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50 不本意な娘

 その日のカウンセリングは、こんな言葉で始まった。


「冬子さんが子供の頃は、どんなおうちだったんですか?」


 そう言われてまず脳裏に浮かんだのは、あの家の食事の風景だった。


 テーブルに並んでいるのはごはんとみそ汁、一品だけの質素なおかず。

 張り詰めた重苦しい空気の中で家族6人が食卓を囲み、黙々と食事を口に運ぶ。


 父はいつも黙って日本酒を呑みながら、隣の祖父をゾッとするような暗い瞳で睨みつけている。しかし祖父は、そんな父の視線に気づくこともなく、おいしそうに杯を傾けつまみをつつく。


 ふたりの真向かいが定位置だったわたしは、毎晩その光景を目にしながら食事をしていた。

 味などまったくわからない。ただ一刻も早くその場から逃れるために、大急ぎでごはんを口に詰め込む。


 やがて些細なきっかけで母と祖父が怒鳴り合いの喧嘩を始めると、わたしたち兄弟はその横をそっとすり抜け、逃げるように食卓をあとにする。それが子供時代に毎日繰り広げられていた光景だった。


 一家団欒どころか、口を開くことすらはばかられる緊張感の中で、わたしたち兄弟は厳しく躾けられてきた。

 子供らしい甘えもわがままも一切許されず、ただ、きちんと枠にはまった『いい子』でいることを要求されながら。


 しかし、こだわりが強く融通の利かない性質のわたしは、うまくその枠に収まることができなかった。


 今から思えば、わたしが考えることは、おそらく普通の子供と少し違っていたのだろう。何か言うたび「まったくおまえは頑固者だ」と罵られ、「どうしてそう人の上げ足ばかり取るんだ」となじられた。


 母とは特に激しくぶつかった。

「素直じゃない」「可愛くない」「もう少し姉ちゃんを見習え」そんな言葉で母はわたしを否定し、わたしは精一杯の正論を探してそれに抵抗した。


 父は、そんなわたしを表立って叱ることはほとんどなかった。

 ただ難しい顔をして、ときおりぼそりと呟くのだった。


「冬子は、まったくしょうがねえなぁ……」


 その言葉を耳にするたびに、冷たく重い鉛を腹に流し込まれるような気がした。わたしにとってその何気ないひと言は、耳障りな母の小言の何倍も辛いものだった。



「わたしは父にとって、不本意な娘なんです」


 当時の記憶を訥々と語っていたわたしの口からふとそんなフレーズがこぼれ落ちたとき、阿部はハッとしてこちらを見つめた。


「……どうして、そんな風に感じるんでしょうね?」


 そう、あれから何十年も経つというのに、わたしはいまだに父の暗い瞳を思い出し、そのたびにこう思わずにいられない。

 父が祖父の頑なさをひどく嫌っていたように、わたしも実は父に疎まれていたのではなかったか、と。


 ――冬子は、まったくしょうがねえなぁ……。


 父はそう言いながら、わたしのこともあの暗い瞳で睨んでいたのではないか。


「でもお父さんは、冬子さんにだけ不機嫌な顔を見せていたわけではないんですよね? 不本意な娘、というのは、ちょっと考え過ぎではないですか?」


 確かに、父がどれほど祖父に苦労させられ家族のために我慢を重ねてきたのかを知るにつれ、あの仏頂面は決して自分だけに向けられたものではなかったと、頭では理解できるようになっていた。


 さらに、若い頃には心配をかけたとしても、こうしてちゃんと家庭を築き孫の顔まで見せることができたのだから、お父さんは安心して喜んでいたはずだと周囲は言ってくれた。


 しかしそれでも、心に深く刻みつけられた信念は、どうしても消えてはくれなかった。


 わたしは父にとって、不本意な娘だったのだ。

 わが子だから、やむをえず受け入れるふりをしていただけで。


 その想いは数十年経ってもなお寄せては返す波のようにこの胸を訪れ、わたしを底知れぬ寂しさの中に引きずり込んでいこうとするのだった。

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