくなると思うんです。
まだ動けるのに、辛いと言ってカウンセリングを受けているのは、ただの贅沢なんじゃないでしょうか?
もっと苦しんでいる人は世の中にいくらでもいます。
わたしの辛さなんてたいしたことない、自分はもっと頑張れるのにただ甘えているだけだと、どうしてもそう思えて仕方ないんです――」
その想いは、これまでもずっとわたしを苦しめ続けてきた。
苦しいと感じてしまう自分をうまく許すことができない。
自分を許せないことこそがこの苦しみの根源だと薄々感じながらも、その感情をどう扱っていいかわからないままだった。
阿部はわたしの言葉を聞き終わると、悲しそうに顔を歪めた。
そして、ゆっくりと諭すようにこう言った。
「冬子さん、客観的に見て、今のあなたの状態はかなり苦しいと思いますよ……。
それなのに滅茶苦茶になれない、そのことこそが、あなたの苦しさなのだと――わたしは、そう思います」
滅茶苦茶になれないことこそが、わたしの苦しさ――。
その言葉は、息ができなくなるほどきつく締め上げられていた心に、ゆっくりと沁み込んでいった。
そうか、わたしは苦しいんだ。
苦しいと感じてしまってもいいんだ――。




